第207回 試されている私たち、何故「社会を守る」が機能しないのか   ― 「つながりの貧困」と「想像力の減衰」を克服してインクルーシブ・レガシーへ。

2020年4月15日

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

私は自分を「臆病者」だと思っています。「臆病者」であるからこそ、アーラの館長をお引き受けし、40年間の演劇界での仕事を通してがんじがらめに囚われていた「劇場の常識」を破って未知の領域に踏み込もうと意を決した時、それが失敗して最悪の事態に至った時のことを突き詰めて考えました。知事の交代で凍結されてしまったが、北海道劇場計画に関わっていた際に獲得していた劇場のグランドデザインと経営ノウハウのDNAを若い人たちに引き継いでもらおうと宮城大学・大学院のゼミでの仕事を引き受けたときから、もう劇場経営に関わることはないだろうと思っていたので、「ここでの仕事を遺書のように」と就任依頼で東京にみえた当時の局長と総務課長に告げました。自分自身の囚われている「劇場の常識」を打ち破らない限り、劇場や文化芸術は、何処まで行っても愛好者のみを対象としたサービスを供給することに終始して、不要不急の産業領域にとどまることを余儀なくされてしまう。私の理想とする劇場は、98年にまさに遭遇したウエストヨークシャー・プレイハウス(現:リーズ・プレイハウス)の市民と劇場が切り結んでいる信頼関係であり、市民生活の健全性のたとえ一部でもしっかりと担保している劇場と文化芸術の在り方でした。

つまり自分自身の「常識」を打ち毀すための作業を進めながら、その前年に上梓した『芸術文化行政と地域社会』で構想した文化芸術の公共性獲得のための「工程表」を一方でにらんで、真のパブリックシアターを日本に出現させることでした。それは大きなリスクを抱え込むことでした。リスクマネジメントとは、新しい仕組みを設計して現状をブレークスルーしようとする高揚感に決して浮かれないで、最悪の事態になった時にどのような方策で対処するか、それをどのようにして乗り超えるかを自身の科学的思考に裏打ちされた確信にそって熟慮することだと考えています。絶対にアンコントロールにならないセーフティネットを張り巡らせておくことをしなければなりません。このあたりのアーラを作り直すための「設計図」は、ウエブ内の、就任直後からおよそ9か月間で書いた『集客から創客へ☆回復の時代のアーツマーケティング』(https://www.kpac.or.jp/kantyou/ronbun-all.html)がすべてです。アーラで次々に始めたそれまでの「劇場の常識」を打ち破った様々な仕組みを、私はヨーゼフ・シュンペーターの「創造的破壊」と自認していますが、それを立ち上げて、定着させて、全国に影響を及ぼし拡張させるためには「臆病者のリスクマネジメント」は絶対に不可欠だと思っています。

表題は小池東京都知事の4月4日の記者会見での発言、「自分を守る、家族を守る、そして社会を守る」からの一部引用です。日英共同制作『野兎たち/Missing People』の英国・リーズ公演から帰国して、自宅待機したのち、2週間目の3月31日に可児に戻ったのですが、自宅へのタクシーの運転手さんに可児の様子を訊いたところ、夜の飲食店は壊滅的とのことでした。数日してなじみの店にランチに行ったのですが、午後1時を回っても通常は営業しているのに店は閉じていました。気になってメールをしたところ、客が来ないので午後一時に店を閉じたということ。そして、3月30日に志村けんさんの急逝が報道されたのを機にしてあっという間に潮が引くように客足がパッタリと途絶えたということでした。

私は2週間の自宅待機の折に、可児に居を移してから10数年行っていない彼岸の墓参りと、掛かりつけ医に常用している数種の薬をもらうために下北沢の家を出ました。墓参りは公共交通機関を避けて車を使い、病院には、下北沢の街を歩いて行ったわけですが、「不要不急の外出自粛」が言われているのに下北沢の街はいつもと同じような賑わいで、尋常ではない違和感を持ちました。「不要不急」とはどのような意味なのかを放送しているワイドショーにも腹立たしさを覚えていました。多くの都民はコロナを「自分事」ではなく「他人事」と思っているようでした。「若者の街シモキタ」ですから、当然多くは10代、20代の若者たちと東アジア系の外国人旅行者なのですが、若者たちは「自分たちにはうつらない」と思い込んでいるようでした。それよりも、もちろん私自身が危険領域の高齢者になっていることもありますが、PCR検査の絶対数が少ないのですから、若者でも感染者でありながら無症状者がいるはずです。「自分はうつらない」よりも「自分はうつさない」の気持ちの方が幾層倍も大切なのに、と忸怩たる思いに駆られました。その頃のニュースでは、上野の桜の下で花見の宴会をする何組もの中高年の映像が映し出されていました。いい歳をして「自分さえよければ」の不心得者だと画面を睨みつけながら憤っていました。

「虚空に楔を打つ」の如きものかも知れませんが、「自分はうつらない」ではなく、「自分はうつさない」の心構えが、公徳心、利他的なつながりを軸にして社会を営む上での最低の倫理観なのではないでしょうか。しかし、「公徳心」、「利他的」、「社会倫理」、「つながり」、いずれも「何て古臭いことを言っているんだ」と笑い飛ばされて軽く一蹴されそうな社会です。「今だけ、金だけ、自分だけ」の新自由主義経済の価値観に蝕まれた大多数の人から見れば、そのような言い草は、他愛もない戯れ言であり、仮にあれば、の話ですが「良心」の片隅にも置かれていない意識と価値観なのではないでしょうが、それなら「なぜ私たち人類は社会をつくってきたのですか」と、これもいささか青臭いと言われそうですが、素朴に問いを返したいと思います。

「公徳心」、「利他的」、「社会倫理」、「つながり」は社会の中で生き抜いてきた私たち人間が、その存在自体が本来的に持っている生き抜くための「生理」であり、いわば本能であり、他者との関わり方をあらわす語彙です。それらは「見えない社会保障」(informal security)です。それらを形成する動因は、他者に思いを馳せる「想像力」と、その他者と事象の生きざまや背後にある物語を紡ぐ「創造力」にほかなりません。「気配り」、「気遣い」、「思いやり」、「気働き」は他者とのつながり方を言い表す言葉です。「いまだけ、金だけ、自分だけ」の価値観は「想像力」と「創造力」の減衰及び欠如によって呈する、社会のいわば「病理」であり、さかのぼること数十年の間、じわじわと侵され続けてきた拝金主義、経済第一主義という「感染症」のなせるものだと私は強く思っています。行きつけの飲食店の店主の「志村さんの一件から」の発言は、この「想像力」と「創造力」の国民的な欠落を如実に物語っています。90年代の文化行政及び私のような評論家・研究者は、短期間に激増した劇場ホールの社会的機能としてともに「コミュニティの再生」と「コミュニティ構築」を政策目的にと盛んに提言をしていました。「コミュニティの機能不全」と「つながりの希薄化」が社会問題となっていたこともありますが、激しい「ハコモノ批判」に対しての弥縫策としても言い募られた面を否定はできません。しかしながら、いまとなっては「つながりの回復」の処方箋たる文化芸術の機能を見極めていなかったことが主因で、「イベント型の自主事業」、地域においては「レシービングシアター」への中央からの補助に偏在した政策だったことを正直に克服しなければなりません。「コミュニティ再生」は、30年を経ても果たされていなかったことが、現在の危機によって焙り出されたということになります。

個と個の関係の在り方だけではありません。「アメリカファースト」のトランプ政権をはじめ多くの先進国の為政者が、「自分だけ」の利己主義的な価値観による内向きの国家運営を、さも正義のように行っています。経済人も「今だけ、金だけ、自分だけ」で派遣労働者を含めた非正規社員の本来は労働対価として受け取れる所得が企業の利潤に移転して、2017年段階で446兆4844億円の内部留保を積み上げているにもかかわらず、社会の劣化には「社会的責任経営」を建前にしながら企業経営者である自己責任には頬被りしています。最近の事例では3980円以上の商品の送料を無料化する施策は「消費者のニーズであり、店舗の売り上げを上げるため」だと主張した楽天の三木谷氏の言い分ですが、それが「消費者のニーズだとの経営判断」があるなら楽天が送料を負うべきであり、少なくとも協議の場を設けるべき事案であり、優越的地位を利用して出店者に負担を強いるのには強い違和感を持ちます。経営者の矜持と倫理観はどこに消えたのか、と不信感だけがつのりました。企業は社会から、すべての国民市民から存在することを許されて経済活動を出来ているのにも関わらずにです。

「企業は社会の公器」と自らを定義した松下幸之助翁の高邁な精神は雲散霧消してしまったのでしょうか。たとえば、「美しい国、日本」とは、根源的には拝金主義の「病理」とは真反対にあり、到底相容れないものであると私は確信しています。私が劇場音楽堂等に関わり、一貫して主張して、発信してきた諸々の経営理念の根底には、今日、日本をはじめ世界の先進国を覆っている価値観に対しての異議申し立てがあることを正直に言わなければならないでしょう。劣化した社会を回復に向かわせなければ、「競い合い、奪い合う」、「弱肉強食」の亡国の危機に至るとの現状認識を、私は繰り返し述べてきました。

震災が「東北でよかった」、「女性は子供を産む機械」、アフリカ支援活動を「なんであんな黒いのが好きなんだ」、地方創生セミナーでの「一番のガンは文化学芸員」等々の閣僚たちの発言は、社会の病理に「感染」していなければ出ようのない発言です。私はたびたび「人間を中心に据えた」と、劇場経営のみならず、社会の在り方に関することでも繰り返し述べ、書き続けてきました。「美しい国、日本」とは、「公徳心」、「利他的」、「社会倫理」等の「つながり」によって誰もが守られ、決して誰も排除されることのない「人間の尊厳の安全保障」である社会の仕組みを互助的な努力によってつくり、維持に傾注する国のことです。それは自由放任の「拝金主義」からは一番遠く、他者を陥れる「利己主義」とは無縁な社会のことです。危機的状況を協働して乗り超える利他的行動を「価値」として受容している社会を指します。経済成長を最高の価値として、そのためならコロナ禍の中で自分の県に観光に来てと呼びかけた知事がいましたが、何をしても「今だけ、金だけ、自分だけ」の価値が充足されれば良いという倫理観に他なりません。たとえばサルコジ政権下のスティグリッツ委員会の報告書にある「国民一人当たりのGDP」という語彙は、「国民の生存の状態を表す指標では決してなく、国民の幸福度とは何ら関わりのないものであり、その相関性はまったくない」という提言を、「経済成長こそ豊かさの指標」と考えている向きはどのように受け止めるのでしょうか。

私はここ10数年、文化芸術の社会包摂機能とは、多くの「世の不幸」のもととなっている「つながりの貧困」から生じているものであり、それを回復に向かわせて、「承認欲求の充足」とそれにともなって生じる「自己肯定感の醸成」という生きる意欲を人間の心に育むものであり、その「つながり再構築の拠点施設」として劇場音楽堂等を位置づける経営をしてきました。「生きる意欲」の発火点は減衰する心を他者との関係の中で回復に向かわせ、すなわちメンタルケアから立ち上がり、その意欲を補完するものとして経済的制度担保が必要となる、と言い続けてきました。ウェルビーイング(健康と幸福)やウェルフェア(福祉・幸福感のある生涯という旅路)にあふれる地域社会と家族を最小単位とするコミュニティ再構築への「政策手段としての劇場音楽堂等」と捉え直し、その政策立案のためのエビデンス構築(Evidence-based Policy Making)を=実証的根拠に基づいた政策立案を志向してきました。アダム・スミスは「自己利益を追求する人間からなる社会では幸福と快適さが失われる」と『道徳感情論』に書き、その100年後にトルストイは「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ」と私たちの利他的に生きる意味を謳いました。

私たち人類は、いま、コロナウィルスのパンデミックの試練と闘っています。「いのちの危機」と向き合っています。私たち人類が積み上げてきた社会が試されているのだ、と私は思っています。20世紀にはスペイン風邪等の感染症との闘いもありましたが、おおむね第一次と第二次の「戦争の世紀」であり、それらの「戦争」によって人類は試され、まことに皮肉なことに戦争によって大いに進捗した科学技術と、それによる急速な経済発展を背景とした「福祉国家」という、一時的ではあったものの一定程度の生活重視のSocial Sanctuary(みんなの楽園・安らぎの場所)という平安の時を得ました。そして21世紀には、およそ5年から7年間隔で発生している「感染病パンデミック」によって私たち人類はその社会システムを激しく試されているのではないかと思っています。平時には露わにはならないものの、ひとたび「有事」となると他者への「想像力」と「創造力」の欠如と「つながりの貧困」と「利己的な行動」が否応なく剥き出しになり、社会に張り巡らされているべき「いのちの安全保障」が如何に脆弱かを思い知らされます。近年の震災や豪雨や飢饉とった未曾有の自然災害においても然りです。

「経済成長」のみを追求して、「所有の欲求」と「物質的欲望」の充足を生存の第一義として来た私たちの社会は、その当然の帰結として「存在の欲求」と「つながりの欲求」を著しく疎かにしてきました。そのことが、現在、何を私たちにもたらしているか。私はコロナ汚染終息には最低でも1年半、最悪な場合は集団免疫ができて社会的なウイルス耐性ができるまではスペイン風邪と同様の3年程度はかかるだろうと思っています。アフリカのパンデミックが欧州に再汚染をもたらし、アジアに再上陸する可能性があるからです。「臆病者」の私のリスクマネジメントです。そのあいだに私たちが味わうのは、果てしない喪失感と苦悩と痛みと激しい痛悔だろうと思います。

あわせてその結果として、しかし社会には新しい意識と仕組みの構築への芽吹きが起きる、起きてほしい、そして歴史を振り返ると「起きてきた」と、幾度となく繰り返されてきた人類と災禍の数千年の歴史をいま思っています。たとえば、米国では医療との距離から経済格差に依拠して多くの死者をもたらし、それが結果として全国民を生命の危機に瀕することになったことから、オバマケアの拡充と「国民皆保険」への希求が「99%側」からの要求として拡がり、「小さな政府」志向が医療予算と福祉予算のドラスティックな削減という先進国に共通する世界的傾向を現象させて、ベッド数と病院数の縮小削減等が今回の災禍を加速度的に激しいものとしている。また、貧困層へのベーシックインカムの政策検討はスペインで始まっており、その実証実験としての試行は拡がりを見せることでしょう。テレワークの普及による働き方改革、雇用システムの再検討と企業の社会への貢献の仕組みの根底的な見直しによる「経済成長」の新たな定義の模索、自由放任にまかせてひたすらに拡張してしまったサプライ・チェーンの再構築戦略検討と「いのちの安全保障」である食料自給率へのリスクマネジメントの検討、経済格差が生む社会的非効率性という「逆説」への認識の深化と社会的共有、試された結果としての意識の変化と新しい社会構築への痛みと摩擦と苦悩等々、これだけの重い負籠を背負ったのだから、その先にたとえ一条であったとしても光の射す時を期待したいと思うのは私だけなのでしょうか。ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」です。彼女は、新自由主義経済思想の提唱者ミルトン・フリードマンが「真の改革は危機的状況によってのみ可能となる」と語り、社会の危機的状況を梃子にして新自由主義の信奉者をオルガナイズして、拡大再生産して、普遍化したことを指して「ショック・ドクトリン」と批判しているのですが、フリードマンの戦略的言辞は真実です。その逆もまた真であります。行財政改革とGDP第一主義で喪失した人間第一主義の生活重視の社会システムは、取り戻すのに数倍の時間と幾層倍の財政支出が必要なことを私たちはいま思い知らされています。激しく試されたあとに何をレガシーとして遺せるのかもあわせて、いま私たちは試されているのだと思っています。