第175回 隗より始めよ  補助金不正と東京オリンピック・文化プログラム、そして「劇場音楽堂の日」制定。

2015年9月23日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

失望しました。公益財団法人橘秋子記念財団(牧阿佐美バレエ団)による補助金不正のニュースを聞いて、憤りとともに、日本を代表するトップクラスの芸術団体でもこの程度の意識でしかないのか、としばらくして激しい無力感に襲われました。芸術文化振興基金が創設され、企業メセナ協議会が出来た1990年、ようやく文化芸術への公的資金の導入が始まった年からすでに四半世紀が経っているのです。それでこの程度の税金を費やすことへの公共的な意識しかないのか、それも昨日今日に公的資金を扱った若手のカンパニーではないのです。本当にしばらく虚脱感の中で何も考えられない状態でした。

後日入手した報道発表資料によれば、(1)8公演の衣装、装置の賃借料を5480万4000円で計上し、実績報告書提出時点で未払金となっていたが、助成額は未払金でも支払われるため助成金の交付を受けていたが、領収書や振込記録等の証拠書類が、今日段階でも確認できず、実績報告書で後日支払うとこととされていた経費が現在まで支払われていない。(2)8公演すべてで同一人物を芸術監督として起用しているが、実績報告書では一公演75万円となっているものの、銀行振り込みによる支払いが各45万円しか証明書類がない。(3)平成21年度の『白鳥の湖』公演で助成により新しい舞台装置を製作し、実績報告書によれば製作費1488万円、運搬費164万2000円の合計1652万2000円とされたが、公演直後に前段と同一会社に2310万円で売却していた、というもの。これは芸術文化振興基金による発表資料で、返還請求総額が新聞報道によれば約6700万円とありますから、他に文化庁からの補助金の不正もあるものと思われます。

私は財政学者ではないので補助金に対する定立された知見は持ち合わせていませんが、補助金・助成金というのが、これまでの活動に対する「ご褒美」ではないのは言うまでもないことです。これらの公的な交付金は、国及び自治体の社会運営上に必要な、そして直接的間接的に公益性を持つ公共政策上必要と思われる事業の使命を一時的に民間や下位政府に委ねる目的で交付される資金であり、いわば「公共の使命を一時的に移転して政策実現を図るもの」と言うべきものです。つまり、補助金・助成金を受けるということは、政策主体に成り代わって健全な社会形成のための施策を執行する重責を引き受けるということなのです。「ご褒美」ではないというのは、そういう意味です。それだけの重責を果たせると認められた企業・団体・劇場音楽堂等の事業に交付されるのです。したがって社会的責任経営が強く求められます。むろん多くの場合は、その資金は国民市民から強制的に調達した税金であることは言うまでもありません。補助金の使途が「自由放任」でないのは言うまでもないことです。「補助金適正化法」は、そのような精神に基づいて交付された資金を適正に処理する目的で制定されたものなのです。

企業メセナで調達した資金も、本来は株主に還元されるべき利潤の一部であることから、公的な資金というべきであり、協賛を得た団体は企業の社会的責任経営の一部実現という責務を負うものと考えるべきでしょう。したがって、牧阿佐美バレエ団のウェブサイトで、「牧阿佐美バレエ団を応援して頂いている皆様へ」と題された文章で「今回の新聞報道につきまして、ご迷惑、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。今回の件は、組織的・個人的な不正は無く、事務手続上の不備によって生じたものであります」とあるが、謝罪すべきは「応援して頂いている皆様」にではなく、原理原則で言えば「国民の皆様」でなければならないところです。補助を受けるということはそれだけ重いことなのです。個人の着服はなかったとして「組織的・個人的な不正は無く」としているのだろうが、助成金で製作した装置を許可なく売り払い約658万円の譲渡益を出していたことは「組織的な不正」ではないのか。「事務手続きの不備」だけで、どうしてそのような売却行為になってしまうというのか。意図的な売却としか考えられない。したがって、説明責任はまったく果たされていないと私は思うのだか、いかがでしょうか。

私は自分を原理主義者だとは思っていないが、なぜこの補助金不正に厳しく言及し、対峙するかと言えば、来年9月のリオ五輪後に始まるとされる2020年東京オリンピックの文化プログラムの4年間を、文化芸術と劇場音楽堂等を国民生活に根付いた真の意味の国民的合意に基づいた「公共財」にすることのできる最初で最後の機会だと私が考えているからです。それは、国民市民との「信頼」という関係づくりなくしては実現できないことなのです。そこで行われるべきは億単位の予算をかけての一大イベントをやることでは決してありません。「身体的障害」で生きづらさを感じている人々や、「社会的障害」で貧困の淵に追いやられている、たとえば6人に1人の貧困世帯に育つ子供たちや、「精神的障害」でいまも苦しむPTSDの震災の被災者たちに、文化芸術の社会包摂機能で社会的孤立を回避する包摂的なサービスを供給すること。生きづらさを感じている人々に、コミュニティの一員としての実感を持っていただき、「希望格差」から脱する生きる意欲を湧き立たせていただく。そのような社会的使命を持った文化プロジェクトの展開こそが、これを機に本物の文化国家へのプロセスを実現することになると思っているからです。それだけに、補助金・助成金に対する不誠実な態度は許すことができないのです。国民市民からの信頼を失墜させてしまっては、このプロジェクトは成立しないと私は危惧するのです。

このプロジェクトへの公的資金の投入は、まさしく国民の生活の質を重視して、「幸いなる国」に向かうための戦略的な投資となると確信しています。私が日本劇団協議会で進めようとしている、劇場・音楽堂等と劇団のマッチングを進めて、地域の社会的ニーズに対応したプログラム展開を戦術的に推し進め、オリンピック後にその劇団と地域社会がプロジェクトを通して培った親密な関係をオリンピック・レガシーとする事業デザインは、将来的な地域拠点契約という成果に結びつけるという戦略目的を持っています。私がロンドン五輪の文化プログラムを踏襲して「アン・ディスアビリティ(UN-Disability)」とか、「インクルージブ・レガシー(Inclusive Legacy)」と呼んでいる、草の根的で地味ではあるものの壮大なグランドデザインを視野に入れるこの企画は、一部の舞台芸術愛好者や可処分所得の多い特権階級を対象とするものではなく、広範な国民的な合意形成を事業目的として企図するものです。

そのような「機会」としての東京オリンピックの文化プログラムの4年間を捉えるとき、国民市民の負託を裏切るような行為は厳に慎むべきだと私は考えるのです。国民市民は、税金を拠出することでより良い社会構築のための費用負担をしているのです。その納税者の負託を裏切る行為は政府自治体に成り代わって政策実現の担い手となる資格はないのです。数多くの文化施設が建設され、文化予算も近年増加の一途で、その波及範囲も文化芸術の卓越性のみならず教育、福祉、保健医療等に拡がりを見せている昨今を時系列で俯瞰すると90年代からの進化は目覚ましいものがあります。だからと言って、文化芸術や劇場・音楽堂等が国民的合意を背景に「公共財」と認知されているわけではない、と私は思っています。一朝、経済的なパンデミックが起これば、不要不急の政策分野としてまっさきに削減されて省みられないのが文化施策であるのは、文化庁・芸術振興基金、企業メセナ協議会が創設された1990年以前と少しも変わっていない、と私は認識しています。そのような危機感を払拭するための私の研究であったし、金沢市民芸術村での10年、可児市文化創造センターでの8年であったと感じます。

そのような、いささか宙ぶらりんな「茹でガエル」状態にある外部環境をブレイクスルーして、コペルニクス的転換を具現化させる「機会」こそが、2020年東京オリンピックの文化プログラムが行われる4年間であると私は考えています。おそらく、これが最初で最後の「機会」なのではないでしょうか。文化芸術や劇場・音楽堂等のサービスが、国民市民の身近な教育、福祉、保健医療等への現物支給の公共サービスとして、健全な生活を営むために欠くことのできないものであり、また社会的なセーフティネットとしてユニバーサル・デザインの社会構築に不可欠なものとの合意形成ができれば、成長偏重の成長社会から生活重視の成熟社会へと否応なく変化していかざるを得ない時代の峠にあって、文化政策が省庁横断的な重要施策のひとつとしての認知を獲得していくに違いないと考えています。いまこそ、そのような戦略に舵を切るべきではないかと私は考えています。一過性の巨大プロジェクトではなく、アフターオリンピックのレガシーとして日本社会に「公共財」としての文化芸術と劇場・音楽堂等を定着させる絶好の機会として、各地のアートNPO、福祉NPO等、及び自治体、地元企業と連携した草の根的な国民運動を起こすべきだと思います。

そのような戦略を推し進めるうえで絶対に避けるべきは、国民の関心を削ぐようなことや「税金を使ってまで文化芸術が必要なのか」という不信感を増幅させてしまうことです。補助金を得ている芸術団体や劇場・音楽堂等は、社会的責任経営の則を外さないことが肝要です。90年以降、私たちが積み上げてきた「時間」を瓦解させて無にしないことに、私たちは細心の注意を払うべきなのです。あえて言うまでもないことなのですが、国民市民の支持を得なければならないのですから、マイナスからの出発だけはどうあっても避けなければなりません。この時期に補助金不正が露見するのは最悪のタイミングなのであり、事態だと思うのです。私が「激しい無力感」に襲われたのには、そのような理由があるのです。

そのような混迷した状況の中で、いわゆる劇場法の成立施行の6月27日を「劇場・音楽堂の日」にしようとの提案がなされているという話が耳に入ってきました。「恥を知れ」とすぐに思いました。劇場法前文と大臣指針(法律本体を入れていないのは、前文とは異なり劇場音楽堂等を芸術団体の鑑賞者開発に奉仕するかの如き条文があるからで、一部の関係団体の利害を代表しているとしか読めない酷いものであるからです)の指し示す社会的使命さえ未だ実現できていないのに、なぜ「劇場・音楽堂の日」なのか、私には到底理解できない感覚です。拭えない違和感がありました。しかし、これは個人のセンスの問題だと思い始めています。私はそのための環境が整い、多くの国民が納得できる社会的成果をアウトカムしたうえで「劇場・音楽堂の日」を広く国民に提案する行き方を選択する性向なのですが、ともかく打ち上げ花火のようにパフォーマンスを先行させて認知度を高めようとする向きもあることは充分に承知しています。

ただ、仮に「劇場・音楽堂の日」を制定して、その日に全国の劇場・音楽堂等で公演されるすべてのチケットが、たとえハーフプライスになる大胆な仕組みを導入できたとしても、国民の文化芸術への関心には変化がないのですから、それまでの観客や聴衆が恩恵を受けるだけで新規の鑑賞者開発には決して結び付かないと考えるのが科学的だと言えます。働きかける対象が関心や必要性を持っていないと何も変化は生まれない。マーケティングの原則的な考え方です。その意味で「記念日マーケティング」を提唱する一般社団法人日本記念日協会のマーケティング手法に科学根拠があるとは私には思えません。「劇場・音楽堂の日」の提案ということを聞いてすぐに思ったのは「恥ずかしい」という感情でした。「我田引水」、「自画自賛」、「手前勝手」に「自己撞着」。ともかく、芸術団体や劇場・音楽堂等が恥をかくような真似だけはしてほしくないのです。その前にやらなければならないことが、私たちの前には山積しているではないか。芸術家や劇場・音楽堂等の潜在的なポテンシャルを引き出して、社会に還元できる仕組みをつくることに、いま私たちは傾注すべきではないでしょうか。 

可児市民にアーラのある生活を定着させ、必要な社会機関としての合意を形成するのにはおよそ5年の時間が必要でした。文化芸術と劇場・音楽堂等が全国的に「公共財」として認知されるのにどの程度の時間が必要となるかは、正直分かりませんが、だからと言ってそのような改革への歩みを止める理由にはなりません。「今のままでよいのか」、それとも「まったく違う世界に踏み込みたいのか」の選択であるなら、私は何ら躊躇することなく後者を選びます。私たちは文化芸術や劇場・音楽堂等がすべての国民に支持され、成熟社会における社会的矛盾の噴出する世界のセーフティネットとなるプロセスを生きているのだと思っています。私たちが次の時代の人たちに遺せるものは、数億円の税金を費やして巨大プロジェクトを実現したという「過去」ではないと断言します。後から来る、まだ見ぬ劇場人たちが、より強い生きがいを持って、誇りを持って仕事のできる環境であり、そのためのプロセスを私たちは生きているのだと自覚すべきではないでしょうか。

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上記の原稿を脱稿して、ウェブ担当に入稿した直後に世田谷パブリックシアターが公正取引委員会の摘発にあった、というニュースが飛び込んできました。毎日新聞の記事をそのまま転載すると「世田谷区の外郭団体『せたがや文化財団』が、事業委託先に対し、消費増税分(3%)を上乗せせず価格を据え置くよう要請したとして、公正取引委員会が7月、消費税転嫁対策特別措置法の禁じる「買いたたき」に当たるとし行政指導していたことが3日、分かった」、「同財団によると、公演に使う道具や衣装の制作などを業者に委託した際、2014年4月の消費税率アップ後も前年同額で発注するなどしていたという。今年5、6月に公取委の立ち入り検査を受けた。延べ59件、増税分相当額372万1095円について業者に返還する」、「同財団の永井多恵子理事長は『認識不足だった。ご迷惑をおかけして申し訳ない」』と陳謝した」となります。

世田谷区からの受取補助金だけで10億5500万円あり、受取助成金等で8900万円、受取負担金が3658万円、事業収益で9087万円、経常収益でおよそ21億円にも迫ろうとする収入であるのに、なぜ「増税分相当額372万1095円」を支払おうとしなかったのか、私は首を捻ってしまいます。「認識不足」でこのようなことが起こるとは思えません。担当者が認識不足で勝手に下請けいじめをしたのなら、即刻処分すべきですが、処分があったという話は伝わってきません。区議会委員会では「公取委との見解の相違」、「事務的なミス」と弁明したとありますが、紋切り型の言い訳です。大企業が下請けに増税分を押し付ける、あのもっとも唾棄すべき負の経済行為を、リーディングシアターたる世田谷パブリックシアターがやっていたことが、私は同業者として恥ずかしくてたまりません。

いくら度々演劇賞を受賞しているといっても、全国の劇場・音楽堂等の範たるリーディングシアターの矜持はどこにいったのか。倫理観も社会的正義もあったものではありません。下請けいじめは、「犯罪さえしなければ儲けた者の勝ち」(宇沢弘文)という新自由主義的な、非人間的な経済行為です。もっとも「人間的」であるべき劇場・音楽堂等の存在が激しく貶められた、と私は感じています。どうやら、この一件も内部告発のようです。だとするなら、ほとんどの職員が非正規雇用であるという組織運営への反発ではないかと考えるのが常識でしょう。大事な時期に何ということをしてくれたのかと、独り言が出てしまいます。