第47回 花の季節が終わって。

2009年4月20日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生


アーラの西側を愛知用水が流れています。その水面一面を薄桃色に染めて、桜の花びらがたくさん流れていました。上流の何処かから流れてきたのでしょう。咲き誇る桜もきれいですが、水面を彩る桜もなかなかの美しさです。「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生さ」は井伏鱒二ですが、この名文句を青春の蹉跌のたびに思って心をなだめて生きたのが、寺山修司さんでした。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし. 身捨つるほどの祖国はありや」の、あの寺山さんがさまざまな訣別に翻弄されたときに「さよならだけが人生さ」と踵を返すように生きてきたと思うと、この歌人の深い絶望とため息を感じます。「生きること」は裏切り、裏切られることでしかないと、少し哀しくなります。

寺山さんが荻窪の河北病院で亡くなったのは五月の新緑の頃でした。私は唐十郎さんの状況劇場での劇団員への授業を終えてから、唐さんの「寺山の見舞いに行こう」という提案で、私の車で河北病院に向かいました。状況劇場の稽古場と河北病院は同じ杉並区にあり、車で20分ほどの行程でした。病院についてまっすぐ寺山さんの病室に行ったところ、劇団員の偏陸さんがポツンと病室の前の廊下に出した椅子に座っていました。寺山さんの病室は確か廊下の突き当たりだったと記憶しています。窓から五月の眩しい陽光が射し込んでいました。偏陸さんは逆光で影になっていました。窓から見える木々の新緑が、五月の強い光をなだめるように風に踊らされていました。

無言で私たちを見た偏陸さんの姿で、寺山さんが亡くなったことを、ごく普通にそれとなく察しました。病室の空になったベッドには、畳まれた布団がうずたかく積まれていました。白いシーツからの照り返しが病室の虚空を必要以上に明るくして、主のいなくなったベッドの寄る辺なさを強調していました。少し前に遺体安置室を出て、麻布一番の天井桟敷に向かったとのことでした。私たちは無言のまま車に引き返し、すぐに麻布一番に向かいました。

私は散った桜を見ると、あの病室の眩しい陽光を思い出します。アーラの西側にある職員通用口の階段の隅に桜の花びらが風に吹き寄せられていました。「花だまり」という言葉があれば、まさしく「花だまり」でした。その「花だまり」を見ながら、寺山さんがいなくなったあの病室の眩しい光を思い出しました。私は桜の散る光景から「さよならだけが人生さ」という文句は思い浮かんできません。むしろ「驕る平家は久しからず」と感じます。盛りはいっときで、すぐあとに眩しい陽光をなだめるような新緑の芽吹きの季節がくる。ぱっと明るい風景の分だけ、寺山さんの病室を思い出すせいかちょっと不吉な感じもします。「花だまり」から「驕る平家は久しからず」と自らを戒めにする人間はちょっとおかしいでしようか。

花といえば、私は花の盛りに、盛りのままに落花する椿に夭折した詩人や無名の若者たちの生を重ね合わせることがあります。そのさまを舞台で使ったのが蜷川幸雄さんで、彼の初期の演出作品の『元禄港歌』には強烈な印象があります。安倍保名に恋する信太の白狐のいわゆる「葛の葉伝説」を下敷きにした舞台で、里の男に惚れてしまった盲目の三味線芸人の瞽女さんのかなわぬ恋の物語です。舞台の上の方が椿の森のようになっていて、芝居の進行中にボタリボタリと花の盛りの椿が一輪ずつ落ちてくるのです。最後は商家の座敷一面が椿の赤で埋め尽くされる演出でした。とうてい結ばれようのない里の男への想いを宿命のように生きる女芸人の哀しさが、鮮やかな椿の赤で表現されていました。

アーラでは、5月の第2週の日曜日の母の日に、「アーラからの母の日プレゼント」としてファミリーで楽しめる演劇や音楽の公演をやっています。今年は動物たちが演奏するズーラシアンブラス&弦うさぎで、その時にアーラは子どもたちに赤いカーネーションをプレゼントします。昨年は『胆っ玉おっ母とその子供たち』という演劇の公開舞台稽古で、終演後、出演者が100人ほどの子どもたちにカーネーションを手渡ししましたが、今年の予測では400人くらいへのプレゼントになりそうです。大変な出費ですが、音楽を聴いたあとにカーネーションをプレゼントされたというアーラでの思い出が子どもたちの記憶に残ってくれれば、安いものだと思っています。