第29回 第二次ホール建設ラッシュ ― 「ハコモノ批判」からの学習がやはり出来ていない。

2012年12月4日

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

2、3年前から、全国各地で劇場ホールの建設が計画されている。合併特例債を利用するものと、昭和40年前後に建設された市民ホールの建て替えによるもので、アーラにも今年度だけで施設建設にともなう視察が10市町に上っている。地域創造のプロデューサーである津村卓氏の話によると、ここ10年のあいだに全国で100館前後は建設されるのではないかということだった。その建設自体に反論するわけではないが、少なくともアーラに視察に見えた各市の計画を見るかぎり「建てること」を目的としているものばかりであり、「経営する」というマインドを感じさせるものは皆無である。90年代の「ホール建設ラッシュ」の再来に過ぎない。過去の失敗が生きていない。「ハコモノ批判」から学習している気配はまったくと言って良いほどないのである。

どこの自治体も建物を造ることには一所懸命なのだが、ホール運営にはさほど関心はない様子である。90年代の失敗から学んでいないと言える。市民を中心とした「運営委員会」のようなものを設けている建設後の運営を考えようとしている自治体もあるにはあるが、劇場経営は、そもそも市民レベルでやれることではない。マネジメントやマーケティングの専門家が、さまざまな調査データや就任が予想される最高経営責任者、自治体の意向、市民からのヒヤリングなどをもとに計画立案をしなければならない。一番困難な問題を市民に投げてしまっているのである。あるいは、計画段階で、公募をして指定管理者を民間業者にしたい意向を持ちながら、「市民ボランティア制度の導入」も併せて考えているところさえある。滅茶苦茶である。

民間業者は営利法人である。営利企業に市民ボランティアはミスマッチである。トヨタ自動車の生産コストを下げるために市民ボランティアを導入するようなものだ。地元の文化協会に委ねようと考えている自治体もある。文化協会は趣味活動をしている人々の統括団体であり、劇場ホールを経営できる能力も技術も持ち合わせていないと考えるのが普通ではないか。数十億かけて建設するそばから、それが無駄になることが分かっている仕組みで劇場ホールを動かそうとしているのである。笑止千万である。

順序から言えば、建設のための委員会より先に経営のための委員会を組成するべきなのではないか。そこが見えてきて初めて、この町にはどのような建物と諸室が必要で、劇場のキャパシティはどのくらいのものが必要なのかが見えてくる。設計の仕様書を作成して、コンペに入るのはそれからではないか。だいたい、このような建設計画の数年前から調査費が付いているものだ。本来は、全国各地のホールを行政職員が視察をするための予算であるが、それは必要はない。全国各地や海外の劇場ホールを見知っている専門家に委ねれば良いだけである。その予算はむしろホール経営を考え、運営設計をする専門委員会のために使われる方が効果的であり、効率的なのではないだろうか。「ともかくも造って、開館すれば何とかなる」とでも考えているのだろうか。「何とか」はならないことは、すでに多くの失敗例で分かっているのではないか。その失敗から何を学んでいるというのだろうか。

市民で構成されている運営委員会で「芸術監督は誰に委嘱するか」が話題や議題となっているケースもある。私から見れば、「誰を最高経営責任者として呼ぶか」が先なのではないか。「芸術監督」より先に「経営監督」である。全国には経営の「け」の字もなしでハコモノに堕している会館ばかりではないか。そこを真っ先に考えるべきところだと私は思う。経営のことを考えられる芸術監督なら、最高経営責任者を置いたうえでという前提つきであるが、必要になることは認める。しかし、最高経営責任者を抜きにして「芸術監督」などいらない、必要ない、なまじいると問題が生じる、と私は確信を持って言える。地域の特殊性をわきまえ市民に寄り添ったプログラムをつくれる芸術家が日本にどれほどいるのか、私ははなはだ疑問を持っている。

比較的事情を知っている英国の地域劇場でも、自身の芸術的志向を優先させてプログラミングした演出家が、その劇場の市民の信頼を失墜させた例を知っている。いつでも賑わっていた劇場が、その芸術監督になってから閑散としてしまったのである。瑣末な例をあげれば、直営のレストランのメニュー構成まで大きく変化してしまったのである。おまけに前芸術監督時代からの経営監督を罷免して、みずから画策して経営責任者を兼務してしまったので、誰も彼の、市民の目線から逸脱する「暴走」をとどめる人間がいなくなってしまったのだ。芸術監督になるには公共的な意識を持っているのが当然と思われている国にあっても、それである。ましてや「公共性」の洗礼を受けていない日本の芸術家にそのような経営ができるのか、と言えばやはり私は慎重にならせざるを得ない。どうしても、芸術監督より先に経営監督、なのである。

では、そのような経営監督が日本にどれほどいるのか。マネジメントとマーケティング、公共政策等をわきまえていて、しかもアーツへの理解がある人間がどれほどいるのか、という質問を受けることが多い。正直言って、ほとんどいない、と答えざるを得ないのが現状である。しかし、サービス業のマネジメント、マーケティングに従事していた経験のある人間ならば、アーツへの理解があり、加えて芸術界の人脈を持っているアドバイザーがサポートするという条件付きで、私は劇場ホールの経営を委ねることはできると思っている。私は建設に向けての視察に来る人たちから「館長は誰を?」という質問を受けることが多い。そういう時には「芸術監督より先に経営監督です」と答えるのだが、「どういう人がいますか?」と言われると、全国紙の一面にマーケティング予算で、採用条件のほかにランニングコストなどをディスクローズした募集広告をかけてみてはいかがだろう、と答えることにしている。施設自体ばかりか、シティプロモーションとしてのマーケティングにもなるし、同時にこんな時代だから相当に優秀な人間が応募してくるのではないかと私は思っている。Uターンばかりか、Iターンも期待できるのではないか。結構、真面目にそう思っている。劇場ホール以外のサービス産業には、相当優秀な人材がいると確信している。何か思い切り大胆な試みをしなければ、この状況をブレークスルーするのは難しい。

「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」いわゆる「劇場法」が成立し、「劇場、音楽堂等の事業の活性化のための取組に関する指針案」(大臣指針)も出た。とりわけ「大臣指針(案)」はかなり踏み込んだものとなっており、公立劇場ホールの現況をブレークスルーする経営への指針が書き込まれている秀逸なものである。これを実効性のあるものとするには、劇場ホールの現場も慣例や前例にとらわれずに大胆な手続きや手法をとる必要がある。グランドデザインを考える想像力の問題である。どれだけ高く、遠くに飛べるかが試されているのである。緻密に計算された大胆な「仮説」を立てることができるか否かなのである。それがいままで全くなかったのではないか。むろん、役所の仕事にはそういう資質は求められない。その真反対の仕事の仕方をする人間が手堅く、評価される。しかし、劇場ホールの経営には180度違う資質が求められる。そのような資質の人間を受け容れる組織風土が自治体立の劇場ホールにはなかったのではないか。ホール建設計画は自治体の組織風土によって主導されて行われるために、「経営」という概念が入る隙間さえなかったのではないか。建設設置後に「ハコモノ批判」を受けたくなければ、自治体は自らの組織風土を自省して、専門家の助言にすべてを委ねるくらいの気持ちで取り組まなければならないと思う。