第170回 悲しみと優しさの分かち合い ― 劇場音楽堂の社会的使命について。

2015年3月30日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

「オムソーリ」という言葉があります。2月にアーラで開催した「世界劇場会議国際フォーラム2015in可児 <社会包摂と劇場経営>」の最後で、ゲストスピーカーと会場の参加者の皆さんに「是非とも記憶しておいてください」と壇上から私が呼びかけた言葉です。「オムソーリ」はスウェーデン語で教育、福祉、保健医療、文化などの社会サービス全般を指す言葉で、原義は「悲しみの分かち合い」という意味です。公的資金によって実施される社会サービスとは、悲しみや困難さの只中にいる人間と、その悲しみや困難を分かち合うということです。税金を媒介として「悲しみの分かち合い」という相互扶助の関係性が成立しているのです。それは悲しみや生きる困難さに打ちひしがれている人間だけを救済するのではなく、分かち合った相手の人間にとっても「誰かの役に立った」、「誰かに必要とされた」という実感と自己肯定感をもたらす行為です。その相互行為は、したがって「悲しみの分かち合い」であると同時に「優しさの分かち合い」なのだと私は思うのです。

「オムソーリ」という言葉は、困難さを抱えている人を社会全体で支えるという公助と共助の考え方です。公的な社会サービスに投資される資金は税金で賄われています。したがって、スウェーデンでは納税行為そのものが、「悲しみの分かち合い」を意味し、「優しさの分かち合い」という誰かを支える行為になるという社会的合意を意味するのです。これは米国の人間性心理学の創始者であるアブラハム・マズローが、衆知の「5段階欲求説」を発表したあと、晩年に欲求の最上位である「自己実現の欲求」のさらにその先にあると考えた「コミュニティ発展欲求」(Need for Community Development)に依拠した社会的合意であると言えるでしょう。余談になりますが、マズローが新学説の公表を躊躇ったのは、当時マッカーシー旋風と呼ばれた「赤狩り」を恐れ、共産主義者と誤解されることを避けたかったからだという、にわかには信じられない説があります。それほど「赤狩り」が多くの有能な研究者や知識人を葬ったということなのでしょう。閑話休題。

この「コミュニティ発展欲求」は、経済学に人間の行動の視点を持ち込んで「サービス経済学」という新しい分野を提唱し、ブランド価値と人間の経済的行動の相関性を追求した井原哲夫氏の「身内意識理論」とも通底する考え方です。日本語でいう「身内」というのは最小単位のコミュニティであり、「身内のひとりが難関の受験に合格すれば我がことのように喜び、失敗すれば我がことのように落胆する」という意識です。これを、私は「Sense of Belonging」と呼んで、地域社会にとっての劇場音楽堂等に「身内意識」を感じる存在にするマネジメントを展開することで、鑑賞者開発や支持者の開発を促進し、アーラの存在に社会的合意を結果させるようとする経営手法をアーラはとっています。そのための仕組みを幾重にも張り巡らせて、劇場を地域社会にとって公共的な財であるとの社会的承認を得る、税金を投資してでも維持されるべき必要な施設との社会的認知を獲得するための経営をするために、私は当初から「Sense of Belonging」を梃子とした劇場経営を構想していました。「オムソーリ」、「コミュニティ発展欲求」、「身内意識」と並べると、経済成長一辺倒という価値観によって起きている日本の今日的な社会の分断化と対極にある「体温」を感じるのは私だけでしょうか。

私が経営をする可児市文化創造センターalaは、就任した7年前からこの考えのもとに、可児市民にとって芸術の殿堂ではなく「人間の家」になるべく事業を組み立てています。フリースクールを含む教育機関、高齢者福祉施設、障害者福祉施設、保健医療機関、公民館、福祉型NPO法人、行政関係部署と連携した包摂的な地域プログラムは、2008年から始められて、一昨年度の実績で年間422回を数え、可児市のすべての市民を視野に入れた社会サービスである「まち元気プロジェクト」と呼ぶ事業として実施されています。劇場を一部の芸術愛好者や可処分所得と時間的余裕のある市民だけのものにしてはいけないと、これはソフトのユニバーサル・デザイン化とも言える事業です。まさに「体温」のある劇場にしようとする経営です。すべての市民から強制的に徴収した税金で設置し、運営しているのですから当然なのですが、このあたりの意識が日本の劇場関係者にはいささか不足していると言わざるを得ません。

そうなっている主たる原因は、全国すべての劇場音楽堂等が、域内人口3200万人と全国民の4分の1の居住する東京圏という巨大マーケットと対峙することのみに傾注して、民間劇場と競争原理に基づいて劇場経営をせざるを得ない東京圏の劇場経営の環境が、公的資金を財政基盤としているという当事者意識を薄れさせてしまうからであり、その経営手法を地域の劇場が何ら検証することなく継承してしまっているからです。その輪郭さえわからない茫洋としたマーケットで、市場主義的に競争することを余儀なくされているうちに、印刷して配布するチラシの枚数とか、パブリシティを含めて宣伝媒体に乗る回数とか紙媒体の掲載回数とか、観客動員数とか文化系の各賞での顕彰とか、分かり易く数値化されることの容易な成果だけが確かなものであるように錯覚してしまうのです。税金によって設置され、運営されている「社会的共通資本」としての劇場音楽堂等の本質的な使命が意識されなくなってしまうのです。

芸術的価値の高い舞台や演奏を創造することも、むろん公的資金の投入根拠となりえますが、その果実が域内のどれだけの人々にとってのニーズに基づいているかは不可知論の範疇に入ってしまい、明確明晰な根拠として提示することはできません。そのような茫洋としてはいるが巨大なマーケットを背景に経営している「特殊な地域」である東京圏の劇場経営の手法を、地域の劇場音楽堂等がひたすら模倣しても、かえって自分の施設の存在証明から逸れてしまうだけで、何ひとつ得るものはないと私は思います。税金を投入して設置し、運営しているという意識が薄らいで、やがて「ハコモノ」と揶揄されて誰からも必要とされない施設に堕してしまうのは当然の成り行きであると私は思います。

劇場音楽堂等の使命は、地域社会の健全化であり、そこに住む人々への社会的サービスの供給なのだと私は考えています。居住するすべての人々の「生きづらさ」に対して、「悲しみと優しさの分かち合い」を行う文化的な機会を創出する社会装置が劇場音楽堂であり、そのような機能が、社会の分断化が加速度を上げて進行している、「いまこそ」求められているのだと、私は承知しています。たとえば、年収114万円の貧困線以下の所得の世帯で育っている子どもが6人に1人という日本の現状をどう思うかが「子どもの貧困という社会問題として問われています。日本の政治は、90年代後半を境にして弱肉強食の新自由主義経済に舵を切りました。それは所得再配分機能の働かない税制を伴っています。一部の富裕層に富が偏在し、貧困が連鎖する階級社会に大きく変わっていっているのです。6人に1人の子どもの成育環境を「自己責任」だとは私には到底言えません。少なくとも人間が人間に働きかけて何らかの「化学反応」が起きることを期待するサービス産業であるのが劇場音楽堂等であり、したがって、人間としての尊厳を重視する劇場人はそう考えないと私は信じています。居場所を見つけられない、希望から「はぐれてしまった子どもたち」は全国どの地域にもいます。公立劇場はそのような環境にいる子どもたちとその家族にとって「悲しみと優しさの分かち合い」のできる公共的な装置(宇沢弘文氏の言う「社会的共通資本」)にならなければいけないと思っています。彼らを社会的に孤立させてはいけない、と私は強く思います。

家庭の困窮を知った子どもは自らの希望を抑えてしまいます。「どうせ自分なんて」と自分の存在を否定的に考えてしまいます。自分が生きる価値を見いだせなくなります。被災地の困難な家庭環境で育つ子どもたちも、親の苦労を傍から見ていて、同様に自己抑制してしまっています。希望からはぐれて弱肉強食の悲惨な社会に放り出されてしまう子どもたちに、私たちは何ができるのかを考えなければなりません。文化芸術の社会包摂機能を活かした事業企画を行動に移す「意志」を持たなければなりません。彼らが自分の存在を否定的に思い込んだままにして放置すれば、それは「未来」の大きな社会的な損失になります。劇場音楽堂等は、そのような境遇と自己肯定感を持てず自暴自棄になりかねない子どもたちを決して孤立させない「意志」を持つ社会機関として、そのための危機回避の装置として機能しなければなりません。

可児市文化創造センターalaは、3年前から隣町にある県立高校に、地域拠点契約を締結している文学座チームを派遣しています。岐阜県が明治時代に設置した3校の旧制中学のひとつである、その県立高校は、近年荒れる気力もない無気力な子どもたちが集まり、県下でも問題校とされていました。中途退学者が入学者の3分の1のおよそ40人前後でここ数年間推移していたのですが、プロジェクトを始めて3年目の今年度には、その数が9人と激減しました。それはそれで成果と言えるのですが、そのワークショップのプロセスで浮かび上がってきたのが、子どもたちの家庭環境の劣悪さです。貧困線以下の世帯収入や学習障害児だった親の育児能力、子どものころに虐待を受けた結果の愛着障害を持った親によるネグレクトと、問題の相貌は様々ですが、どれもが子どもが自己肯定感を持てる育成環境ではないのです。現在毎週アウトリーチを実施しているフリースクールに通う不登校児の家庭環境もまた同様です。放置すれば子どももその家庭も地域社会で孤立に瀕してしまう環境です。

90年代にはじまったワークショップやアウトリーチは、演劇や音楽に関心のある市民に向けて実施されたものでしたが、昨今ではむしろ文化芸術から一番遠くにいる市民を対象として「悲しみと優しさを分かち合う」ことのできる「仲間づくりのプラットホーム」として機能することが求められるようになりました。かつてはそのような事業の組み立てで「鑑賞者開発」をすることが目的であったのですが、社会が大きく変わって格差社会の悲惨さと所得再配分機能を意識的に脆弱化させた非倫理的・非人間的な空気が時代を覆うようになったことで、その求められる機能に潮目が表れるようになったのです。昨年7月末の文化審議会総会の冒頭での下村文科大臣の挨拶の中で、文化政策の三つの機能のひとつとして「社会課題への対応」が挙げられていたことに、私は時代の空気が大きく変わったことを感じました。その潮目が2011年2月に閣議決定された「第三次基本方針」だったことは衆知のとおりです。

ただ、ここで注意しなければならないことがあります。包摂的なプログラムというと、社会課題に対応するワークショップやアウトリーチのみを指す考えに、私はいささか違和感を感じます。私は鑑賞行動にも「文化芸術の社会包摂機能」が働くと考えています。つまり「社会包摂機能」とは、人々がきずなを取り戻し、きずなをより強くするための「プラットフォーム」が用意される機能だと理解しているのです。劇場やホールに舞台やコンサートを鑑賞しにくる人々の行動を観察していると、お一人でいらしている観客はごくごく少ないことに気づきます。フランスの文化コミュニケーション省が国立のコメディフランセーズを対象に行った鑑賞者調査では、1人で鑑賞している観客は12%にすぎません。後は複数で鑑賞に来ているのですが、5人以上での鑑賞行動をしている方がなんと16%もいるのです。また、私どもアーラでの調査でも、1人でいらしている観客は15%で、3人以上が24.1%、そのうち4人以上が9%となっています。また、これもアーラでの調査ですが、その鑑賞の前後にお茶や食事をする観客・聴衆は60%強もいらっしゃるということで、私は鑑賞前後のお茶や食事の時間の語らいも含めて、観客は鑑賞行動の楽しみと考えているのだと理解しているのです。

その「語らいの場」こそ、同じものを鑑賞したという「経験共有」から必然的に起こる包摂的な関係づくりの「プラットホーム」であり、そのような現象が起こるような仕掛けを複数用意することが、鑑賞事業を包摂性のあるものにする経営施策だと考えています。その「プラットフォーム」では「経験共有」による「悲しみと優しさの分かち合い」が繰り返され、仲間とのきずなを強いものにするのです。そして、その「きずな」もまた社会課題の解決に連なっていることは言うまでもありません。チケットやその半券を提示すればシェフの一品やパティシエのスペシャルデザートがサービスされるような仕組みや、劇場のウェブサイトに町に点在するレストランや割烹の予約フォームがあるというような仕掛けを施すことで「プラットフォーム」形成へのインセンティブをつくることも劇場経営には欠かすことができない手法と言えます。

劇場のあらゆる局面に「悲しみと優しさの分かち合い」が起こるような仕掛けが施されていてはじめて、税金を投入しているという単なる公立劇場が公共財化して、その公的資金が「コミュニティへの投資」となる「真の公共劇場」となると私は信じて疑いません。第三次基本方針以降に社会から求められている劇場音楽堂等とは、そのような社会的使命を果すことのできる社会機関としての存在なのではないでしょうか。                    

(この館長エッセイは私が書いた仙台市市民文化事業団のワークショップ『となりの子育て』事業の報告書原稿を大幅に加筆したものです。)