第174回 劇場は社会に何ができるか、社会は劇場に何を求めているか  時代的・今日的な社会課題の解決へ向かうオリンピック・レガシーを。

2015年8月10日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を契機とした文化芸術立国の実現のために」と副題のつけられた「文化プログラムの実施に向けた文化庁の基本構想」が先月文化庁から発表されました。3つの方針と7つの戦略からなるもので、(方針1)異分野を巻き込んだオールジャパンによる推進体制、《戦略1》企業・団体との協働、《戦略2》地方公共団体、文化芸術団体、NPO等との協働、《戦略3》組織委員会,関係省庁,国立文化施設と一体となった展開,他分野との連携、(方針2) 文化芸術の人材育成・確保,新たな文化芸術の創造、《戦略4》大学,学生等の参画、《戦略?》新たな文化芸術の担い手を支援、(方針3) 文化芸術の国内外への発信、《戦略5》あらゆる人々の参加、《戦略6》国内外への発信,海外からの誘客、という構成になっています。また、数値目標も掲げており、「文化庁としては、『文化力プロジェクト(仮称)』について以下の規模で全国津々浦々で実施することを目標とする。また、平成32年(2020年)までの訪日外国人旅行者数2000万人の達成に貢献する」として、「イベント数20万件、参加アーティスト数5万人、参加人数5000万人」という達成目標を打ち出しています。これは2012年のロンドン五輪での「文化イベント17万8000件、参加アーチスト204ヶ国4万人、参加人数4340万人」に準拠した数値目標と思われます。 

「オリンピック憲章」の(根本原則第1)には、「オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均整のとれた総体としての人間を目指すものである。スポーツと文化と教育と融合させることで、オリンピズムが求めるものは努力のうちに見出される喜び、良い手本となる教育的価値、社会的責任、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重に基づいた生き方の創造である」と記されて、オリンピック競技大会とともにパラリンピック、文化プログラム(Cultural Olympiad)の開催が要請されています。文化プログラムが現在のように大規模に開催されるようになったのは、第25回(1992年)のバルセロナ大会からで、オリンピック開催後にもその影響が継承され、その都市や国民にとっての新しい価値として残るようにと「オリンピック・レガシー(オリンピックの遺産)」が重視されたのが2012年のロンドン大会の特徴です。それは一つには、ロサンゼルス大会から巨額の予算を費やすことで成立しているオリンピック大会に対するある種の「警鐘」であり、オリンピックの社会的意義の転換を図ろうとする強い意志も働いていると見るのが妥当でしょう。更には、選ばれたものだけが競技参加するオリンピックから、より多くの人々の参加可能なオリンピック・イベントへの転換をも企図したものと私は考えています。だからこそ、数多くの文化と教育と魂の自立と人間を讃歌するが如き約18万ものプログラムが英国全土で展開されたのです。

文化庁が設置した「2020年に向けた文化イベント等の在り方検討会」座長であり、文部科学省の「オリンピック・パラリンピック教育に関する有識者会議」委員でもあるニッセイ基礎研究所の吉本光宏氏の私案では、国の文化予算が英国のおよそ半分であることから125億円、人口が英国の2.4倍、GDPが2.02倍という観点からおよそ500億円と、リオ五輪後に始まる4か年間の「文化オリンピック」の予算総額も漠としてはいるものの提案されています。むろん、この数字は組織委員会、国、東京都、地方自治体、その他の民間資金の総計ですが、これほどまでは大きくはならないにしても、かなりの額の予算規模で「文化オリンピック」が全国で展開されることが予想されます。

ロンドン五輪の場合、はじめは旧知のジュード・ケリーが芸術・文化・教育諮問委員会の委員長に任命されて、基本コンセプトとして国内各地区に専任のプロデューサーを配し、地域から

プロジェクトをボトム・アップで積み上げようとするポリシーを企図していたのですが、委員会との間で衝突が起き、次いで任命されたキース・カーンも委員会との折り合いが悪く、その後創設されたカルチュラル・オリンピアード委員会の統括責任者となったのが、かつてノッティンガムプレイハウスの芸術監督として日本のグローブ座公演をしたルース・マッケンジーです。この二転三転した人事は、文化オリンピック・プロジェクトに絡む利害関係の複雑さや、それ自体を推し進めるうえでの難しさを物語っているように思えます。この人事的な漂流には、むろん文化的・芸術的・財政的ポリシーを調整する困難さもありますが、2010年の労働党から保守党・自由民主党連立への政権交代という政治的な要素もあっただろうと私は想像しています。

予算規模は、新国立競技場をはじめとするオリンピック会場となる施設設置や改修予算が大きく膨らんでいることもあり、前述した吉本氏の私案ほどは大きくならないと予想できますが、それでも4年間という時限で膨らむ文化予算は決して少なくないだろうと考えられます。当然のことながら、文化的・芸術的利害のみならず財政的利害も複雑に交錯するプロジェクトになることは間違いありませんが、「いま必要なのは何か?」という問いを突き詰めて考えることが肝要だと思います。そこで導き出された運営ポリシーで利害調整できる機関を、時限措置で良いので、設置することも一案ではないかと思っています。ロンドン五輪の際の「レガシー・トラストUK」のような組織をイメージしても良いでしょう。単なる一業界、一芸術団体、一劇場音楽堂等の、狭い意味の課題解決に資するのではなく、その地域や、さらに言えば日本の文化芸術への社会的認知、劇場音楽堂等への国民的オーソライズを「新しい価値」として生む成果とレガシーを目指すべきでしょう。

さらには成熟社会で避けようもなく噴出する社会的矛盾を解決と再生へと向かわせる「オリンピック・レガシー」と想定する、まさに「草の根文化立国」というグランド・デザインからの「いま必要なのは何か?」というスクリーニングによって厳しく審査されるべきであり、メリハリのある選択と集中の予算配分がなされるべきでしょう。一部にある「オリンピック・バブル」的な考えは厳に慎むべきです。そのような考えは何も解決しないし、何のレガシーも遺さない。たとえ何億円を費やしても、そのような一過性のイベントが将来の日本社会に何か有益な影響を遺すとは到底思えません。

したがって、予算の配分も、今日的な社会課題であり国民的支持を得られるプロジェクト以外の、国家的なレガシーにはなりえないような一過性のイベントについては、ロンドン五輪の際に実施された地域プログラムである「リーズ・キャンバス・プロジェクト」のように、すべてを国からの補助金に依存することなく、自主的な財源と資金の多元化を実施団体に求めるべきだと私は思っています。可児市文化創造センターalaが、業務提携をした北部英国・リーズ市のウエストヨークシャー・プレイハウスとの滞在型国際共同制作も、自主財源と支援の多元化で実現しようと考えています。そのような資金調達が実現するためには、資金提供のインセンティブとなる認定制度を設けて、IOCや前述の時限的な機関の公式認定によってファンドレイズを強力にサポートする仕組みは必須です。このファンドレイジングのプロセスこそが、対象となる各機関や企業に文化芸術や劇場音楽堂等の社会的必要性の説明責任を果たす機会でもあり、しいては東京オリンピックへの国民的関心を高揚させる契機となるのではないかと考えています。

ならば、「今日的な社会課題であり国民的支持を得られるプロジェクト」であり、アフター・オリンピックの社会構築にとって重要なレガシーとなる、すべての国民にとっての価値を共有できるレガシーをアウトプットする国家的なプロジェクトとは何なのか。それは成熟社会における多様に噴出する社会課題を解決に向かわせる、教育機関、福祉施設、保健医療機関、それらと関連する民間NPOとの連携による包摂的なコミュニティ・プログラムの全国的な展開です。文化芸術や劇場音楽堂等が決して一部の愛好者や余暇があり可処分所得の多い特権的な層の独占物ではなく、社会の構成員すべてにとって「生きる意欲」と「自己肯定感」をもたらす有益な公共財であるという社会的合意を「オリンピック・レガシー」とする、これこそ「オール・ジャパンによる挑戦」です。私はこれを一大国民運動にすることで、文化芸術や劇場音楽堂等の鑑賞者開発や「支持者拡大」へのマーケティングの起点とすべきと考えています。そのような国民的なプロジェクトによって、まさしく「草の根文化立国」への第一歩を踏み出せるものと確信しています。それを実現させるためには、コーズ・リレイテッド・マーケティング(社会貢献型マーケティング)の複雑な手法を駆使しなければなりませんが、これは可児市文化創造センターalaで具体的に展開しているマーケティングの経験値をいかに応用するかだと思っています。

8月7日はレギュラースピーカーとして平田オリザ氏、ゲストとしてNPO法人「芸術家と子どもたち」の堤康彦氏を招いて、今年で6回目となる夏恒例の『衛紀生のおしゃべりシアター/まちを元気にする処方箋』があり、「学校と劇場とアーティスト」というタイトルで鼎談がありました。このとき、堤氏が大変重要な課題提起をしておられました。彼は大学を出て東京ガスに就職し、しばらくして東京ガスが建設する新宿パークタワーのプロジェクトに異動したそうです。そこで希望してホールとギャラリーの運営に携わったそうですが、その時に、来場客がみんな「アートファン」ばかりであることに違和感を覚えたそうです。「皆、同じような顔をした」と彼は比喩的に話していました。それが後年、「芸術家と子どもたち」を設立して、アートに関してはまっさらな子どもたちと芸術家をマッチングさせる仕事をしようという契機になったとのことでした。これは重要な指摘です。日本の文化芸術市場は極めて狭隘です。まさに「一部の愛好者」のみで形成されている市場と言わざるをえません。その「愛好者」もいつしかマーケットから退場してしまうわけで、日本のアーツ・マーケットは、鑑賞者の集積の起こりにくい市場特性を持っています。

鑑賞者開発を直接的に企図する「演劇体験ワークショップ」や「ロビー・コンサート」、「出前演奏会」は、演劇やクラシックのファンをつくることを使命としており、いわば顧客開発という「劇場課題」、「ホール課題」を解決するために普及啓発することが目的です。これと、近年言われている「社会課題」に対応する社会包摂型ブログラムとは位相が異なっていることに私たちは気付かなければなりません。社会課題に対応して「支持者開発」をする、いわゆる社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing)を駆使する戦略的経営に適応できるのは、後者のプログラムであることは言うまでもありません。言うならば「演劇ファン」、「クラシックファン」、「アートファン」を創るための課題解決ではなく、劇場音楽堂等や美術館があるために社会の健全な営みが維持されるという、破壊された人間環境が再生するために第三次基本方針にある「文化芸術の社会包摂機能」を充分に活用することが、いま求められているし、将来社会では必ずやニーズが高くなると思います。

私たちは「成熟社会」と聞くと、いかにも幸福度と経済達成度の高い社会を想像しますが、「成長社会」が青年期であるとすれば、それは壮年期の社会であり、成長優位の社会から生活重視への転換が求められる社会のことです。人間が所有欲求(having)から存在欲求(being)へ向かう、あるいは向かわざるを得ない価値観と社会環境の激変期のことと言えます。ピーター・ドラッカーは『ポスト資本主義社会』のなかで、「新しい時代、すなわちポスト工業化の時代、ポスト社会主義の時代、ポスト資本主義の時代が要求するものは、とくに日本に対しては厳しいものとなる。成功を問題視することは、至難である。しかも、日本の成功はあまりにも偉大である」との認識を示しています。戦後日本の経済成長の成功があまりに劇的であったために、新しい社会を創るにはその「成功体験」が日本にとって、あるいは日本人にとって厳しい障壁になる、とドラッカーは考えていたのです。いわば1993年にドラッカーが21世紀の日本について語った「予言」です。私は現在の日本が彼の看破した通りになっていると実感しています。日本のみならず、OECD加盟の先進国は、経済成長が思うにまかせず、それでも「成長社会」の成功体験に囚われて無理やり成長をさせようとして社会矛盾を増大させ、将来的な社会不安を抱え込むようになっていると断言します。そして、これが「成熟社会」の実態です。

それだけに、多様な社会課題に向き合うことのできる文化芸術と劇場音楽堂等の対人型サービスによる包摂的機能に、私たちは健全な社会構築するために大いに着目すべきであり、その活用によって行き詰った先進国の社会構造をブレイクスルーする、国民の生活を重視する最初の先進国として、まさしく創造的福祉社会へ向かう「草の根文化立国」への道程に、日本はいまこそ踏み込むべきだと考えるのです。そのムーブメントが指し示すものは、まさに『オリンピック憲章』にある「教育的価値、社会的責任、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重に基づいた生き方の創造」なのではないでしょうか。それは危機に瀕する人間社会を回復に向かわせる、いわば「21世紀のルネサンス運動」です。敬愛する宇沢弘文先生の言葉を借りれば、「すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保できる」社会を構築する道に踏み込むということです。

それには、「国民運動」としての大きな展開が可能となる2020年東京五輪の文化プログラムだからこそできることです。千載一遇の、まさに絶好の機会ではないでしょうか。そして、前述した時限設置すべき機関は、省庁横断的な発想と、また多様な専門分野の識者、広い社会的な視野をもって文化芸術や劇場音楽堂等の舵取りのできる若手中堅の人材で構成すべきだと思っています。そして、そこに登用された若き才能が、将来的に日本の文化芸術と劇場音楽堂等を担うことの期待できる人材になるという循環が起きれば、それもまた「オリンピック・レガシーだと思っています。

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表題の「劇場は社会に何ができるか、社会は劇場に何を求めているか」は、来年2月12日、13日に可児市文化創造センターalaで開催される「世界劇場会議国際フォーラム2016」の総合タイトルです。私たちは自らの劇場音楽堂等を社会全体に向かって解き放ち、その可能性を一層開発する努力を怠るべきではないし、格差拡大と分断化する危機にある社会が、その病理を克服するために何を求めているのかを聞きわける「耳」を持たなければならないのではないでしょうか。生きづらさに打ちひしがれそうになっている「生命」を、劇場から一番遠くにいる人々の中に見いだせる、真昼の空に星を見ることのできる「眼」を持たなければならない、と私は思い続けて劇場経営をしてきました。英国からの3名のゲストスピーカーと国内で活動する6名のスピーカーで、私たちの時代と社会に劇場がどのような可能性を持つのかを議論し、確認できればと思っています。