第203回「承認欲求」の充足、非認知能力の「社会的相続」、そして「つながりの貧困」 ― 就学前教育への投資への道程。

2019年2月27日

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督 衛 紀生

2012年(平成24年)に当時の松川県教育長からの要請で始まった劇団文学座による県立東濃高校での、一年生を対象にした「つながり」をつくるコミュニケーション・ワークショップは、プロジェクト始動前年までの5年間で中途退学者数197名(年平均40名)を、プロジェクト始動3年間で9名にまで激減させました。昨年3月には岐阜県教育委員会と劇団文学座との提携契約が結ばれ、今年度は9校、来年度は12校の県立高校でワークショップが実施されることになっています。中途退学者を減らして、地元企業に就職する人材を増やすことは、それはそれで健全な納税者と社会保険の負担者の裾野を拡大して、10年、20年後の少子化対策の成果ともなり健全な地域経営を実現することになり、充分な政策エビデンスをもつプロジェクトと言えます。クラスの仲間からの「承認欲求」の充足によって、クラスが居場所になり、当該年の遅刻と問題行動が6000を超えていたのが75%程度の減となり、それにつれて中途退学者も大幅減となったのは手放しで喜べることでした。

しかし、プロジェクトが始まって4年目あたりから私の心にわだかまり始めたのは、一時的にはクラスで「承認欲求の充足」はなされましたが、当時の校長先生の「この子たちは家族からも承認欲求を充たされていないのですよ」という言葉でした。それは辛いことだろう、と心に突き刺さりました。承認欲求は誰しもが持っているもので、「愛されている」という実感であり、「必要とされている」という実感なのですから。と同時に重石のように心の負籠となったのは、彼らは家族から「社会的相続」を受けておらず、たとえ中途退学をまぬがれて社会に出たとしても、離職率が低くないのでは、と思い至ったのです。

デンマーク出身でスペイン在住の政治学者・社会学者であるイエスタ・エスピン=アンデルセンは「社会的相続は所得の相続と同等か、それ以上に重要である」と書いています。「社会的相続」とは、かつては家族や親族、あるいはその周辺の小さなコミュニティ(幼少時や少年期の遊び仲間等)から承継されていた、いわば社会的自立に必須となる非認知能力と呼ばれるメンタリティ(知力・知性・心性)のことで、自己に対するものとしては自己肯定感・自尊感情(自信)、自制心、自立心、やりきる力、想像力と創造力、我慢等で、他者や社会に関わるものとしては協調心、対人共感性、寛容性、つながる力(コミュニケーション能力)、社会規範と社会道徳への順応等を指しています。いわばウェルビーイング(幸福と健康)を獲得する能力と言い切っても良いでしょう。それが今日の日本では家族を含むコミュニティの「つながり」が機能不全に陥る寸前なのです。

国立社会保障・人口問題研究所によれば、全世帯に占める単身世帯率は2015年の34.5%から2040年には39.3%になると予測されています。2.5世帯に1世帯が単身世帯になるわけですが、この数値は国際比較で決して突出しているわけではないのです。しかしながら、「つながりの貧困」という点では、英国・レガタム研究所のレガタム繁栄指数(Legatum Prosperity Index)2017年版によれば、ソーシャル・キャピタル・ランキング(社会関係資本集積順位)、つまりは「つながり」においては149ヶ国中101位で、OECD加盟の先進諸国でなんと最下位なのです。来年度日本と英国で上演する予定の日英共同制作の戯曲執筆のためのリサーチで、昨年12月に来日したブラッド・バーチと日本の現状について話し合った折、数週間あるいは数ヶ月も発見されない日本の「孤独死」という現実を、彼は理解できない様子でした。英国の場合はコミュニティでの社会関係資本集積が決して低くはなく、大抵は数日で発見されるわけで、それだけ日本における「つながりの貧困」の深刻さを私は実感することになりました。「孤独死」と「自殺」はセルフネグレクト(自己放棄)によって起きるものですが、ともにこれは「個人の問題」ではなく、「社会の課題」と考えるべきです。「つながりの貧困」は「社会的相続」の機能不全に直結します。私たち日本人は、この「つながりの貧困」と「社会的相続」の機能不全を相当深刻に受け止めなければなりません。

そんなことを考え続けている時に「もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」の走り書きを遺して虐待死した船戸結愛ちゃんの事件が起きました。そして、ほぼ同時期に起きた新幹線内での刺殺事件の小島一朗の連行される時の無表情さを見て、私の考え続けてきたぼんやりとした思考の輪郭は急速にある一点にフォーカスされました。それは「負の社会的相続」です。

子供を虐待死させた親はほとんどの場合に「しつけ」という言葉を発しています。その言葉に「何を鬼畜のようなことをして」と私も以前は怒りと憤りを感じていましたが、「社会的相続」を考え続けた私の中で何かが大きく変化していました。「しつけ」と言うのは本心からではないかと思い始めたのです。「親のロールモデルは親しかいない」のではないか。虐待死させた親も幼少期に同じような育てられ方をされていたのではないか。そんな疑問を抱えている最中に、ふたたび栗原心愛ちゃんの虐待死事件が起こって、またしても父親は「しつけ」と言い放ちました。心愛ちゃんの父親を「DV依存症」、「サイコパス」と理解可能なレッテルを貼ろうとする言説が多くみられますが、それは問題を複雑にするだけで何も解決することは出来ないのではないかと、私は思っています。津久井やまゆり園の植松聖を精神鑑定して「自己愛性パーソナリティ障害」と診断結果は出たものの、彼にそのレッテルを貼っても「障害者は生きている意味がない」と語った障害者殺傷の動機を何ひとつ詳らかにするものではありませんでした。私には、「意思疎通が図れない人間は生きている意味がない」「重度障害者を養うことには莫大なお金と時間が奪われる」という植松の主張と、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と書いた杉田水脈議員とその水源は同じに思えるのです。共に真っ当な人間としての社会的規範による判断のできない者が、時代の空気に汚染された結果、ことの重大さを認識できないままに生じたことと私は理解しています。その意味では、彼らの「社会的相続」による非認知能力の脆弱さを感じます。閑話休題。

「つながりの貧困」による「承認欲求」と「社会的相続」の機能不全は、新幹線殺人事件の小島一朗の連行時の罪悪感のまったくない、というよりも存在していることにさえ確かな手触り何ひとつ持ち合わせていない無表情さに表われていると、私は思いました。どこかで見た光景だと思いました。そしてすぐに、秋葉原通り魔事件の加藤智大の逮捕時の表情も、返り血は浴びていたものの、存在感のないあやふやさを浮かべていたと思い至りました。小島はたびたび、「俺は生きている価値がない」、「自殺をする」と口にしていたと仄聞します。43歳でノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミュの『異邦人』の主人公ムルソーは、友人のトラブルに巻き込まれてアラブ人を射殺するが、その動機を「太陽が眩しかったから」と述べる。私は前記の不可解な殺人事件を「ムルソー的動機」と捉えています。「存在の飢餓」が、動機と言えば動機なのだが、それは私たち此岸の人間には、想像は出来ても窺い知れない心的状態なのではないか。いささか文学的解釈になりますが、「存在の飢餓」に憑りつかれ、その飢餓感を人を殺めることで生の実感とし癒したのではないか。いずれにしても、加藤智大も小島一朗も、誰からも「承認欲求」を充足されず、「社会的相続」も受けることなく、したがって生きる根拠なくフワリフワリと時代を漂っていたように私には思えます。

そして、児童虐待死に即して言えば、清瀬市の児童養護施設「子供の家」の施設長早川悟司氏の「実親に帰すという発想の転換と煩雑な手続きなしでの親権停止を」という5年前に聞いた現場からの主張を思い出します。それは、「家族が人倫の基礎という価値観」がもはや普遍性を失っている今日の日本への児童養護施設の現場からの警告のように私には聞こえました。児童虐待死の連鎖を断ち切る意味も含めて、私たちは「承認欲求」の非充足・未充足と「社会的相続」の機能不全、そしてその根底にある「つながりの貧困」からの訣別へ大きく舵を切らなければ、日本社会は沈没してしまうという危機感をいますぐ共有しなければならない。そして、行き着いたのが2000年ノーベル経済学賞のジェイムス・ヘックマンが援用しているペリー就学前教育での「非認知能力」の涵養プログラムとその後40年間の追跡調査の結果なのです。労働経済学者のヘックマンが行き着いたのは、教育投資による将来的な労働市場の健全化という解だったのです。同様な投資行動として、「承認欲求」の充足、非認知能力の「社会的相続」、そして「つながりの貧困」と、コミュニティ及び家族の機能の失速という社会課題を解決に向かわせるために、アーラは子育て環境への投資として「就学前教育」に文化芸術の社会包摂機能をフル稼働させようと考えています。