第49回 私にできることは何だろうか。

2009年7月4日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生


私には十六歳年下になる姪がいます。赤尾和美という名前です。彼女は1999年から、カンボジアのアンコール小児病院で看護師をしています。TBSテレビの『いのちの輝きスペシャル』で彼女の奮闘ぶりが紹介されて、そのひたむきな子どもたちへのまなざしが全国的に反響を呼んだそうですが、残念ながら私は見ていません。カンボジアの前にはハワイで看護師をしていましたから、もう二〇年以上会っていません。昨年「アエラ」で紹介された記事や、彼女の日記をまとめた『この小さな笑顔のために?日本人ナースのカンボジア奮闘記』(朝日新聞出版社)を読んで、彼女の仕事ぶりをうかがい知るくらいです。興味のある方は「赤尾和美」とインターネットで検索してみてください。

医者に診てもらうという習慣のない地域に入って行き、劣悪な医療環境のみならず、貧困、人身売買、育児放棄、性的虐待、母子感染によるHIVなどの社会環境とも闘いながら、カンボジアのとりわけ貧しい人々に必要とされている彼女を、私は心から誇りに思っています。〈患者を病気からだけ捉えるのではなく、全体像を見ること。いろいろなこと(文化、歴史、習慣、経済、ジェンダーなどなど)が背景にあることを踏まえた上で、目の前にいる患者さんを診ること〉、彼女の言葉です。カンボジアという環境に置かれた看護師でなくては、このような視点で患者と病気をとらえる心は育ちえなかったと思います。手術しておなかを開くと無数の寄生虫が湧き出るように出てくる、というような環境での看護という仕事は、病気を診るのではなく、病気の後ろにある様々な社会的矛盾と対峙することを意味します。

もちろん彼女にも、無力感に打ちひしがれて、悄然として立ち上がる気力もうせてしまうことがあったに違いありません。社会的矛盾が生み出す「歪み」に立ち向かおうとすれば、一時的にであっても、そういう状態に陥るのは必然と言えます。つまずいたり、転んだり、立ち尽くしたりは、人間なのだから当たり前です、私たちは生きているのですから。それでもふたたび立ち上がって歩き始めるのも、また人間のならわしと言えます。

私のアーラでの仕事は、何処かで彼女にせっつかれているように思います。「叔父ちゃん、あなたは何をしてきたの」といつもどこかで囁かれているように私には思えます。文化芸術には制度を改める力はなくても、制度によって生じた歪み矯正する力はあります。そういう文化芸術の現場で私は働いているのです。アーラがあることによって、可児が住みやすい、そして心豊かな共生のまちになることが、私の仕事なのだと思い続けています。「えっ、可児に住んでるの」と大抵の東京の知人は呆れたように私を見ます。何を驚いているのか、私は理解に苦しみます。可児に住んでいてよかった、と市民の皆さんが思うようなまちづくりにアーラの仕事で寄与しようとするなら、そこの「船長」たる私が可児に住まなくてどうするのだ、と私は思います。そして私もまた、時に、無力感にとりつかれ、悄然として立ちつくすこともあります。私は得体のしれない大きな力と戦っている、と感じています。蛇口に耳を当てて、水道行政を知ろうとするようなもどかしさはあります。そして、可児に希望を持ち続けるということは、私がたとえ得体が知れないものであっても、それと戦う姿勢をやめないことだと思っています。その姿勢を保ち続けることが、姪の和美の仕事に敬意を表することだと考えています。「私にできることは何だろうか」と考え続け、アーラでそれをひとつずつ実現していくことだと信じています。

先月、文化経済学会<日本>の研究大会がアーラで開催されました。その折、私のアーラでの実践を基調報告として発表させていただきましたが、それを聞いてくださった公共文化施設研究の専門家から「公立文化ホールが過去の呪縛からようやく逃れられるきっかけになるのではないかという気がいたします。全国の公立文化施設に大きな影響を与えると思います。」というメールをいただきました。ありがたいことです。その方がサントリー文化財団から助成を受けて進めている研究チームがアーラを調査しにいらっしゃるそうです。とても励みになります。

でも、私はここで歩みを止めるわけにはいきません。もっと先へ、ずっと先を目指して走り続けなければならないと思っています。姪の和美との黙契をはたすためにも、叔父としての面目を保つためにも、私は倒れるまで走り続けようと意を固めています。