第211回「評価」は学びと更なる発展の機会、理解できない「ヒョウカ・ヅカレ」の言説。

2020年12月12日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

九州大学大学院芸術工学院ソーシャルアートラボの中村美亜さんを中心とする、文化庁委託研究チームのズームによる「有識者委員&実行委員会 合同会議」が先日にありました。美亜さんはむろんのこと、長津結一郎、大澤寅雄、熊倉純子、朝倉由希、落合千華の各氏をはじめとする錚々たる文化政策の専門家の顔が揃っていました。中間的なセッションであったので、何らかの到達点を設けない意見交換ではありましたが、今後の考える方向性を示唆して課題共有ができたという点と「評価」における「負の側面」も焙り出されて、とても建設的な結節点となったと、私は総括しています。最終回である次回の議論をとても楽しみにしています。

ただ、今回も「評価疲れ」という違和感を覚えるという言葉が出てきたのには、日本におけるこの問題の現在的な、そして構造的な錯綜した課題が存在することを明示したように思えます。縺れて絡まりあったこの糸の、ほつれさせる糸口を見つけるのには、相当の労力と時間を要すると感じました。熊倉さんの「評価」とは別の言葉で「evaluation」を言い換えられないか、との発言も、「評価」の役割を認めながらも、その言葉の持つニュアンスに私たちが持っている印象への苛立ちがある、と私には思えました。おそらくこの感情は、同席した全員が濃淡の違いはあっても、感じている忸怩たる思いなのではないでしょうか。昨年9月25日にお茶の水のワイム貸会議室で開催された公開研究会『文化事業の評価——現場×行政 それぞれの視点をつなぐ』でも、確か大澤寅雄氏の発言の中に「現場からは評価疲れの声が上がっている」という趣旨の提起があったように記憶しています。私はそのタームに非常に違和感を持ちました。おそらくですが、「使ってしまった1年分の小遣い帳を書かされる」とか「夏休みの宿題を8月30日から始める」というたぐいの、「評価」への忌避感なのではないでしょうか。企画当初からビジョンとミッションに沿ったかたちで「評価プロセス」を踏んで計画を進めれば、何が奏功したのか、何が要因で求めたものが達成できなかったのかの「見える化」が比較的容易になり、カンパニー内での認識と展望の共有もできます。

政府自治体が文化芸術に資金支援を始めてからまだ30年しか経ていないのが「評価疲れ」の一因であるかも知れません。そして、劇場音楽堂等は「芸術拠点形成事業」から15余年しか経っていないのです。国と自治体からの公的資金のみならず、企業メセナによる準公的資金援助に対する責務の一つである「報告」と、いまひとつの資金提供によって今後の「展望と発展」がどのように担保できたかのコミットメントが、事業団体を持続継続的にするためにはマストであることが意識されていないのではないか。さらに近年、劇場音楽堂にも芸術団体にも、「芸術的評価」と「経済的評価」と「社会的評価」が求められるようになりました。これは非常に良い兆候だと高く評価しています。どれ一つ欠けても、公的資金と準公的資金を使うことは憚れるのです。しかも、ファンドレイジングの世界では、社会貢献型マーケティング(cause related marketing)共創価値マーケティング(creating shared value)が常識的に求められているのです。いかに社会全体に多様な利得を還元するかに応えられなければ、私的な資金で活動すべき時代環境なのです。記憶に新しいオペラ統括団体やバレエ団体の不正も、公的資金によって援助される公共的な意味に対して、無関心であるか無知であったからだと、私は断言します。いまでに度々耳にすることのある「私たちは国や自治体から援助を受けて当然」などとは、決して欧米の劇場や芸術団体は言いません。しかも、事業を年々改善することに必死で取り組んでいます。その経営努力を目の当たりにすると、日本の劇場音楽堂と芸術団体は、世界一傲慢なのではとの気持ちが過ります。

私たちは「評価」を語るとき、「評価する」と「評価される」という二項対立的な立場から「評価」を考えます。「evaluation」は、批評を表す「critique」とも「review」とも峻別されます。「critique」と「review」には、批判的に言われる場合に使われる「印象批評」という言葉があるように、第一人称であっても一般的には許容されて、客観的なエビデンスは必ずしも必要とはされません。80年代の野田秀樹さんの夢の遊眠社本多劇場公演の折のパンフレットだったかロビーに張り出した壁新聞だったか失念しましたが、前回公演の有力五紙の劇評が並べられていて、いかにも「同じ舞台でも演劇評はこんなに違っている」とでも言いたげな、「ヒョーロンカ」不要の論陣の一端を担ぐものでしたが、「critique」も「review」は違っていてこそ健全なのであり、批評とはある人間が「一つの観方」を提示するしかないのであって、第一人称である、すなわち多様であることこそ健全なのです。当時は私もその当事者である「ヒョーロンカ」でしたが、野田さんかプロデューサーの高萩さんか、どちらかの指示だったのでしょうが、「無知蒙昧」「恥をさらしている」とその時に思ったものです。閑話休題。

それに対して「evaluation=評価」は、より第三人称に近く、客観的なエビデンスを抽出することにプライオリティが置かれなければいけません。「印象評価」というタームは、まったくもって「不可」なのです。目的から言って、ありえないのです。語源的には、evaluer(価値を見出す)+-ation(~すること)であり、「評価を下す」という日本語が日常で使用されるように、そして「評価する」と「評価される」という二項対立的な立場をうかがわせる用法があるように、何故か上下の立場が透けて見えるように、「評価」という言葉は日本語では用いられています。

しかし、「評価」とは、本来的には「価値を見出す」ことであり、転じて「価値を再確認する」ことであり、それは同時に「価値を再構築する」ことに連なることであると、私は思っています。先日も、劇場音楽堂機能強化事業総合支援の実績報告書を、シフトを縫って課長・係長クラスの3名の職員とおよそ1ヶ月をかけて完成させたのですが、時間と労力は大変でしたが、私たちの仕事が「いま、どのような向きに帆を張っているのか」、「市民に必要な施設との認知を得るために、優れた変化を導き出すには舵をどのように切ればよいのか」等々、職員たちには発見の多い報告書作成のプロセスだったようで、次年度以降の課題が見えてきたという「気付き」もあった様子です。私にとっても、たとえ館長を辞すといっても、これから可児市文化創造センターalaがさらに市民の皆様の支持を得て、そのはるか先には「不要不急」から最も遠いところに在る劇場を国民による社会的認知のもとで存立させるために、「何を為すべきか」あるいは「何を為さぬべきか」の輪郭が獏とですが見えてくる楽しい作業プロセスとなりました。「評価」は、自分たちの価値を発見するプロセスであり、これからの自分たちの発展の道筋を照らす明かり」であると、私は劇場経営を進めてきました。時間と労力から言えば「疲れる」作業なのは間違いありません。しかし、その反対給付は、必ずや実り多い将来を約束するものであり、当然なが゛ら当事者には心躍る作業プロセスとなります。

熊倉氏の言うように、「評価」という言葉がまとってしまっている手垢のようなものを拭える新しい用語があればよいのですが、これは難題と思われます。しかし、「評価」がきわめて生産的であり、WIN-WINの関係を構築する結果をもたらすと意識改革をすれば、「評価」は旧い衣を脱ぎ捨てられるのではないでしょうか。