第4回 補助金・助成金とチケット収入のみに依存するリスク-資金調達の多元化でリスクを分散・回避する組織経営を。

2021年8月12日

可児市文化創造センターala シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生

2016年から本格運用が始まった「アーツカウンシルの機能強化」を企図した日本芸術文化振興会運営委員会の特別部会が6月から開催されています。9月末までに、この種の委員会では考えられない月2回都合8回というタフなスケジュールで、2018年に閣議決定された「文化芸術推進基本計画-文化芸術の「多様な価値」を活かして,未来をつくる-」に続く、来年度からの第二次推進基本計画に、機能強化されたアーツカウンシルを位置づけようという考えに基づいているゆえの、いささか密な日程なのだと理解しています。また、今部会では、2011年の「文化芸術振興のための第三次基本方針」から、2013年「劇場法大臣指針」、2017年「改正文化芸術振興法」、同年閣議決定された「文化芸術振興のための第四次基本方針」、2018年「第一次文化芸術推進基本計画」に連綿と、そして一貫して流れる通低音である「社会的価値の創出」と「社会的必要に基づいた戦略的投資」を、どのように現場に即した現実的な政策にダウンロードするかが問われていると、私は考えています。

「改正文化芸術振興法 前文」で「現状をみるに、経済的な豊かさの中にありながら、文化芸術がその役割を果すことができるような基盤の整備及び環境の形成は十分な状態にあるとはいえない」と現況の不十分さを指摘しています。さらに重ねて第一次の「文化芸術推進基本計画」においては、その未達の要因を「社会状況が大きく変化する中で、変化に応じた社会の要請に応じつつ、関連分野との連携を視野に入れた総合的な文化芸術政策の展開が求められている」と、現況が時代環境の変化に比べて、文化芸術の側の意識と制度の変化がそのスピードに追い付いておらず、社会的必要を感受して感応する能力の脆弱性に疎い結果によると重ねて説いています。そして、「関連分野との連携を視野に入れた総合的な文化芸術政策の展開」を、その後段において「文化芸術の『多様な価値』(本質的価値及び社会的・経済的価値)を創出して未来を切り拓き、文化芸術の価値を重視する社会を築く」こととその使命の完遂を促して、取り分け「劇場・音楽堂等は、教育機関・福祉機関・医療機関等の関係団体と連携・協力しつつ、様々な社会的課題を解決する場として、その役割を果たすことが求められている」と、いわば公共財としての、そして公的資金である税金を投入することへの社会的責務を措定しています。その「変化を促す伴走者としての役割」を、アーツカウンシルはアーチストと国民市民に寄り添うかたちで担うべきであると私は考えています。

冒頭のような時系列での流れをあらためて俯瞰してみると、この10年余は、従来からの文化芸術と劇場・音楽堂等が再定義されている大きな転換期を私たちは生きていると実感します。2007年に私が可児市文化創造センターalaの館長に就任して、英国のウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP 現リーズ・プレイハウス)をベンチマークとして「社会包摂型劇場経営」を標榜した時期は、まさにその「再定義」の前夜だったのだと、いまにして振り返ればそのめぐり合わせの不思議さに何か運命的なものを感じてしまいます。少なくとも、この転換期の時代が求める文化芸術の新しい付加価値への認識は、すべての文化芸術関係者、劇場音楽堂等関係者は共有しなければならないと、私は強く主張したいのです。その思いを強く意識したのは、昨年4月の緊急事態宣言発出後、盛んに喧伝された「不要不急」の枠内に文化芸術や劇場音楽堂が組み込まれたことが直接的な原因です。私は可児市の劇場を統括するようになってから、一貫して劇場経営の心柱にしてきたのは、すべての可児市民にとっての「拠り所としての劇場=人間の家」でした。平時はむろんのこと、地域社会全体ばかりか、極私的で個的な有事の際にも、その存在を癒し、彼らのシェルターとなり、自己肯定感を育み、苦難を跳ね返すレジリエンスの砦となる磁場でありたい、という想いでした。2011年から2018年まで数次にわたって繰り返される「文化芸術の社会包摂機能」と「社会的必要に基づいた戦略的な投資」の文言は、私の劇場経営にとっても通低音のように鳴り響いていました。

現下のコロナ禍にあって、世界の知性であるジャック・アタリは文化芸術や劇場ホール、美術館等の文化産業を「vital industry」(生命維持に不可欠な産業)と位置づけたことは前回にも述べましたが、これは、宇沢尚文先生の唱えた「社会的共通資本」(Social Common Capital)の定義とほとんど重なります。2000年11月に岩波書店から出版された『社会的共通資本』の中で先生は「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置」と、「社会的共通資本」を定義しています。また、先生の作成されたプレゼンテーション資料では「社会的共通資本」を「社会全体にとっての共通の財産であり、それぞれの社会的共通資本にかかわる職業的専門家集団により、専門的知見と 職業的倫理観にもとづき管理、運営される」、そして「一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由を最大限に確保できるような社会を志向し、真の意味におけるリベラリズムの理念を具現化する」とも定義しておられます。文化芸術は決して「不要不急」なものではなく、まさしく「生命維持に不可欠な社会的装置、社会的制度資本」であるのです。詳細は館長エッセイ時代の2019年1月アップした『社会的共通資本としての劇場音楽堂等と芸術文化を ― 成熟社会の綻びを回復に向かわせるために』(https://www.kpac.or.jp/ala/essaylist/eiessey202/)を参照してください。

しかしながら、「第三次基本方針」からのおよそ10年のあいだにも、変化を受け容れない文化芸術業界の保守的な時代認識の根強さに、時には失望することが度々ありました。2017年(2016年度)2月の世界劇場会議国際フォーラムに可児までいらして、個人の資格で参加した文化庁の上級幹部の方から、改正される文化芸術振興法の原案を館長室での雑談の際に示されました。その改正される文言を一読して私は、「この本質的価値とは何ですか?」と思わず質問しました。私は90年代から、文化芸術や劇場ホールを「芸術的評価、社会的評価、経済的(財務的)評価」の3つの評価軸で、そのパフォーマンスや団体集団及び劇場ホールの存在意義を総合的に価値判断して、当該団体のガバナンス能力を評価すべきと書いてきました。その考えに確信を持ったのは、95年の阪神淡路大震災の時に「神戸シアターワークス」を組成して子どもたちの心のケアと、放置すれば孤立しがちになる仮設住宅での生活の中での「つながり」づくり、すなわちコミュニティ形成をミッションにした4年間の活動をしたことでした。97年に上梓した『芸術文化行政と地域社会』でも、その3つの評価軸に触れています。私の質問に対する上級幹部からの答えは、「芸術的価値を、社会的価値・経済的価値と並列に表記することを芸術の側の人たちからの強い拒否反応があって、芸術的価値を『本質的価値』に差し替えざるを得なかった」というものでした。

2014年の世界劇場会議国際フォーラムの挨拶文に、私は「文化政策は保護政策の2.0から社会的必要に基づく戦略的投資として『変化』という価値を求められる3.0へと大きく舵を切りました。劇場音楽堂等と芸術団体関係者には、求められるのが芸術的価値のみならず、社会的価値と経済的価値が等価並列となり大きな戸惑いが生じています。その「変化」を前にして不平を言うなら、その前に私たちこそ『変化』しなければなりません」と書きました。しかしながら、2013年「劇場法大臣指針」にあれだけ具体的な機関名を列挙して多様なプレイヤーが協働して社会課題解決に取り組み、その投資効果を最大化するための枠組みである「コレクティブ・インパクト」を指し示しているにもかかわらず、2016年の文化芸術振興基本法改正を議論する段階にあっても、芸術団体関係者の一部(と信じたいが)には、時代環境の変化によって社会的必要そのものにも変化が当然生じることに対して、なおも芸術聖域主義、芸術至上主義にしがみついて、頑なに自らの変化を拒んでいる抵抗勢力が存在していることに、私は失望を禁じ得ませんでした。私はアーチストにも「変化」を求めますが、この頑なさの大本は音楽団体の事務局、演劇団体の制作者たちのinsensitive(感応性が芳しくない)が主たる原因であり、元凶だと思っています。前回書いたように、このままでは「茹でガエル」になるのを待つだけの、狭隘で限定的なマネジメント&マーケティングしかできないのは火を見るより明らかなのです。そのような人間は「不要不急」の繭玉の中で惰眠を貪るしかない、明治期の「欧化政策」以来、何もイノベーションを起こさない、いわば時代の進捗とは逆行している類の業界人でしかない、と私は断言します。実を明かせば、アーツカウンシルの機能強化を企図した日本芸術文化振興会運営委員会の特別部会でも、同様の問題があります。つまり、分母になるべき「変化」に対する感応性がまだら模様であり、議論があまり生産的とは言い難いのです。閑話休題。

そのような頑迷な保守的業界人であっても、文化芸術に関連するサービスが、音楽にあっても、演劇にあっても、その他の分野でも、「共感」をベースに成立していることに異論を差し挟む者はおそらく皆無であると思います。かつて世界劇場会議国際フォーラムのキャッチコピーに「性で差別しない、肌の色で差別しない、職業で差別しない、年齢で差別しない、障害の有無で差別しない、そして忘れてはならないのは所得の多寡で差別しない」を掲げて、その原則が文化芸術という分野で貫けているのは、「共感」を触媒として「共創価値」という価値共有が醸成されて多様なそれぞれの生活環境と境遇を、それぞれの個性として受け入れ、その違いのある個性を持った「いのち賑わう」場が創られるからだと他ならないと考えていたからです。文化芸術と劇場音楽堂等は、この「共創性」(Co-creativity)という「プラットフォーム型の商品特性」を持っており、それこそが文化芸術や劇場音楽堂等という業態の最大の「強み」であることを、私たちは経営上でも、マーケティング・デザインを描くうえでも、政策立案をするうえでも、強く自覚しなければならないと考えます。文化に関わる法律、政策の方針・指針は、その大前提なしには、何を、どのように書き連ねても、空文句に過ぎないと私は長年思って来ました。

そして、共感をベースとした文化芸術サービスが社会的価値を醸成して、社会課題を解決に向かわせることが、社会全体からの信頼(Social Brand)を高度化して舞台芸術と劇場音楽堂等の財務環境に変化をもたらすというのが、マイケル・ポーターとマーク・クレマーが『ハーバード・ビジネスレビュー』で提唱したCSV(Creating Shared Value 共創価値経営)という経営戦略であり、従来から社会的価値と経済的価値の両立はトレードオフ(二律背反)であると信じられていた「経営の常識」を、CSV前段となる「Strategy and Society」(邦題 「競争優位のCSR戦略」)で、彼らは「戦略的CSR」をはじめて提唱しました。彼らの「競争優位のCSR戦略」と題した論文が、そのトレードオフと信じられていた「常識」を一蹴したと言えます。社会的価値を創出することが、同時に経済的価値をも生み出すことになると、従来からの定説を覆したのです。つまり、社会全体からの信頼(Social Brand)の高度化が、資金調達源の多元化をもたらし、文化庁をはじめとする文化機関からの補助金・助成金とチケット収入のみに依存して、経営リスクを分散化できない劇場音楽堂等と芸術団体の脆弱な収支構造と財務体質を改善できる可能性がある、とポーターとクレマーは主張したのです。

その根拠としては、この理論のよき理解者である慶応義塾大学大学院経営管理研究科の岡田正大教授は、製品やサービスの「社会経済的収束能力(socio-economic convergence capacity)」」という概念を措定して、以下のように定義しています。います。「1)自社の製品サービスが有する社会性を用いて外部非営利組織(非営利団体、政府、国際機関等)からの資源獲得(提携協力や補助金等)を可能にする能力、2)自社が事業に投入する、より経済目的の強い経営資源やノウハウを、自社の社会的成果へも結実させる能力、3)自社や提携する外部非営利組織が事業に投入する社会目的の強い経営資源やノウハウを、自社の経済的成果へも結実させる能力を意味する」となります。そして教授は「この社会経済的収束能力とは、いかなるビジネスに対しても一般化可能な概念である」と書いています。

私は、「共感」をベースに成立している文化芸術サービスは、この「社会経済的収束能力」を他と比較してより強く帯びていると思っています。しかもサービスが成立し完結するには共創性が必然となって、自分以外の「誰かとの共創性」(Co-creativity)という「プラットフォーム型商品特性」があるということは、すなわちそのサービスが社会性を前提として成立しており、そのうえ経済的価値をも包括している対人型サービスであるということなります。さらに、欠乏動機の薄れた社会にあって、消費性向が、時代とともに人間、社会、地球環境のことを考えた「倫理的に正しい」消費行動やライフスタイルに傾斜してきている環境の変化が、文化芸術サービスの「社会経済的収束能力」の高度化に、一層の拍車を掛けていると言えます。その「強み」を存分に活用して、経営基盤の脆弱性を克服するべき時だと私は思っています。

昨年末に文化庁から補助制度として発表された「収益力強化事業」は、おそらくは「ネット配信に対する補助金交付」を想定したものと思われますが、私どもは資金調達の多元化による経営基盤の強化と捉えて、試行的に「まち元気そうだん室」を設けて、それまでも「私のあしながおじさんプロジェクト」及び「私のあしながおじさんプロジェクトFor Family」に地元企業団体・個人から一口3万円で年間40数口の浄財が寄せられていた寄付のスキームを、初めてSDGsの冠をつけてナショナルブランドの一般民間企業にまで拡張しようと企図しています。これはまさに芸術文化サービスの「強み」を活かした、CSVと社会経済的収束能力を梃子とする経営基盤の強化をゴールとするプロジェクト・デザインで、劇場経営のイノベーションの一環となる発想です。「茹でガエル」にならないための処方箋に沿った経営戦略の展開です。

また、私たちは、すべての国民から強制的に徴収した税金で支援され、設置され、運営されていることを、すべて経営行動の念頭に入れるべきです。いわば、「社会的必要に基づく戦略的投資」は、ESG投資と同等の「社会的責任投資」でなければならないと考えています。したがって、劇場音楽堂等と芸術団体は、最終受益者であるすべての国民市民の利益となるようなミッションに沿って未来を創造する機関であるべきと思っています。でなければ、文化芸術と劇場・音楽堂等はいつまでたっても「不要不急のサービス」でしかなく、そこから抜け出す契機は、未来永劫、決して持てないでしょう。芸術文化振興基金は長引く低金利政策によって果実を望めない事態に陥っています。また、私が理事を務めさせていただいている日本劇団協議会も、コロナ禍による加盟劇団への負担軽減のため、管理費の逼迫という緊急事態となっています。これらの財政危機を乗り切るには、従来からの発想から脱してみずからのサービスの「社会経済的収束能力を「強み」として、あらたな支持層と支援機関を開拓する「次の一手」に踏み込むべきだろうと、私は強く思うのです。「変化」には、痛みも摩擦もともないます。それを怖れていては、「茹でガエル」になるのを待つだけなのです。

最後に、この私の考えを2019年の世界劇場会議国際フォーラムの折の基調講演の「社会包摂」に関するパワーポイントのシート部分を掲載して、あらためて考える機会としたいと思います。

随筆 言の葉のしずく
第4回 天婦羅は何で食べるか?

妻が勤め先からの帰りに、デパ地下に寄って稚鮎の天婦羅を買ってきたことがあります。下北沢の駅前には、イオン系のピーコックストアというスーパーはあるのですが、私が20代の頃にオープンして、その頃は大丸系の店で品質も良く、評判になったことはあったのですが、近年は、とりわけ魚介類等の生鮮食料品に満足できるものが少ない。そこで私の好きな貝類の品揃えが良い新宿・京王デパートの地下食料品売り場で食材を買ってくることが多くなっています。そこで「稚鮎の天婦羅」に何をつけて食するか、が食卓の話題になりました。

私は小学生の頃にあった住まいに隣接してあった中央百貨店と大仰な名前のついた、小商店の集合施設の一角にあった二坪程度しかない、戦争未亡人が一人でやっていた惣菜天婦羅の店のごぼうの天婦羅が大好物で、生醤油をかけて何杯もご飯を食べたものでした。両親の介護が終わって、30歳を過ぎてから自由になるお金が少しだけ出来るようになってから、初めて天婦羅の名店と言われる店でお座敷天婦羅とやらに先輩と行きましたが、あの「天つゆ」につけて食べても美味いと思えたことは一度もありません。せっかくの衣のパリパリを、なぜ天つゆでシナシナにさせるのか、理屈が分かりません。だから、私は「天然塩」を降りかけて食します。「醤油」は名店には置いてなさそうですし、頼むのは「無作法」ではないかと臆しているのです。でも、やっぱりご飯なら醤油に限ります。

妻は味噌汁に天婦羅を投入します。これは私にも経験があって、早稲田大学の大隈会館そばの学食には「天ぷらラーメン」というメニューがあり、海苔とナルトだけが無造作に盛られた素ラーメンが25円のときに30円で食べられました。これが天ぷらの油が程よく溶けて、実に美味くて、懐具合の悪い学生には、これに並ライスを頼めば、19歳の腹でも幾分持ちこたえるだけの腹持ちと舌の双方を満足させてくれました。むろん、天ぷらと油の溶け込んだスープは飲み干しました。とは言っても、時たま入る立ち食いソバやではかき揚げ蕎麦は頼みません。油が良くないのと、衣ばかりでボッテリとしていて「あの味」には程遠いからです。

それなら、虫プロダクションの江古田スタジオに勤務していた頃に三波春夫邸の差し向かいのあったカウンターだけの小さな天ぷら屋さんの「天婦羅茶漬け」の小柱天婦羅のサッパリとした油の溶け方と味の方を選びます。あれはダシ味と塩味と油の溶け具合が絶妙で、世の中こんなに美味いものがあったのだと感動した記憶がいまだにまだはっきりあります。私は「天つゆ」よりも、育ちのせいかやっぱり「天婦羅ラーメン」か「天ぷら茶漬け」ですね。