第189回 社会包摂事業とヒューマンリソース・マネジメント「やりがい」あふれる職場環境を。

2017年8月31日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

先月、親しくしていた劇場人の訃報が届きました。突然の訃報でした。親しくしていた劇場人の死は、指定管理者制度が導入されて所属していた行政の外郭団体が外されて民間企業に劇場を引き渡す当日の朝のT事務局長の死に次いで二回目でした。その時にも強烈な違和感を覚えた記憶があります。地方自治法244条の改正によって指定管理者制度が例外なく公立の施設に適用されることになり、私は9月に施行された同制度の翌年2月の全国公文協アートマネジメント研修会で、劇場コンサルタントで一級建築士の草加淑也氏と劇場ホールに与える影響についてセッションをしました。私はその折に、地域のNPOにも機会が与えられるメリットもあるが、繰り返し危惧として述べたのが雇用環境を劣化させるのではないかという負のインパクトでした。

平易な言葉を使えば「やりがい搾取」によって、劇場ホールという職場がまことに「非文化的」、「非人間的」な職場環境になるのではないかという危惧でした。折しも「働き方改革」が昨年8月に閣議決定されました。これが「経済対策」として持ち出されたことに違和感があり、経済団体の意向が働いているのは自明で「働かせ方改革」になるのではないかとの危惧はあるのですが、「やりがい搾取」は企業団体の経営者によってのみ行われるのではありません。中間管理職が部下に対しても苛烈な「やりがい搾取」をする例もあります。かえってその場合には雲の上の経営者とは異なり人間関係が近く、直接的であるだけに、その人間への「尊厳搾取」にもなりかねません。冒頭の訃報に接した時、私は本来は、あるいは原則的には人の上に立つものが備えていなければならないヒューマンリソース・マネジメントの全くの欠如と、もっとも人間的であるべき劇場音楽堂等も「ブラック」のひとつになってしまったのではないかという衝撃を受けました。

私より年齢的には若いのですが、劇場経営(アーツマネジメント)の師とひそかに私淑しているウエストヨークシャー・プレイハウスの(WYP)元経営監督マギー・サクソンからもっとも影響を受けたのは、彼女のヒューマンリソース・マネジメントでした。劇場全体として百数十人いる職員から信頼され、掲げるミッションに向けて彼らを一つに纏めている手腕に私は驚愕しました。劇場で働く誰からも、彼女に対する不満・不平は聞こえてきませんでした。彼女は芸術監督のジュード・ケリーの下でのWYPの2代目の経営監督でしたが、ボックスオフィスのアルバイト嬢からも「今度来た経営監督はいいわね、人間的に素晴らしい」という声が聞こえてきました。当時ジュードは社会的・政治的発言を積極的にする40代に入ったばかりの気鋭のアーチストであり、巷間「じゃじゃ馬」と言われていた演出家ですので、彼女がヒューマンリソース・マネジメントまでやっているはずもないと見ていましたが、やはりそこには「マギー・サクソン」という全職員が人間的にも敬意の持てる、しかも経営手腕も銀行を出自とするだけに卓抜したもののある経営監督がいたのです。

何度目かのWYP訪問の時に「あなたのヒューマンリソース・マネジメントは素晴らしいと感じているが、何かコツでもあるのですか」と質問したことがありました。彼女は誰もが心和むに違いないと思わせる人懐こい笑顔を浮かべて、「私は劇場職員ばかりではなく、リーズ市民に対するときにも輪ゴムを持つように接します。その輪郭から外れてしまう人が仮に居たとしても、輪ゴムならその人が輪に入れるように伸ばせば良いだけです。ゴムが切れるほど伸ばしてはいけません。それは大切なミッションが切れてしまうことですから」と答えてくれました。なるほど、とすっと腑に落ちました。当時の日本では、劇場の閉館時間が21時や21時半のところが多く、舞台が終わって着替えの最中でも追い出されるので劇場の外で衣装を私服に替えている、という話が随分とありました。それは輪ゴムではなく「設置管理条例」という「鉄の輪」を職員が抱えて管理しているから起こることなのだな、と腑に落ちたのです。そこから外れた者はただちに排除するという負のマネジメントだったのです。

アル・ゴア副大統領のスピーチライターで、アメリカの社会評論家・ビジネス評論家のダニエル・ピンクは『モチベーション3.0』のなかで、「生存」のための《モチベーション1.0》、「アメとムチ」で働かされる《モチベーション2.0》に対して、新しい時代には「やる気」や「やりがい」や「生きがい」で自律的に、創造的に働く《モチベーション3.0》を駆動させなければ、変化に富んだ社会で、社会を変化させる仕事は出来ない、と強調しています。また、別の著作『ハイコンセプト/「新しい事」を考え出す人の時代』で彼は、計算や分析などのルーチンな仕事をこなせる能力をつかさどる左脳の時代から、私たちの仕事は、創造的で共感能力の求められる右能の時代に移行しなければならない、という非常に興味深い提言をしています。ここに共通しているのは「共感力」と「想像力」と、そして「柔らかな感性」です。「想像力」は感情が動かなければ当然のことながら働かないのだから「柔らかな感性」が必須であるし、「共感力」も「想像力」が働かなければ起動しません。「やる気」も「やりがい」も「生きがい」も、そして「必要とされたい」という承認欲求も、「想像力」を働かせて広義には社会、狭義には他者の存在を経由しなければ起きない生きる意欲の発露なのです。

先日、姜尚中さんによる「教育講演会」が可児市教育委員会の主催で私どもの劇場でありました。姜さんはその講演の中で、マーガレット・サッチャー元英国首相の「社会なんてものはない。個人としての男がいて、個人としての女がいて、家族がある。ただそれだけだ」という就任直後の演説を前に振って、人々が助け、助けられる「社会」を私たちは失ってしまったと話の穂をつなぎ、井上陽水の『傘がない』の状態が「私たちのいま」なのではと学校関係者で埋まった客席に問いかけました。したがって、「社会」を実感できる教育こそが未来への投資なのではないか、と語りかけました。いま私たちは土砂降りの雨の中に佇んでいるのです。そして「傘がない」のです。佇んでいる私たちに投げかけられるのは「自己責任」という無慈悲な言葉です。雨に激しく打たれ、冷える身体を温かく包むものもなく、ただひたすら、そしていつまでも佇むしかない私たちに必要なのは「傘」と傘を差し掛けてくれる「他者」なのです。

姜さんと私の共通認識は劇場音楽堂等こそが、こんな時代にあっての「傘」になるべきというもので、それがたとえ破れ傘でも修理しながらずぶ濡れの誰かに差し掛けるだけで、そこには支え合うコミュニティが芽生える、というものです。そして、隣にいる誰かに手を差し伸べるだけで、私たちは「必要とされているという実感」と「誰かの役に立っているという実感」と自己肯定感と自分の価値と尊厳を手にできて、「生きる意欲」を漲らせることができるのです。ここで言う「傘」は言うまでもなく「劇場音楽堂等の社会包摂機能」です。可児市文化創造センターalaは「芸術の殿堂より人間の家」をつくりたい、ハコモノから抜け出すためにどうしても「そうでありたい」と思い、10年の時間を費やして来ました。しかし、いまここで問題にしているのは劇場で働いている人間も、苛烈な「やりがい搾取」と「尊厳搾取」によって「傘がない」のではないかという危惧です。社会包摂型経営をしている劇場の、そこで働く職員が社会包摂プログラムを必要とする状態で放置されているというのは「ブラックジョーク」というか、「ジョーク」とも言えないただならぬ事態です。

カンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を贈られたケン・ローチ監督の『私は、ダニエル・ブレイク』を春先に観ました。いささか政治的メッセージが前面に「噴出」する箇所があって前評判のようには必ずしも「ケン・ローチの最高傑作」とは思えませんでしたが、「隣の誰かを助けるだけで、人生は変えられる」という、前を向いて立ち上がろうというケン・ローチの社会認識と人間に対する温かいまなざしには強く共感しました。そして、社会包摂の時代的な必要性と、そのプログラムによって子供たちや高齢者や障害者の「変化」に立ち合うことで「人生は変えられる」ことに確信を持ち、意を強くしました。包摂型経営をする劇場の職員には、何十回のセミナーや座学よりも「変化」に立ち合うことの方が、自分の仕事の社会的な意味と使命を実感できるばかりか、英国・ニューエコノミクス財団の報告書にあるように「Individuals who report a greater interest in helping others are more likely to rate themselves as happy (他者を助ける人たちは幸福度が高い傾向にある)」という人生のポジショニングを獲得できるのです。

私どもの劇場とWYPに共通するのは「世界水準の舞台芸術の創造発信」と「多様な社会包摂プログラムによるコミュニティへの貢献」という二本柱のミッションです。アーラは年間433回超、WYPはおよそ1000回のコミュニティへ向けたプログラムを供給しています。そして、共に職員の表情が明るく、笑顔が絶えず、「やる気」と「やりがい」を持って仕事に従事していることです。ダイエル・ピンクの言うところの《モチベーション3.0》が働いていることは、彼らの生き生きとした仕事ぶりから窺えます。彼らの立ち居振る舞い、言動からは「やりがいの搾取」、「尊厳搾取」は微塵も窺えません。姜尚中さんのひそみに倣えば「自分が傘になる」、あるいは「傘を差し掛ける人になる」ことに誇りと喜びと充実感を持っているのです。前回は社会包摂型劇場経営が「鑑賞者開発」と「資金調達環境」を大きく変化させることになると書きました。そして、さらには「やりがい」と「いきがい」と「存在に対する敬意」によって「人材育成環境」をも、社会包摂型劇場経営は大きく改善することもあわせて記憶しておいていただきたい。

たとえ芸術的成果の創出を第一義的なミッションとする劇場音楽堂等であっても、「やりがい搾取」と「尊厳搾取」の横行する職場環境から優れた舞台など出来るわけもない。経験的に言わせてもらえば、「がなり」と「いやみ」が正当性を持ち、体温の感じられない稽古場と職場から良い成果が生まれたためしはないのです。「がなり」と「いやみ」はヒューマンリソース・マネジメントとは最も遠くにある人心操作のファシズムであり、人間をモノや道具として扱い、終には人間の心まで石のようにモノ化してしまうことなのです。舞台技術の世界には昔から「タタキジコミ」という言葉があり、「怒鳴られてナンボ」、「泣かされてナンボ」という価値観がある時期まで正当性を持っていました。「正当性を持っていた」ということは、あまり陰湿ではなく、される方も「そうして一人前になる」という合意があっただけに救いのあるものでしたが、現在はおそらく水面下に沈潜してしまっているのではないでしょうか。冒頭の若い友人の死からは、そのようなイヤーな感じがするのです。

もっとも人間的な温もりがあるべき劇場音楽堂等が、それで良いのでしょうか?

読者の皆さんに問いかけたいと思います。繰り返しになりますが、経営者、管理職のマネジメント力こそが問われているのです。「劇場には経営者の生き方が現れる」と私はいつも思っており、講演でもそう喋っています。「良い劇場」とは、予算の多寡や事業の規模で計るものでは決してなく、まずは体温を感じさせるか、温もりを感じるか、そして職員スタッフが生き生きと仕事をしているか、なのです。自分の命を他者のために使う、というのが私たち劇場人の仕事であり、生き方です。だからと言って、死んでしまっては何にもならないのは言うまでもありません。