第182回 脱皮しない蛇には死しかない ― 「人間の家」で在りつづけるためには「変化」しつづけること。

2016年7月3日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

昭和4年に建てられた北沢の、今風に言えば8LDKの生家を解体して建て直すことになり、4月から休みのたびに東京に戻って整理をしていました。大学に入ると同時に使っていた書斎を片付けていたら、デスクの引き出しの奥まったところから宮城まり子さんからの手紙が出てきました。当時あった『新劇』という雑誌の連載劇評で、日生劇場で再演された『山彦ものがたり』のまり子さんの演技を絶賛したことで出版元の白水社気付で私のもとに届けられた手紙です。ピンクの封筒に同色と青色の便箋に書かれた熱い内容のものです。ウェブ検索をしてみると1975年(昭和50年)の1月に紀伊國屋ホールで初演された『山彦ものがたり』(作・演出 有吉佐和子 作曲内藤法美)が、その年の8月には再演されていて、その再演が私の初見で、宮城まり子という女優の素晴らしさに驚愕して一気にその劇評『山彦にいつでも逢える役者』を書いた憶えがあります。弱冠28歳の劇評家が、私が小学生の頃に芸術祭賞を受賞しているベテラン女優の演技を生意気にも絶賛したことへのお礼の手紙でした。ご本人の「まだ役者をやっていい、本当?」という「歓び」の内容をピンクの便箋に、手紙が遅くなったことを詫びる部分は「こんなに青ざめて御手紙かきました」と青い便箋にしたためられた、まり子さんらしい手紙でした。

なぜ、宮城まり子という女優の演技に驚愕したかと言えば、いわゆる「演技」からはみ出してくる彼女の「体温」が、俳優養成所や演劇教室で訓練されることで逆に失ってしまう存在の確かさを感じさせたのだと、いまでもはっきりと憶えています。当時の演技はアングラ系の台詞を叫んで役者の肉体性と生身性を強調するものか、ガチガチに訓練されて良く言えば洗練された、しかし存在の体温を感じさせない新劇系の余剰のない演技しかなく、新宿ピットインの肩が触れ合うような客席で山下洋輔トリオの人間臭いセッションを見ながら、その演劇にはない生身性を一種の憧憬の眼差しで見ていた頃に「宮城まり子」という女優に出逢ったのでした。それだけに彼女の演技にある良い意味での「余剰=体温」に驚愕したのでした。その「余剰」こそが私の探していた演技だと思いました。

私が劇評家であることを辞めた、というより自然に演劇評論という仕事から離れたのは大学を辞して可児市文化創造センターalaの常勤職員になった年です。40年ほどの演劇評論家としてのキャリアでしたが、私は常に演劇と人々との間に立って、その関係を変化させることを自分の仕事の使命と考えてきました。歌舞伎を評論しても、現代演劇を評論しても、暗黒舞踏を評論しても、それらを現代人の生活にいかに近づけて、興味を喚起させるかを考えていました。40歳を過ぎて、当時文化的には曠野のようだった地域に出たのも、地域の価値観によって東京を包囲して東京の演劇界を変えたいという自分の性分がさせたのだと今になって思います。私の仕事は何処まで行っても「変化」させることが使命であり、そうでない散文的な仕事は私には不向きであるし、劇場経営とかアーツマネジメントは時代の変化をいち早くキャッチして、従来からの「常識」に縛られている自身をみずからブレイクスルーさせて「変化」を起こすことでニーズを掘り起こし、関係づくりをすることだと思っています。宮城まり子さんからの手紙を読みながら、自分の居る演劇という場所を「変化」させたいと思い続けたその頃の感覚が蘇えってきて、40数年前とまったく同じことをやってるのだなぁ、とあらためて思いました。

アーラに着任してからは、日本の劇場環境を大きく「変化」させることが私の仕事だと思っていました。「ハコモノ」の象徴として役に立たない、税金の浪費の象徴のように言われてきた劇場音楽堂等に住民の福祉を担保する機能を持たせることで、健全なまちづくりのための重要な拠点施設と位置付けられるような仕組みをつくり、それが劇場音楽堂等を社会的価値によるブランディングを形成して、芸術愛好者というよりも支持者と継続的な鑑賞者開発に結び付くマーケティング手法を開発することを自分の使命と定めました。県立宮城大学・大学院で教員をしていた7年間で、そのあたりのマーケティング手法も研究課題の一つであったので見当はついていましたが、アーツマネジメントというより「経営」というものは「方程式」があってそれを援用すればどのような国でも地域でも解がきちんと出るというものではないので、ともかくも「走りながら考え、考えながら微細な部分を変化させて、また走る」という方法を採りました。館長に就任してから設けた2ヶ月に1度の定例記者懇談会で私は「可児市文化創造センターを日本の代表する地域劇場のひとつにする」、「可児市を東海地域の文化首都にする」と話しました。一瞬記者の間に「何を言ってるのだろう、この人は」という空気になりましたが、成算は前年の大学と兼務しながら仕組んだ非常勤の1年の準備期間で充分についていました。

大学の職を辞して可児市文化創造センターに行ったという噂はすぐに広まって、劇場で会う人のほとんどから「可児って何処にあるの」とか「大変ですね」という憐れみというか、同情というか、何とも言えない言葉をかけられました。「評論家に何ができる?」、「大学の研究者に劇場経営など出来るわけない、お手並み拝見」というニュアンスは言葉の端々から感じられました。しかも、私自身もそれはもっともだと思っていました。金沢市民芸術村のアドバイザーとして、松田正隆氏をドラマドクターに市民が書いた『おーい幾多郎』の全国16ヶ所の巡演と東京公演をやり、また地域滞在で舞台を立ち上げのプロデューサーは何回もやっていましたが、それは劇場経営ではなく、単なる演劇の製作現場の経験でしかない訳で劇場を運営することとはまったく違うと思っていました。さらに、名鉄のどん詰まりにある人口10万の小さな町でどれだけのことができるのか、それほどに小さなマーケットで経営が成立するのかという疑問は常識的な劇場経営のビジネスストーリーからは当然のことといまでも思います。

ただ、私は綿密に可児という町とその経営環境にある劇場のSWOT分析をしながら、常識的には「弱み」となるまちの小ささを「強み」に転換させる経営を考えていました。名古屋という大都市から名鉄で約1時間も離れている、いわば田舎の町ですが、だからこそ都市部では描きにくいビジネスストーリーが容易に組み立てられ、しかも短時間で成果が出やすいと考えました。また、小さな町だからこそ「可児市文化創造センターの紡ぎだすストーリー」が、潜在顧客を含めて多くの市民は容易に「物語消費」しやすい環境にあると考えました。大都市圏では見過ごされがちな出来事も、小さな町では大きな波及力を持ちます。可児住民のほとんどは都市部から離れた田園都市に住んでいることに満足はしつつも、都市文化とは隔絶感があって、最寄駅の日本ライン今渡駅の隣駅である西可児の人々は文化的には心は名古屋に向いている様子でした。

新日本フィルハーモニー交響楽団と劇団文学座との地域拠点契約という仕組みはその中で考えられました。日本を代表するオーケストラと劇団が可児というあまり知られていない小さな町を拠点とするという事実は、そのようないささか複雑なメンタルの中で生活している市民にそれまで想像すらしなかったサプライズを引き起こすだろうと思いました。サプライズは「変化」を起こすための導火線になります。しかも、鑑賞機会のみならず、ワークショップやアウトリーチで市民の中に彼らが入っていくわけで、それは名古屋のような大都市圏では到底考えられないことです。さらに、何かが大きく変化して革新的なことが成立すれば、「小さな町」であることが事態の変化を際立たせて、全国への発信力は逆に強化されると考えました。

人口10万人というマーケットの小ささは気にはなりませんでした。商圏は25万人程度でしたし、私が当初から構想していた社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing)が数年を経て駆動し始めればマーケットは次第に大きくなるとの成算はありました。たとえば、愛知県内のアーラフレンドシップ会員は当初の160名から現在では昨年末で1644名と1096%増になっています。市場規模というのは人口や商圏などの所与の条件なのではなく、その商品、製品、サービス等に共感する価値観の持ち主がどれほどの広がりで存在するかなのであり、私たち経営の側が創造するものであるという自明のことに気付いていない向きが多いことに私たちは気付かなければいけないと思います。仮に「常識」に囚われていたならば、「人口10万」と聞いただけでアーラのポテンシャルは極めて限定的なものとなっていたに違いありません。

当日ハーフプライスを含む多様なチケットシステムも、その後にキャンセルチケットの仕組みや分野を超えて好きなジャンルのチケットを選んでパッケージにできる「アラカルト・パッケージチケット」も、「走りながら考える」ことで時間を経て市民のニーズに沿った形で生まれたものです。2000年以降の社会や価値観は激しく変化しています。「ドックイヤー」どころではなく、瞬きの間に技術のみならず仕組みさえも変化させなければいけない「ブリンクイヤー」の時代を私たちは生きています。当然のことですが、そこに生きている人々の意識も嗜好も価値観も選好も行動様式も激しく変化しています。それまでの経営の常識も時代の最先端の考え方も、すぐさま陳腐化してしまいます。それだけに様々な劇場経営のシステムは更新し続けなければなりません。とりわけ対人サービスである劇場経営は社会の価値観の「変化」との競争です。アーラに着任した直後は、それまでの経営方法をすべて捨てて「上書き保存」することをしましたが、いまは「更新」し続けるためのアンテナをはることを専らとしています。したがって、劇場経営の完成型というものはない、というのが私の考えです。

いまでもすべての市民に劇場の果実を届けるためには「何を、どう変えればよいか」を考え続けています。感動すると奇声を発する障害者たちのために設けた初めての劇場体験の「オープン・シアターコンサート」は、障害者施設へのアウトリーチでの体験からつくられた事業ですし、就学援助や児童扶養手当を受給している本人とそのご家族をアーラの事業に、地元企業・団体・個人の寄付によって招待する「私のあしながおじさんプロジェクトfor Family」は、将来の鑑賞者開発をする目的で就任時につくった中高校生にチケットをプレゼントする「私のあしながおじさんプロジェクト」を、「子供の貧困」という社会課題に向かうものとして創設したものであり、今年から始まる「心と体が軽くなるー親子で楽しむワークショップ」は西川信廣氏によって中途退学者の激減という成果のあった県立東濃高校の校長先生と教頭先生との懇談の中で家族ぐるみのケアをしないと生徒へのワークショップは対症療法でしかないという言葉から生まれた事業で、放置すると社会的孤立に瀕する可能性のあるご家族同士のネットワークをつくるために可児の母子寡婦福祉連合会の協力を得て事業化したものです。今年度は1回のみのですが、成果が確かめられれば母子寡婦福祉連合会と提携して通年で開催することも視野に入れています。

先日には出張した東京で、事業制作係長の澤村の「話を聞きたい」という要望を受けて、全国に広がっている「子ども食堂ムーブメント」の嚆矢のひとつである豊島区要町の「あけぼの子ども食堂」を運営しているNPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワークの栗林知絵子理事長を訪ねて、都市部の子どもたちの窮状をお聞きしてきました。アーラにはキッチンがないので「子ども食堂」は出来ないのですが、小中高生の「学習支援」をする場所は何処かしら劇場内に確保できると、進学校である可児高校生からの「可児エンリッチ・プロジェクト」での提案で気付かされました。前述した県立東濃高校で実際に起こっていることですが、小中学校では見つけることができなかった自分の居場所を3年間の高校生活ではじめて感じていながらも単位数が足りなくて、しかももう一年の留年が経済的事情によって許されずに中退せざるを得ないケースが少なくないという。これは将来の安定的な租税負担者と社会保障負担者をドロップアウトさせるということで、可児市にとっては大きな損失です。留年して学校に残りたいけれど経済的事情で中退せざるを得ない、つまり小中学校時代の「ツケ」を支払わされている子どもたちの学習環境の改善に劇場ができることは、学習支援の場所の提供だと私は思っているのです。

経済的事情で中途退学しなければならない生徒に「緊急奨学金制度」を設けるのは行政に委ねるものであり、劇場の仕事ではありません。私が敬愛してやまない神野直彦先生は、子どもたちは少なくとも「二つの木陰の下で育っていく必要がある」と仰っています。ひとつは緑の木々が織りなす木陰であり、いまひとつは人びとの「きずな」が作りだす温もりのある木陰です。新自由主義政治経済思想が人々の思考回路を占拠してしまっている社会では、このような子どもたちに、アメリカの劇作家で精神病院や少年院でワークショップを重ねているライル・ケスラーの言葉を借りれば「Dead end Kids(行き止まりの子どもたち)」に対して投げかけられる言葉は「自己責任」。この言葉が政治の責任や経済人の責任を不問にしてしまう世界は、社会の日照りを放置して自分さえよければ他者のことは省みない、感情の砂漠化を推し進めてしまうのです。 神野先生の「きずな」が作りだす木陰こそがいま私たちの社会、そして世界中で必要とされていることなのではないでしょうか。そのために「人間の家」としての劇場は何が出来るのか、を私は考え続け、「変化」し続けることが必要だと思っています。

もちろん私のこのような発言とアーラの理念と劇場運営は、従来からの芸術の殿堂を信じて疑わない常識的な劇場運営をしている守旧的な業界人からの「アウェー感」を増幅すると思っています。しかし私は、常識を疑えなくなったら未来は決して訪れないと信じています。常識というのは「過去の経験値」の集積であり、それが未来を描けるマネジメント・デザインに直結するとは思いません。「変化」には、摩擦と痛みと苦悩が伴います。それは自己の「常識」から逸脱することだからです。「変化」とはリスクをとることです。どうしたって人間は易きに流れるし、保守的になります。しかし、決して強いものや大きなものが生き残るのではなく、「変化」 しつづけるものだけが生き残ることを許されるのだという歴史からの教訓を、私たちはもう一度ここで噛みしめなければなりません。スタンフォード大学の未来学者ポール・サフォーは「過去にすがりつけば悲しい結末を辿ることになる」と言っています。それに私には1998年に出逢ったウエストヨークシャー・プレイハウスの、当時の芸術監督ジュード・ケリー(現サウスバンクセンター芸術監督)と経営監督マギー・サクソン(現劇場経営コンサル)が切り拓いた、地域社会と共生して地域課題に果敢に劇場のポテンシャルを総動員する劇場デザインへの強い共感と共鳴と確信があります。

公立劇場の仕事に従事する私たちは、かつて税金の無駄づかいと「ハコモノ」の汚名を着せられてきた過去からの訣別をしなければなりません。英国の社会学者アンソニー・ギデンスの言う「ポジティブ・ウエルフェア」の拠点施設として人々の日々の営為の襞にまで染み入るための経営手法を手に入れなければなりません。アンソニー・ギデンスは「福祉とは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である。したがって、経済的給付や優遇措置だけでは福祉は達成できない」と述べ、「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」とも述べています。この「心理的ベネフィット」こそが、自分を必要とする他者の発見と自分の存在が役に立っているという他者との関係の実感をもたらす劇場という社会機関の使命であり、それが人びとの「きずな」が作りだす温もりのある木陰のある森を生み出すのだと思っています。だからこそ、私たちは従来の劇場価値の常識から、いまこそテイクオフしなければならないのです。