第190回 首長失職にみる文化政策の潮目の変化

2017年11月4日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

着工前から注目していた鶴岡市文化会館(タクト鶴岡)が結果的に争点となった鶴岡市長選で、現職が31,600票あまり、新人が42,400票あまりと、予想外の大差で首長の交代となりました。選挙自体は自民党系と民進党系の「山形3区の代理戦争」と地元紙の見出しに載るほどの様相を呈したようだが、最終的には5年前の当初予算で事業費見込45億円だったものが、3度の入札不調(施工が難しく、入札企業体がいない事態もあった)を経て、最終的には2倍を超える96億7600万円となったことが大きく結果を左右したように思います。どのように財政手当てをしたのかは不明ですが、当初計画では旧市民会館の解体と新市民会館建設を合併特例債で賄おうとしたとのことです。私は「鶴岡市新文化会館に提案する会」の市民からのメールでその計画の存在を知ったのですが、この新文化会館の経緯は丸3年前に「館長VS局長」に書いているので、長文になりますが引用します。

「新文化会館は世界的建築家の妹島和世氏が設計し、曲面を多用した形状が特徴」なのであるが、新文化会館建設工事の入札は初回に応募した地元3社が辞退。2回目は大手ゼネコンを含むJVに対象を広げ工費を6億円上積みしたが応札がなく中止され、3回目は地元業者に限定、予定価格を前回とほぼ同額の54億6000万円として、施工や資材調達がしやすいよう屋根や壁面の素材を変更したものの、再度不成立となった。入札不調が3回も続き、しかもその過程で、「(新文化会館の)設計は私どもの技術力では到底及ばない」として「一同の意志として、地元業者企業体での参加を見合わせたい」と地元の建設業者が16社連名で辞退を市に申し入れるという一幕もあった。結局は9月議会で事業費の積み増しを議決し、4回目の入札でようやく竹中工務店を中心とするJVが73億204万円で落札したという経緯で話題になっている。この予算の中に舞台や音響や照明の設備工費が含まれているのかは定かではないが、それが別途予算化しなければならないとしたら、90億円近いオーダーになると思われる。(『館長VS局長 「公共劇場」へ舵を切る―第51回東北を歩いて透けて見えて来る文化政策における自治体の見識―被災経験が文化芸術を再定義したか』http://www.kpac.or.jp/column/kan51.html)

鶴岡市長選の少し前に飛び込んできた情報にも時代の空気の変化を感じました。子育て支援・生涯学習機能とキャパシティ300の文化ホールの建設計画を進めていた静岡県・河津町長のリコール(解職請求)が、賛成2,816票、反対1,524票と、ダブルスコアに近い大差で町長のリコールが成立、失職しました。ここでも当初は総工費9億円とされていた建設費が16億7600万円に膨らんでいました。地元紙は『日本初 ハコモノ建設計画が原因で町長リコールか』という見出しを打っていました。リコール請求をした住民による「あしたの河津をつくる3168」を立ち上げた町民たちは純然たる住民グループで、会の名称にある「3168」は、昨年11月に事業延期を求める署名の数字です。ただ、実施設計費を盛り込んだ昨年3月議会の議決が賛成6、反対5で可決されたのですが、署名運動にその5名の議員も加わり、3168筆の要望書がそれらの議員によって提出されたそうです。リコールされた町長は、リコール投票告示直前になって「事業延期表明」をしたのですが、時すでに遅し、と中日新聞には書かれています。しかし、6期24年町長を務めた前町長と町役場OBらが署名運動に関わっていたことが指摘されており、鶴岡市の事例同様にキナ臭い感は否めません。

とは言っても、文化施設設置が争点になる選挙と住民投票が続いて、しかも共に現職首長が落選・失職するという事態に、私は、巨額の公的資金を支出してまでの文化施設の建設に対する住民の厳しい目と、あわせてほぼ鑑賞に資することと地元文化団体の活動の場でしかない、すなわち一部の愛好者のみを最終受益者とする劇場ホール施策が潮目の変化をむかえていると強く感じます。文化芸術と劇場音楽堂等に社会的な機能を求め、それを戦略的な投資と位置付けた「文化芸術の振興のための第三次基本方針」が閣議決定されてから、もう既に6年8か月もの時間が経っているのです。90年代までのような鑑賞施設機能のみを特化させたような設計の施設は、その役割を終えていると言わざるを得ません。当時設置された文化センターを訪れれば即座に了解できるでしょうが、会館に入るとすぐにホールの扉と受付があって、入館者がゆっくり座って集えるスペースがほとんどなく、あるいは扉を開けるとすぐに長い大理石の階段が設えてあって、上りきったところにホールの入り口があり、チケットを購入していなければ訪れる機会さえない設計が施されています。つまり、当時の劇場ホールは、チケットを購入した人にしか開かれていない閉鎖的な施設であったのです。コミュニティの諸課題を解決する多様な機能を持ち合わせている、すべての人々に開かれた施設ではなかったと言えます。

そのような施設の在り方に変化を促したのが第三次基本方針ではじめて書き込まれた「文化芸術の社会包摂機能」であり、「戦略的な投資」という文言だったのです。いわゆる「劇場法」の本文は実演芸術の振興の場という、いささか的外れな規定をしていて、その後の文化政策にはほとんど本質的な影響を及ぼさなかったものだが、格調高い前文にある「新しい広場」の概念と「公共財」という規定は、そこが必ずしも鑑賞施設としてのみ機能する場ではないことを明確に言い切っていると思えます。つまり、多様な社会課題を解決に向かわせる触媒としての文化芸術の多様な機能を発揮することによってすべての人々に必要とされる「新しい広場」であり、したがって「公共財」と言えるわけです。

文化庁に社会包摂の係が設置されるということを耳にしたのは今年の春のことだったと記憶しています。可児市役所からもその部署に職員を派遣することになっていますが、厚生労働省からの派遣も仄聞します。おそらく内閣府に設置されている共生社会政策担当との連携によって政策は進められるのでしょうが、文化庁の来年度概算要求の中にも、財務省に受け入れられるかどうかは分かりませんが、「共生社会実現のための芸術文化振興事業」として5億400万円が計上されています。また、厚生労働省は今年初めに省内に設けられた「『我が事・丸ごと』地域共生社会実現本部」によって検討された「『地域共生社会』の実現に向けて」という公式文書を出しています。この文書にまったく問題がないわけではありませんが、少なくとも、漆黒の海に乗り出してある地点に向かうための「海図」は描かれ始めたと言ってよいと思います。

とは言っても、札幌市、山形県、仙台市、福井市、姫路市などでは、そのような時代環境の変化を無視した2000席以上の巨大な鑑賞ホールの施設建設及び計画が進行しています。それらが10年後、20年後を見据えた設計思想に依っているのではなく、「過去」からの前例を踏襲しているだけの即座に陳腐化する施設であることは明白です。200億、300億の税金が費やされ、後年度負担が毎年8億から10億かかることを納税者にきちんと説明したうえでの設置の意思決定であったのか、疑義を感じるのは私だけだろうか。加えて、そのような設置計画に「劇場コンサルタント」はどのような役割を果たしているのだろうかと、私はいつも疑問に思うのです。大手設計会社の系列子会社であるコンサルティング会社がコンサル業務を受注している例などは「お手盛り感」が満載であり、独立系の劇場コンサルにあっても建築設計・施工だけの専門性では上述した急激な時代の変化には対応しきれないだろう。問題は劇場経営におけるマネジメントとマーケティングの専門性が問われているのです。

たとえば、平日80往復、土日祝日66往復の仙台―山形の高速バスが出ているのなら山形県民会館はどのようなビジネスモデルをつくるべきなのか、山形交響楽団の定期会員が800で2000キャパのホールを造るのなら、しかも事業費が旧市民会館では年間200万円しかついてないなら貸館の収益を最大化するためにプロモーターとの共催事業化を軸にして、最低でも地政学的に整合性のあるビジネスモデルを提案しなければ劇場コンサルタントとは到底言えません。専門性のない自治体の仕様を唯々諾々と受け入れるだけでは、とてもコンサルティングをしているとは言えないのではないでしょうか。別の事例でも、大阪で行われるコンサートが、新幹線で30分足らず、新快速で1時間強で来られる姫路で行われるはずもない。プロモーター心理から言っても、「岡山飛ばし」が常態化している環境で、ほとんど至近距離と思われる地域での集客は望めないことは言うまでもない。だからと言って、大阪では開催しないで姫路で、ということは余程のアドバンテージを用意しなければあり得ないことです。230億円のこの計画には「ひめじ芸術文化創造会議」という市民団体が「文化・コンベンション施設の設計と運営について現在の計画の見直し」を求める運動が起こっています。ここも劇場コンサルタントがまったく機能していない事例です。

心底から呆れるばかりなのですが、首長が相次いで失職するような事態が起こっているのに、相も変わらず巨額の税金をドブに捨てるような施設が次々に建てられている異常さは、尋常な神経を持っている人間なら誰でも「おかしい」とか「怪しい」と思うに違いない。「過去にすがりつけば、悲しい結末を辿ることになる」というスタンフォード大学のポール・サフォー教授の言葉をこれらの施設設置者と設計者と劇場コンサルに贈ろうと思う。「変化」には、摩擦と痛みと苦悩がともなうのは言うまでもない。それを丸ごと引き受ける覚悟がなければ、今後の劇場音楽堂等の設置計画と建築設計とコンサルティングと、そして劇場経営は決して行うべきではない、と私は考えています。