第168回 劇場は人々を幸福にできるか  岐路の年の初めに思う。

2015年1月21日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

年末年始の休暇は、我が家で恒例になっている箱根・強羅温泉で一年の疲れを癒し、来る年のゴールの輪郭をぼんやりと考えるのが常となっています。表題は、昨年9月に亡くなられた尊敬し、敬愛する経済学者の宇沢弘文先生の『経済学は人びとを幸福にできるか』から剽窃させていだきました。宇沢先生は、経済学が必ずしも人間を幸福にはしていないことに心を痛め、シカゴ大学の教員時代に、政治思想的に偏向した経済理論である新自由主義(市場原理主義)を頑迷に主張して後の「リーマンショック」の原因をつくったミルトン・フリードマン教授と厳しく対峙していました。「グローバリズムという考え方自体が、じつは市場原理主義のいちばん重要な武器だったわけです」、「市場原理主義というのは、法律を変えてでも儲ける機会をつくるということなんですね」、「自由」とは人間のそれではなく、企業が儲ける「自由」であると宇沢先生は主張しています。シカゴ学派への評価は当然のように厳しいものがあります。

事実、フリードマンの理想は、「規制のない自由主義経済の設計であり、詐欺や欺瞞に対する取り締まりを別にすれば、あらゆる市場への制度上の規制は排除されるべき」というものでした。彼を理論的な支柱とする過激な新自由主義の「自由」は、個人の人間としての尊厳や自由では決してなく、「企業が儲けるための自由」であり、「自由放任」とも言える考え方です。富裕層や企業の減税による経済的恩恵が貧しい層にも滴り落ちるという「トリクルダウン」を期待して、挙句の果てに米国の格差を急激に拡大させ社会を不安定化したレーガノミックスの失敗や、大幅の規制緩和をして「揺り籠から墓場まで」のクレメント・アトリー政権以来の社会政策の根幹である英国の医療制度を破壊し、これも格差を拡大させて社会の亀裂を大きくしたサッチャリズムも、フリードマンの「新自由主義」の経済思想を根拠としています。また、「肌の色は、職に対しての能力の格差と同じ効果を与える。肌の色による人口の階層化は、アメリカにおける収益の非均等化格差を生み出す、最も強い要因の一つとなっている」(田中秀臣『不謹慎な経済学』より)という発言はとてもノーベル経済学賞を受賞した学者の言葉とは思えません。麻薬の合法化にも言及していますし、そのノーベル賞の授賞式の当日には「反対」を唱える数1000人規模のデモがストックホルムでありました。そのデモ隊をフリードマンが「ごろつき」と言い放ったというエピソードまであります。

すべの人々の生きる尊厳を重視し、最大多数の最大幸福を至上の社会的価値と考え、地域社会のそれをゴールと考えて劇場の仕事をしている私には到底理解できません。むろん次の仕事のために最適な利潤は上げなければなりませんが、文化芸術や劇場に市場原理を持ち込む考えに私は与しません。利潤の多寡で評価をすることは、医療や福祉と同様に、文化芸術や劇場にあってはならないと考えています。ヨハネ・パウロ二世が出した回勅「レールム・ノヴァルム」の起草者であった宇沢先生がつけた副題「社会主義の弊害と資本主義の幻想」に私は深く共感します。そして、宇沢経済学理論の根幹にある、「市場原理主義の考え方に対する批判、あるいはオルタナティブ(代案)」として考えられた「社会的共通資本」のひとつに、医療や福祉とともに劇場等の文化施設も含まれると私は考えています。宇沢先生の目指したものは、まさに「人間の心を持った経済学」だと思います。

今年の年末は強羅で二冊の本を読了しました。上記の一冊と、クリントン政権の労働長官を務めたロバート・ライシュの『格差と民主主義』です。定宿にしているホテルの食事がフランス料理であるので、それほどアルコールの量も多くはなくて読書に集中できました。これが和食だと日本酒が進んでしまうので読書どころではなくなります。その意味で強羅温泉は大好きな硫黄泉の濁り湯で心身ともにリラックスできるし、読書と美術館巡りに明け暮れるという贅沢な数日間の時間を過ごせます。

昨年の12月14日の総選挙を、私は「日本の岐路」になる選挙と考えていました。しかし、59.32%の戦後最低の投票率となって、しかもとりわけ若い層の投票率が20歳?24歳で35.30%、25歳?29歳で40.25%、30歳?34歳で47.07%と5割を割り込んでいることに脱力感を否めませんでした。失望感さえ感じました。「政治なんて誰がやっても同じだから」、「政治は良く分からないから」、「投票したい人がいないから」というのが彼らの棄権の主な理由だと聞きますが、それでは為政者や既得権という利権を持っている人間たちに利するだけだと思います。自分たちの生活をより良くしようという意志の放棄です。極端に言えば、為政者にそのような白紙委任をする態度は、独裁的な考えの持ち主の政治家にとって都合のよいことになってしまいます。

この総選挙が、米国型の格差社会に向かうのか、それとも新自由主義的経済の横暴と強欲に立ち向かう社会の在り方に向かうかの「日本の岐路」になると考えていただけに、無力感と脱力感と、劇場人として何とか突破口は考えられないかを反芻する年末になりました。民主主義の根幹は「同質性」です。民族的な同質性はフランスの「シャルリー・エブド紙」のテロ事件に見られるように先進国では大きく崩れているのですが、問題なのは、経済的な同質性までも格差社会の進行で瀕死の現状にあるということです。つまり、現代にあって克服しなければならないのは「格差によって生じる民主主義の危機」なのだと私は思っています。共和党のティーパーティ派に袋叩きにされながら言いたいことははっきりと主張しているロバート・ライシュの危機感には心から共感しますし、敬意を表しています。

いま話題となっているトマ・ピケティの『20世紀の資本論』は、「週刊東洋経済」や「週刊エコノミスト」に特集されている頃から注目していて、みすず書房から邦訳本が12月になって出版されてすぐに取り寄せて一気に読みました。劇場人は、政治や経済がこれからどのように社会を変化させて行くのかに強い関心を持たなければいけない、と常々職員にも説いている以上、どうあってもこの労作は避けては通れないと思っていました。このトマ・ピケティの業績には多くの世界的な経済学者が賛意を表しているのですが、当然ながら「反資本主義」とか「共産主義者的」という頑迷な否定的意見も少なくありません。そこで私は、『20世紀の資本論』を「問題だらけ」と断ずる認知科学者の苫米地英人の『「21世紀の資本論」の問題点』もあわせて取り寄せました。トマ・ピキティの推論への劇場人としての評価については稿を改めますが、社会の経済発展がやがては所得配分の平等を生むという「クズネッツ曲線」が、大戦や大恐慌によって実現した一時的な、そして例外的な格差縮小の時代だった、というクズネッツ理論へのアンチテーゼとしての彼の業績は一定程度の説得力を持っている、とだけ書き記しておきます。ピケティの推論が正鵠を得ているなら文化芸術や劇場には何が求められるのかという問いには、いずれ何らかの答えは用意しなければならないと考えています。

そんなことを考えながら5日からの新しい年の劇場経営の仕事が始まったのですが、そこに英国在住の友人から、12月28日付の「ガーディアン紙」に英国芸術評議会のチェアマンであるピーター・バゾルゲッティ氏による『国民の健康を高めるために芸術を使用して』と題された寄稿が掲載されており、リード文として「これまでに社会的の大きな歪みの下で、ナショナル・ヘルス・サービス(NHS)と芸術評議会は協働して全国に社会への処方箋とも言える数多くのスキームを供給している」という概要が添えられ、そのコラボレーションのプロジェクト事例が書かれているというメールが入りました。ネットでその記事を読みましたが、コラボレーションの事例としては、イングリッシュ・ナショナルバレエのパーキンソン症患者へのプログラム、リバプール博物館での認知症患者への支援、南スタッフォードシャ―と当地のNHSとのコラボレーションで実施されているアルツハイマー症の合唱プログラム等々、多くのプロジェクトが挙げられており、それらを指して「Social Prescribing(社会処方箋)」と表記していました。文化芸術の世界では「Social Prescribing(社会処方箋)」は新しい用語です。

先進国のご多分にもれず英国も大変な財政困難に陥っており、戦争直後のクレメント・アトリー政権による「揺り籠から墓場まで」の社会福祉政策は70年代からの低成長時代に入って綻びが生じ、それをサッチャー政権が二期目に入って「改革」を推し進めてさらに瀕死の事態にします。この頃には、アラン・エントフォーヘンという市場原理主義の経済学者を米国から呼んで医療費の徹底的な抑制をします。宇沢先生によれば、「デス・レシオ(Death-Ratio)」と言うべき概念を導入して「一人の患者が死ぬまでの医療費を最少にしよう」とする医療費抑制政策をとったそうです。たとえば、60歳以上の高齢者に腎臓透析を施すことを禁止するという通達まで出していると聞きます。人間の命を市場原理主義に晒すとこういうことになるという例ですが、とてもまともとは言えません。このエントフォーヘンはベトナム戦争の折に当時のマクナマラ国防長官の信任を得て国防次官になった人物で、「キル・レシオ(Kill-Ratio)」を考えだして、ベトコン一人を殺すのに何万ドルかかるかで戦略・戦術を策定する方式を導入した経済学者です。サッチャー政権後、97年に労働党が政権をとってトニー・ブレア首相がその建て直しをしようとするのですが、入院待機患者が130万人もいたとされています。

現在も、当然のことながら財政的に厳しい環境で、福祉医療予算は常に削減の対象になっています。そのような現況に対して「Social Prescribing(社会処方箋)」という考え方が芸術評議会の責任者によって提起されたのです。いわば、文化芸術が持っている社会包摂機能を保健医療機関と協働して「国民の幸福を高める一つの方策として芸術の力を社会の健全化に活用しよう」という提案です。「芸術団体と保健医療当局は共通の問題意識と言語を持って、やるべき仕事がある」とバゾルゲッティは書いています。英国NHSのサイモン・スティーブンスCEOも先月からどの程度の予算の必要性があるかの検討に入った、と報告しています。

日本でもその考え方の社会的必要性は高まっています。国家財政と自治体財政は危機的な状況にあり、毎年1兆円ずつ増加するという社会保障費や高齢者医療費が財政を圧迫して、さらに状況を加速度的に悪化させていると報道されています。であるなら、国と自治体の文化予算を戦略的な投資として位置づけて、教育機関のみならず、福祉機関、医療機関とのコラボレーションを推し進めて、文化芸術の社会包摂機能を多様に利活用することで社会コストを軽減化する方策を考えるべきではないでしょうか。その拠点施設として、全国に2200あるとされる劇場音楽堂等を位置づけてはいかがだろうか。

各省庁の「ぶんどり合戦」になると予想される「地方創生事業」として、厚労省が来年度の概算要求で、地域交流施設の整備を「複合型共生施設」と名付けて今後100施設程度を全国展開するとしてとりあえず55億円の来年度要求を計上しています。これについては以前もこの館長エッセイに書いています(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_168.html)。私が宮城大学・大学院で教員をしている頃の話ですが、岩手県東和町(現花巻市)の公民館で高齢者の「生きがいづくり事業」をしたところ、町の高齢者医療費負担が削減されたという事例があります。アーラでは高齢者の孤立防止のために「ココロとカラダの健康ひろば」を、また子育て支援として若いお母さんと乳幼児のワークショップ「親子de仲間づくりワークショップ」を通年で行っています。それによって、「共助のネットワークづくり」が起きています。人間の心に働きかける仕事ですから、決して目覚ましい成果が短期間に出るものではありませんが、着実に失われたコミュニティを再生させることになっています。

また、可児市の隣町にある県立高校では、毎年入学者の3分の1の40人前後の中途退学者がいたのですが、県教委の要請でアーラが地域拠点契約を結んでいる文学座のチームに学校に入って行ってもらいコミュニケーション・ワークショップをやりました。そして、3年目になる今年度には、その数が僅か9人にまで激減したという事例もあります。このような仕事が数値でアウトプットする事例は少ないのですが、この県立高校の成果は、財政当局にもかなりの説得力のあるものであると思っています。阪神淡路大震災の時には「神戸シアターワークス」という団体をつくり、仮設住宅の中高年のコミュニティづくりと被災した子どもたちの心のケアをミッションとして4年間神戸で活動しましたが、もう少し大人数と潤沢な予算で活動していたら孤独死の幾ばくかは防げたのではないかと思っています。この原稿を書いている震災20年目の1月17日、震災以降の仮設住宅とその後の復興住宅での孤独死者数がテレビで流れています。心が痛くなります。東日本大震災でも、急性ストレス障害や心的外傷後ストレス障害(PTSD)の手当てに動いた文化芸術の団体はありましたが、公的機関や保健医療機関と緊密に連携していれば、もっと多くのミッションが果たせたのではないかと思います。

文化庁を軸にして厚労省をはじめとする関係各省庁・各機関が協議すれば、いくらでも現場のニーズに即した良い知恵が出てくるだろうし、プロジェクトを実施するにも拍車がかかるのではないでしょうか。また、私が以前から提案している、それらのプロジェクトを成果あるものにするための「専門職」であるコミュニティ・アーツワーカー(CAW)の認定制度は、「社会処方箋」の考え方を政府自治体と文化芸術関係者が共有すれば、考えているよりも急速に進捗させることが出来るかもしれないと感じます。「社会的共通資本」である劇場は、「社会機関」としての事業定義をすれば、最少の投資で最大の成果をその圏域に住む人間一人ひとりに届けて、クォリティ・オブ・ライフ(いのちの質)を向上させる使命を果たせる、と私は確信しています。2月13日、14日にアーラで開催する「世界劇場会議国際フォーラム2015in可児」はテーマが「社会包摂と劇場経営」です。社会包摂的なコミュニティプログラムの実施が一般的になっている英国からのゲストスピーカーを3人招いています。この機会を応用芸術の社会的価値と社会的認知を促進するための第一歩にしたいと、私は強く思っています。それにしても、限られた時間でやらなければならないことが山積していて、いささかそのストレスに潰されそうになっています。