第171回 成熟社会における文化政策と劇場経営を考える― 今後、国の文化予算は増えないという発言が示唆すること。

2015年4月30日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

人間の経済的な豊かさへの欲望はとどまるところを知らないように思えます。社会は経済成長をし続けるという前提で、私たちは将来の社会や自分の生活を考えてしまう習い性を持っているように思えます。しかし、私たちの生きている世界が未来永劫、いつまでも「成長社会」であり得るのでしょうか。リニア新幹線を扱ったテレビ番組を見ていてそう考えました。リニア新幹線が構想されたのは1962年だそうです。まさに高度経済成長期の真只中。それから半世紀以上もの時間が経っています。「東京―名古屋40分、東京―大阪1時間19分」という数字に私が感じる違和感は何だろうか、と考えました。

リニア中央新幹線建設促進期成同盟会のウェブサイトには、「交通政策審議会における分析によれば、利用者の所要時間短縮などの利便性向上等を貨幣換算した『便益』は、東京―大阪間の開業時点において1年あたり7100億円と推計されて」おり、「移動時間が短縮され、出張等が効率化し生産コストが低下することで、世帯の消費や旅行関連財の消費が拡大することなどにより、全国で生産額が8700億円増加すると推計されて」いると掲載されています。

しかし、将来の経済波及効果を推計するベースとなっているのは60年代初頭の経済成長期の市場的諸条件であり、それに関してどのような「期待」を持っているかによって推計される数値はおのずと左右される、というのが経済学の経験的な知見です。つい先日、米連邦準備制度理事会(FRB)のイエレン議長が「現時点での株価水準は一般的にみて極めて割高だ。潜在的な危険がある」と述べて、将来的なバブルの発生に警戒感を示したのも、1930年代の「大恐慌」の、金融資産の実質的価値よりも将来的に市場価格が上昇して大きなキャピタルゲインを生むだろうという「期待」を多くの人々が持っているかぎり投機が投機を生むという状況となり、終にそれが閾値に達したときに大暴落が始まった、という「過度の投機的期待」への経験値からの発言だと私は思っています。

「東京―名古屋40分、東京―大阪1時間19分」、「全国で生産額が8700億円増加する」に対する私の違和感はそのあたりにあると思いました。いくら大きな経済効果があると謳っていても、にわかにはその数値に現実的妥当性を感じられないのは私だけでしょうか。経済成長が果てしなく続くと誰もが信じられていた時代の壮大な計画の実現を、さまざまな社会的矛盾を抱えて生活重視にシフトしなければならない価値観の違う「成熟社会」に生きている私が目の当たりにしているというところから来るズレが、まさしく私が感じた違和感なのではないでしょうか。時代は大きく変化しているのです。経済成長を至上とする社会から、生活の質を重視する「成熟社会」へと変化して来ているのではないでしょうか。

私たち日本人は「成長神話」の囚われ者なのではないか、と思うことがあります。経済成長至上主義の社会から、成長と生活のバランスのとれた「成熟社会」への価値観の移行こそがいま必要なのではないか、と私は思っています。私たちは大きな経済成長を実現してこその「良い政治」という考えに囚われすぎているのではないでしょうか。エコノミストも、株価やGDPの数値の伸びに一喜一憂して、それをきわめて楽天的に解説して経済政策の可否を述べているに過ぎないのではないか。マスコミも成長神話の中で「あまい夢」を拡大再生産して振り撒いているだけではないのか。国民もまた、株価上昇やGDPの伸びを景気改善の兆候として、そのムードに浸ることで一時の安堵感に浸って、いつかは自分のところにもトリクルダウンという「おこぼれ」が来るだろうと淡い期待を抱いているだけなのではないか。その微妙で危うい均衡の中で、若干の希望的観測と如何ともしがたい閉塞感をあわせもった時間がいたずらに過ぎて行っているのではないか、と私は最近感じています。そして、見方によっては「成熟社会」とは、そのような均衡の中にあって、経済的成長を金科玉条のごとく掲げる量的拡大の成長最優先の社会から脱して、政策課題を「適正な成長」と「生活重視」の均衡する質的充実の社会の実現へとシフトする、いまはその価値転換へ向かう過渡期なのではないかとも思います。リニア新幹線に感じる違和感から、私たちはそういう時代を生きているのではないかと思いました。

まもなく閣議決定される「第四次基本方針」は、その「成熟社会」という概念が強く意識されているのではないかと思っています。前文には、「経済成長のみを追求するのではない、成熟社会に適合した新たな社会モデルを構築していくことが求められているなか、教育、福祉、まちづくり、観光・産業等幅広い分野との関連性を意識しながら、それら周辺領域への波及効果を視野に入れた文化芸術振興施策の展開がより一層求められる」とあります。文化芸術及び劇場音楽堂等が「成熟社会に適合した新たな社会モデルを構築していく」ために重要な役割を果たすことが時代の要請としてあるのだ、という風に私はこの文章を読み取りました。時代環境の変化によって、文化芸術や劇場音楽堂等への社会的ニーズも変化して来ている、という「時代認識」と「変化」へのメッセージがここに書き込まれているのではないか。その「変化」こそが「第四次基本方針」から始まる「成熟社会」における文化政策のキーワードなのではないか、と私は受け止めています。

だとするならば、私たちは従来からの「常識」とされてきた文化芸術と劇場音楽堂等の社会でのあり方から脱却して、新しい社会モデル構築の役割を担う存在として自らを変化させることが求められているのではないでしょうか。4月16日の文化審議会総会での青柳文化庁長官の「多様性は文化の切り札、文化概念の拡大を」という発言の意味するところは、古い殻を自らの力で破って「成熟社会」という新しい時代に向かって舵を切ってほしい、という私たち文化芸術関係者への要請なのではないか。 そのような選択を決断する、いまがまさにその時ではないか、という文化行政の当事者からの檄なのではないでしょうか。

先進国の経済成長は、かつては植民地というフロンティアの天然資源や労働力によって経済生産性を高め、その利得の多くを自国に還流させて大きな経済成長を果たして来ました。戦後は、その植民地の独立にともなって、やがてフロンティアは発展途上国や経済後進国となり、現在ではOECD加盟の先進国はフロンティアを自国内に求めるようになっています。それが先進国に押しなべて起きている格差拡大という社会問題を生み落しているのです。アメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンは、市場経済制度はあらかじめ反論理的、反社会的な要因を内在させており、それが金融恐慌と慢性的不況と非自発的失業を大量に発生させ、そのような危機的状況は循環的に起こるとして、ニューヨーク市場に端を発する大恐慌を予見していました。ビケティの『二十一世紀の資本』の壮大な仮説はともかくも、いわば資本主義経済が制度的宿痾として内在する問題をいかに克服するかが、そこに生きる人間、政策立案者、経済学者、財政学者等に課せられた使命なのだと私は考えています。

格差の拡大というのは経済的収奪が自国民に向けられた結果なのだと私は理解しています。折しも「ホワイトカラー・エグゼンプション法案」(残業代ゼロ法案)と言われる労働関連法の改正案が閣議決定されました。企業団体からは、さらなる対象者の拡大が言われています。しかし、これ以上に経済成長至上主義の社会が進むと、私たちの社会が取り返しのつかないほど壊れてしまうのではないかと危惧します。社会は止まるところを知らない「経済成長至上主義」という宿痾によって「病気」に侵され、終にはその病状が慢性化して取り返しのつかない事態に陥ってしまう、と私は単なる一劇場人ですが強い危機感を持っています。私たちの世代が経験した人間的な温もりと生命感の溢れた日本は何処に行ってしまったのでしょうか。取り戻さなければいけないのはそのような日本なのではないでしょうか。文化芸術や劇場音楽堂等の社会への効果は、「経済性」であるよりも先に「幸福度」の向上であると思います。かつて私は「館長エッセイ」で劇場音楽堂等の経営者として依って立つところはGDP(国民総生産)であるよりもGHP(国民総幸福度)であると書きました。東日本大震災の4日前のことです(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_104.html)。

私は一貫してこの考えを持って劇場経営にあたっています。私たちは「成熟社会の負の症状」を克服へと向かわせるために、新しい社会を構築する道へと踏み出さなければならない地点に立っています。そのことを自覚しなければならないと思っています。巷間で「可児モデル」と言われ始めているアーラの経営は、そのような危機感と、私を育んだかつての日本が持っていた豊かさへのある種の渇望感に突き動かされて、「英国病」を克服するために英国の劇場人たちの足跡を範として編み出したものです。

そのような些か座りの悪い嫌な感じを抱えながら、文化芸術の時代的必要性への社会的合意の形成や、劇場音楽堂等が「生活重視」へ向かう社会で何ができるのかを考え続けている折、4月13日の午後に新国立劇場のオペラパレスのロビーで劇場音楽堂等連絡協議会(劇音協)の第2回総会が持たれました。午後からの総会の前に演劇舞踊部会が開かれました。その議論の過程で、穂の国とよはし芸術劇場のチーフプロデューサーの矢作氏から「下村文科大臣が豊橋に見えた折に、文化予算はもう増えない」という旨の発言があったという報告がなされました。統一地方選の応援に見えた折に施設視察をしてもらい、その最後に一言と促されての発言だそうです。別の案件を検討する議論の中での矢作氏の発言でしたので、出席者のおおむねはほとんど気にも留めなかったのではないかと思いますが、私は「ついに来たな」という気持ちでその矢作氏の報告を受け止めました。

サッチャリズムやレーガノミックスに呼応した中曽根政権はあったものの、日本が本格的に市場原理主義に基づく新自由主義的な政治経済運営にシフトしたのは2001年の小泉政権からで、第二次安倍政権からは政権与党のひとり勝ちから教育、福祉、保健医療の各分野でその考え方がドラスティックに導入されるようになっています。その市場原理主義という経済思想からすれば、生産性の低い、大きな経済利得を生まない、経済成長への貢献度の低い文化政策はあまり歓迎されるものではないし、公共からの支援に頼ることなく民間からの資金調達によって自立的運営を促すことになるだろうことは、同じ新自由主義による政策によって「英国病」と言われた社会の行き詰まりから脱却しようと企図したサッチャー政権における文化政策の変質を振り返って見ても明白です。最近では、橋下大阪市長の文楽協会や大阪フィルへの対応を思い起こせば、競争重視の市場原理主義における文化芸術の置かれている位置は理解できるでしょう。

「文化予算は増えない」の背景に、上記の政治経済思想による考え方がベースにあることは疑いのないところですが、あわせて喫緊の政治課題としてのきわめて深刻な国の財政危機があるのはもちろんのことです。しかし、私はそれだけではないと考えています。一連の発言の「行間」に込められた文化行政トップのある思いを私は感じています。

そこで、まずここ一年ほどの間の文化行政幹部の発言の概要を列記して吟味してみたいと思います。

●2014年7月24日 文化審議会総会 

 下村文科大臣 「社会課題 省庁横断 市場形成」 

 青柳文化庁長官「陽当たりの良くない地域を良くしていくことが文化政策」 

 河村文化庁次長(当時) 

 「一部の関係者に閉じられたものでないことを承知していることを確認したい」 

●2014年12月5日 豊橋市での発言 

 下村文科大臣 

 「文化予算はもう増えることはない。オリンピックや創造都市を活用してほしい」

●2015年4月16日 文化審議会総会 

 青柳文化庁長官 

 「我々を取り巻く環境は変化している。国の財源がない中で予算は増えない。民間資金 

 の調達を図り盛り上げてほしい。多様性は文化の切り札、文化概念の拡大を。日常ギリ      

 ギリの生活をしている人々をどのように助けていくか、既存の事業の見直しが必要」

それぞれの発言を「点」としてではなく、「線」として列記してみると、「文化予算は増えない」ということはどの方の発言にも共通しているものの、私にはそれ以外に、文化行政トップが感じている行間に込められた「もどかしさ」のようなものがあるという思いを、私はどうしても払拭できないでいます。「もどかしさ」と表現するよりも「苛立ち」と言った方が適切かもしれません。その「苛立ち」は、「戦略的芸術文化創造推進事業」(366百万円)、トップレベルの舞台芸術創造事業(3,152百万円)、「劇場・音楽堂等活性化事業」(3,003百万円)、「地域発・文化芸術創造発信イニシアティブ」(2,522百万円)と、およそ90億4000万円という国費を芸術団体と劇場音楽堂等に拠出しているのにもかかわらず、その成果があまりに外部化しないことへの、文化芸術関係者へのある種の「警告」だと私には受け取れます。

たとえば「一部の関係者に閉じられたものでないことを承知していることを確認したい」という河村潤子文化庁次長(当時)の発言は、直接的には業界内行政的な発言に終始する文化審議会委員や文化政策部会委員に向けられていることは疑いのないところです。彼女が「確認したい」のは、「一部の関係者に閉じられたものでない」議論であってほしいということです。文化政策の最終受益者たる国民を視野に入れた「第四次基本方針」答申に向けての議論であってほしい、ということに間違いありません。最終受益者が国民であることを忘れているのではないか、という危惧です。費用対効果があまりに外部化されないと現在の政治経済体制下では、文化芸術への予算化の根拠が失われるという切実な危機感がそのような発言になったのではないか、と私は推察しています。

そして、青柳正規文化庁長官の、発言の時期はずれてはいるものの、「陽当たりの良くない地域を良くしていくことが文化政策」と「日常ギリギリの生活をしている人々をどのように助けていくか、既存の事業の見直しが必要」、そのために「文化の概念の拡大」という意識改革を文化芸術関係者に促している発言は首尾一貫しており、仮に文化予算の増額をはじめとする日本の文化行政に「第4次基本方針」で何らかの変化を求めるのであれば、まず文化芸術と劇場音楽堂等の側が自ら変化することから始めてほしいという要請である、と私は受け取りました。「陽当たりの良くない地域を良くしていくことが文化政策」については、以前にもこの館長エッセイで触れています(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_167.html)。

先日の文化審議会総会の閉会の言葉では、さらに踏み込んだ具体的な提言となって「日常ギリギリの生活をしている人々をどのように助けていくか、既存の事業の見直しが必要」と、閉塞的になっていっている時代の要請として、その状況に文化芸術や劇場音楽堂等がどのような処方箋で応えられるかという課題提起となっています。これは、下村博文文科大臣の昨年7月の文化審議会総会で挙げた「社会課題」と「省庁横断」と符合しています。2011年2月8日に閣議決定された「第三次基本方針」では、「文化芸術の社会包摂機能」と「文化芸術への公的支援を社会的必要に基づく戦略的投資と捉え直す」という認識が示されました。そのことで、私たち文化芸術関係者は、「欲望の充足」としての活動から「必要の充足」を使命とする社会的存在にとして意識変革を遂げ、社会課題に対応する成果をアウトカムすることを促されたのだと私は承知しています。社会の活性化、地域の活性化、業界の活性化と、政策立案においてはこの「活性化」という文言がたびたび使われます。この「活性化」へのインセンティブが豊富に存在することが補助金行政の肝要な要件であると思っています。「補助金はもう増えない」という発言は、芸術団体や劇場音楽堂等の現況に、「活性化」へのインセンティブが感じられないということではないかと思います。「常識」を覆すほどの「変化」へのインセンティブこそ、いま私たちに求められている課題であると私は思います。

アーラの館長兼劇場総監督として就任した2008年に私は、それまでオープン以来5年間行われていた劇場経営の考え方をリセットして、「人間の家としてのアーラ」、「社会機関としてのアーラ」を目指す運営にシフトしました。最近では「可児モデル」と呼ばれるようになったその経営手法は、当初からこの社会的必要の充足を目指すもので、可児市役所の関係する各部署に働きかけて連携した、いわば「省庁横断」的な取り組みでした。今日では、(公財)可児市文化芸術振興財団の評議員に、健康福祉部長が任命されています。また、「市場形成」では、就任初年度に374パッケージだったパッケージチケットの販売数が、6年目の昨年度は1155パッケージと309%の伸びとなっています。年に4本の芝居を見る「演劇まるかじり」は、41パッケージから262パッケージへと639%と約6.4倍に伸びており、クラシックコンサートを年4回鑑賞する「まるごとクラシック」は200パッケージを3年連続で超えました。

もっとも伸びたのは、地域拠点契約を締結している芸術団体(新日本フィルハーモニー交響楽団と劇団文学座)の公演と可児で滞在型のアーチスト・イン・レジデンスで自主制作している「アーラコレクションシリーズ」と「シリーズ恋文」をパックした「ウェルカムホーム・パッケージ」で、初年度の6セットから49セットへと817%増を記録しました。人口10万人の小さなまちではありますが、その規模なりの「市場形成」はできていると自己評価しています。これは、年間400回を超えるアーラの社会包摂型プログラムである「まち元気プロジェクト」を起点とした社会貢献型マーケティング(Couse Related Marketing)によるブランディングと有効需要形成、その循環が鑑賞者開発と来館者開発を促し、さらにその顧客の離脱率を最少化して、多くの継続客を生み出す循環を成立させていると分析しています。このマーケティングが「顧客の離脱率」を縮小して、「継続客」の高止まりを実現できるのは、顧客の生活信条や社会参加への意思に強く働きかけて、購入・利用などの消費行動を通じて、社会的な課題の解決に寄与していこうという意識を持つ「倫理的・道徳的な消費者」(ethical consumer=エシカル・コンシューマー)の存在です。そのような価値観を持ったエシカル・コンシューマーこそが「成熟社会」の消費者の姿です。趣味や嗜好は移ろいやすいですが、生活信条や確固たる価値観や社会意識は、共感する関係づくりさえ怠らなければ長期的な取引を実現します。いや、それは経済的な「取引」と呼ぶには相応しくなく、むしろ社会的な「取組」と言えるものではないかと私は考えています。

人口10万人の可児市とアーラの商圏は25万人とされていますが、東京圏のマーケット規模は、そのおよそ128倍の3200万人と比べものにならない巨大な規模です。日本人の4人に1人がその商圏に居住しているのですから、下村文科大臣が課題に挙げられた「市場形成」

を考えると、その規模に対応する新たなマーケティングとブランディング手法が必要であるように思われますが、「売れる環境づくり」の手立てにさほど違いがあるとは思えません。先行者利得があったとはいえ、1997年にオープンしてからの世田谷パブリックシアターの劇場界での圧倒的な存在感は、最先端の新しい舞台芸術の生まれる磁場としてのブランディングに成功した都市型劇場のモデルケースであり、データとしてその数値を確かめたわけではないのですが、「顧客離脱率の最少化」という優れたマーケティング成果を確立していたことは疑いのないところです。東京圏の劇場音楽堂等に公的資金を投入して求められるのは、言うまでもなく「市場形成」とそのためのマーケティング手法の確立ではないかと思います。そのためにもコーズ・リレイテッド・マーケティング(社会貢献型マーケティング)の展開を可能とする経営手法と経営環境の整備が必要となります。都市型の劇場音楽堂等にも、むろん「成熟社会」におけるコミュニティ形成のサービスの供給は求められます。

正確には記憶していないのですが、90年代も終わりに近づいた頃、当時通産省で審議委員をしていた年上の友人を通して、大臣官房が「文化の産業化」について話を聞きたいからご足労を願えないかという申し出を受けました。その折の詳細については、およそ3年前にアーラのウェブサイトにアップされている「館長エッセイ」の第152回に詳しいのでそちらをご覧ください。(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_154.html )その折に提言したのは、都市型のロングラン劇場の整備という市場環境づくりであり、そのための新たな劇場建設などは必要なく、既存の民間劇場にクローズドと次の演目がスタートするまでの「休業補償」をするという仕組みでした。「休業補償」の期間に劇場側が自主企画を行う自由を付与して、まちの賑わいは担保する制度設計をすることを進言しました。そのような劇場を5、6館程度設けるだけで経済波及効果は飛躍的に大きくなるだろうし、産業化による舞台従事者のプロフェッショナル化と従事者組合化をも促すだろうと提言しました。そのために必要な当初補助金は5億円程度ではないかと考えました。通産省にとって5億円という予算規模はきわめて小さなものです。それで競争原理が働く「市場形成」ができ、文化の産業化の第一歩が踏み出せるのなら、私は安いものだと官房の職員に話しました。

「市場形成」をしてその確立をはかるには、産業化だけに非常に大きな資金と労力を必要とします。あるいはそれは文化庁の政策テリトリーではなく、経産省のやるべき仕事なのではないかとも思います。東京圏の劇場音楽堂等が補助金によって求められるのは、優先順位からすれば、この「市場形成」なのではないでしょうか。それによる経済波及効果の最大化に寄与することが求められる、と私は考えます。それには舞台芸術の産業化への必須条件である「ロングラン・システム」と「レパートリー・システム」を可能とする環境整備と、背後に控えている巨大なマーケットにおける舞台芸術の鑑賞者開発と顧客維持のためのマーケティング手法の採用と更なる技術開発が必要なのではないでしょうか。そして、「結果としての経済波及効果」と劇場音楽堂等への「支持者の拡大」を図ることが東京圏の劇場音楽堂等の、社会的認知と支持を獲得する未来のグランドデザインに向けての使命だと私は考えています。また、そのロングランに向けてのトライアウトを地域の劇場音楽堂等の巡回というかたちで廉価で実現させれば、文化芸術の一極集中の回避策として機能するのではないでしょうか。

むろん地域の劇場音楽堂等にも「市場形成」は求められるのは当然ですが、あわせて「成熟社会」の生活の質を重視する政策の手段としての地域の当該施設には、「社会課題」への「省庁横断」的な対応をする均衡ある劇場経営が重視されると考えます。あるいは、ブレア政権後の芸術評議会が、助成の要件としてコミュニティ・プログラムを所管する部署の設置を義務付けたように、地域の劇場音楽堂等の「活性化事業」の補助金申請の要件として、その公的資金が「戦略的な投資」となるための機能的かつ人的な受け皿の設置を義務付ける制度設計を改めて行っても良いのではないかとさえ私は思っています。東京圏の劇場音楽堂等への補助制度と、その他の地域への補助制度と二本立てにする制度設計もありうると考えています。「経済成長優先型社会」における文化政策の方向性と、生活の質を重視する「成熟社会」におけるそれとは、おそらくまったく違うのではないかと思っています。

「文化予算はもう増えることはない」の背景には、明らかに時代環境の大きな変化があり、新しい社会的必要が生じていることに自覚的になり、自ら率先して「変化」することが求められているのだ、と私は考えています。私は、これから先、文化予算が増えることはない、とは決して思っていません。従来の補助金の受け止め方を踏襲する限りにおいては「増えない」のであって、私たちが「成熟社会に適合した新たな社会モデルを構築していく」ためのタスクフォースの一員として「変化」を遂げるのなら、そのための「戦略的投資」として何らかの手は打たれると考えています。何らかの手を打つ必要性を政策提案することができます。その政策提案能力が、日本の芸術団体と劇場音楽堂等には従来は求められてきませんでした。日本の社会のリデザインに芸術団体と劇場音楽堂等の仕事がどれだけ関わることができるかが肝要なのだと私は思います。

あるいは「衛紀生は物わかりが良すぎる」と批判されるかも知れません。しかし、1990年に芸術文化振興基金の助成制度が整ってからも、文化芸術振興基本法の成立を受けて2002年に始まった文化施設への補助事業である「芸術拠点形成事業」が開始されてからも、支援される当事者である芸術団体も劇場音楽堂等も、国税が投入されるということへのアカウンタビリティ(説明責任)を充分に果たしてきたのかと考えると、私はいささか心許ないのです。「心の豊かさ」、「創造性ある社会」、「子供たちの健全な感性を育む」と様々な言葉を弄してきてはきましたが、それらの言辞は確かに美しいが、あまりに抽象的であり、それを検証し実証して税の拠出者である国民への説明責任を充分に果たしてきた、とは私には到底思えないのです。

むろん、その検証と実証はもとより芸術家や芸術団体や劇場音楽堂等の主たる仕事ではありません。文化芸術の経済的・社会的・心理的効果を科学的に実証するのは研究者の仕事であるのは言を待ちません。しかし、残念なことに日本では、創造現場と研究者の連携が皆無に等しいのです。私はその双方に属して仕事をする機会に恵まれていますが、何となく目もあわさない関係といった空気があります。すべての研究者と現場を持つ人間がというわけではないのですが、相互不信のようなものがあるのは厳然とした事実です。現場で起こったことを分析し研究して、さらにその成果を現場にフィードバックしてより精緻な事業に仕立て、その定数的・定性的な成果を統計分析して政策提言に仕立て上げるような「幸せな循環」が起きる環境にはないと言えます。

いま英国では、ナショナル・ヘルスサービス(NHS)と英国芸術評議会が協働して、「社会的処方箋」(Social Prescription)というプロジェクトが進行しています。背景には、英国の医療制度の疲弊と危機的状況があるのは論を待ちませんが、予防医学と機能改善による生活の質の向上と社会疫学的な効用の発現にアーツを活用しようとする試みです。英国内のいたるところで様々なプロジェクトが立ち上げられ、現在はそのデータ集積をしている段階であると英国芸術評議会のピーター・バゼルゲッティ議長はガーディアン紙に報告しています。彼によれば、従来からのナショナル・ヘルスサービスによる取り組みの50分の1程度の予算で同等の成果が得られている、とガーディアン紙で報告しています。今後、収集したデータを実証分析し、その研究成果を医学的・財政的・社会的な政策立案に役立てようとするものです。芸術家や劇場人のみならず、保健医療関係者の従来からの「常識」を覆す試みであると評価しています。

私たちはいますぐに「変化」への準備を整えなければなりません。従来から「常識」とされていた考え方や意識を根底から覆して、そこからただちにテイクオフする必要があります。そのような自己変革への営為が、やがて青柳文化庁長官のいう「文化概念の拡大」につながり、文化芸術と劇場音楽堂等のパラダイム・チェンジを生み、その新しい枠組みでの社会的・戦略的投資としての補助制度が社会的必要を根拠として現実化するのではないか。たとえば私は、先日福岡市で講演する機会に恵まれました。その席で、ホームレスの就労支援を目的とした演劇活動をしているNPO法人アートマネジメントセンター福岡の糸山裕子氏の活動を知ることができました。大変地味な仕事ですが、現金給付型の福祉政策からサービス・現物支給型への転換を必然とする「成熟社会」にはとても整合性のある大事な仕事であると思いました。これは従来からの「常識」の延長線上には決して発現しない、包摂的な社会を実現しようとする文化芸術からの政策提案の意味合いを持っているプロジェクトだと思いました。

文化芸術に関わる仕事とは、まぎれもなく「人間」に関わる仕事です。その関わらなければならない人間の生活する社会環境に「変化」が生じたのなら、私たちの仕事もおのずと「変化」することが求められます。劇場音楽堂等とは、まさしく「人間の家」でなければならないのです。あるいは、私が敬愛してやまない経済学者宇沢弘文氏の提唱する「社会的共通資本」(Social Common Capital)の一つと定義されるべきではないか、と直感的に思っています。

追記要請 これからの文化政策の経済学的根拠、公共政策学根拠を定立させるために私と共同研究していただける研究者を求めています。どのような社会を実現すれば、人間的尊厳が守られ、自律的な生命の輝きが生まれ、文化的な生活を享受することができるのか、というような社会構築のデザインを共有できる、専門的な知見を持った方と共同研究をしたいと切望しています。

連絡は、ei-kisei@kpac.or.jp にお願いします。