第30回 自らの事業を定義することから経営のすべてが始まる。

2013年1月4日

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

自らの事業を顧客中心に定義することが時代の変化に対応する経営をもたらし、事業の持続継続性と業績の発展をもたらす、と看破したのはセオドア・レビットである。1960年の「ハーバート・ビジネス・レビュー」に発表した『マーケティング近視眼』(Marketing Myopia)という歴史的な論文でのことだ。鉄道会社が衰退したのは、自らの事業を鉄道事業と定義していたからで、輸送事業としていれば航空機時代の到来にも適応していたであろう、という有名な事業定義の例示がある。ハリウッドも、自らを映画産業と定義せずにエンターテイメント産業と事業定義していればテレビの普及を脅威とせずに機会としていただろう、という例示も有名である。同様の例としては、レブロン化粧品のCEOのチャールス・レブソンが、「あなたの会社は何を売っていますか」と問われたときに「工場では化粧品を作っていますが、小売店では《希望》を売っています」と答えたというエピソードもある。かつてカラーフィルムのトップランナーだったコダックは、フィルムを売っているのではなく、色鮮やかな思い出を売っていた、という見方もある。

ならば、私たち劇場ホールは何を売っているのか、考えたことはあるだろうか。講演の折にフロアの受講者にそう質問すると、大抵は「楽しい舞台」、「感動」、「観る喜び・聴く喜び」などの答えが帰ってくる。間違ってはいない。間違ってはいないが、それは「観る・聴く」という行為であり、「楽しい・感動」というのは感情の起伏であって、本質的なサービスの効用であるとは言えない。観て聴いて、楽しみ感動して、その結果の効用こそが顧客から私たちに求められているものなのではないか。さらに言えば、民間の施設とは異なり、私たちの働いている公立の劇場ホールは、入場料金や使用料というかたちでの対価を支払う顧客だけが「お客様」ではない。

アーラを例にすれば、およそ年間37万人超の来館者のうち先のような対価を支払っていない人数は、およそ5万7000人と推察できる。読書をしにみえたり、家族でお弁当を持参してランチの団欒を楽しんだり、DVDやビデオを楽しんだり、という市民である。この人々もまた何らかの効用を期待してアーラに足を運んでいるのである。民間の施設は「利潤動機」にそって経営されるものであるが、税金で設置し運営されている公立施設は、地域社会への「投資動機」によって「新しい価値」を生むことを目的として経営されるべきである。だとすれば、「新しい価値」とは「楽しい舞台」、「感動」、「観る喜び・聴く喜び」ではない。「新しい価値」とは何らかの「変化」ではないだろうか。地域社会やそこに生きる人々の価値観やライフスタイルや行動に「変化」という効用をもたらすための持続的・継続的な投資をするのが、地域の公立文化施設の社会的役割なのではないか。「文化によるまちづくり」とはそういう活動の成果目標であって、文化イベントが数多く開催されている、という意味では決してない。そのあたりの誤解は、誰もが「誤解」と気付いていないだけに、それを解くのははなはだ手間のかかる作業となる。

公立の劇場ホールの「投資動機」の経営と、「利潤動機」によって経営されている民間のそれを混同する誤解も、ほとんど誰もが「誤解」と思っていないだけに厄介な代物である。鑑賞に供するために音楽や演劇を上演するという外見的な形態は、公立であろうと民間であろうと同じに見える。しかし、その「動機」と期待する「成果」は大きく異なっているのだ。そのために両者の価格政策の考え方は全く違っている。「収益の最大化」を企図する価格政策と、「収益の適正化」と「投資の最大化」を目途とする価格政策では、両者は重なりようがないほど「別物」なのである。

アーラの経費の例を開示すると、ひとつの劇場ホールを経営していくには、概ねであるが事業費は1億7,000万円、人件費は2億750万円、維持管理費が1億9,000万円、事務費は2,600万円ほどがかかるのである。民間はこれを概ね入場料収入と物品収入によって賄って、さらに収益が出るように価格政策を考える。アーラの公演入場者数で単純に割ると、おしなべて2万円ほどのチケット価格になってしまう。「利潤動機」の民間の劇場ホールではその価格設定には妥当性があるが、公立施設においては、1万円で1,000人なら5,000円で2,000人、2,500円で4,000人の市民が集う価格政策を選択することに正当性があるのだ。くどいようだが、より多くの人々に「変化の機会」を提供することにこそ、その施設の存立理由があるのだ。たとえ4,000円で1,500人でも、つまり損益分岐点である1,000万円に400万円及ばなくとも、その400万は「地域社会への投資」と考えることに妥当性がある。興行資本が可児市に劇場を立てなかったのにはそれだけの事由があるのであって、行政がそのような地域に劇場ホールを設置したということは、「利潤動機」ではない別の目的があると考えるべきなのである。それが、健全なまちづくりのための「投資動機」なのである。「何故儲けられないのだ」という外見上の同一性に基づく誤解は、間違っているばかりか、的外れなのである。私たちは「興行師」では決してないのだ。

そのような視点で私たちが提供するサービスを考えると、私たちの使命は「私たちは《変化機会》を提供している」ということになる。つまり、私たちは、現実、人間関係、生活、価値観をイノベーションする産業であると、自らを「事業定義」できる。「文化のまちづくり」とは、そのような「事業定義」の先に見えてくる成果なのである。すべての公立の劇場ホールは、自らの事業を定義することから再出発すべきである。蔓延する公立劇場ホールへの「誤解」の糸をほぐすのに汗をかくのではなく、その「誤解」の根本から根こそぎ掘り起こして、新しい苗木を地域社会の未来へ向かって植えるべきではないだろうか。