第167回 公共劇場になるための職員の資質とは。

2014年12月22日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

90年代半ばに書いて、そのあと『芸術文化行政と地域社会』として上梓した一冊の本があります。副題に「レジデントシアターへのデザイン」としたもので、地域社会のあり方と文化芸術について書かれた本としては古典の部類に入る拙著です。私の手元にも一冊しかないもので、Amazonで購入すると5万円弱もするので私自身も驚いています。この種の書籍としては珍しく二版まで出ているので、少し大きな図書館には収蔵されていると思います。

この中で、副題の「レジデントシアターへのデザイン」が物語るように、地域を拠点とする公共的な演劇プロジェクトのことを提案しています。その原稿を書いている頃はバブル経済がはじけた直後で、まだバブルの余韻もあって、「福祉、教育、保健、保育、環境」などと連携した「演劇を核に据えたre-community運動=レジデントシアター構想」など一顧だにされないものでした。コミュニティを再生させるというニーズなど、あまり多くの人々が切実に感じていた時代ではなかったのでしょう。

とは言っても、個人的には高松市で朝日平成園という重度の障がいを持っている人たちが通っている施設でのワークショップや、春日保育園と西春日保育園の園児約50人と障害者とのバリアフリー・ワークショップを行ったり、また長崎にあった学習障がいの子どもたちの「のこのこ劇団」を側面的に支援したりということはやっていました。でも、来年2月にアーラで開催することになった世界劇場会議国際フォーラム2015in可児で基調講演をしてもらう予定となっているマギー・サクソン女史から、コーディネーターの臼井幹代さんを通して「ここ15年来、日本のセミナーではいつもコミュニティ・プログラムや社会包摂のことを話しているが、日本のアーツ アドミニストレーターはいまだに劇場経営と地域社会への責任に関して理解が無いのでしょうか? これだけ何回かセミナーをしてきても理解されないのならば、今後も理解してもらうことは無いのでは?」という厳しい指摘を受けて、いささか参ってしまいました。まさにその通りだからです。それも、今回の国際会議のテーマが「社会包摂と劇場経営」なのですから、正直言って、痛いところを突かれたという感じです。

私がマギーさんに初めて会ったのは、前述の本を上梓した直後の97年の名古屋で開かれた世界劇場会議のことだったと記憶しています。当時は北海道劇場計画に主査として関わっている頃で、その場で北海道文化財団に電話を入れて、劇場計画にはとても参考になる彼女のセミナーを急遽開催してもらうことにしました。そして、その翌年にスペイン・バルセロナで国際文化経済学会が開催され、そこで論文発表をしてからすぐに飛行機に飛び乗って彼女が経営監督をしているウエストヨークシャ―・プレイハウス(WYP)のあるリーズに向かいました。98年のことです。このWYPへの訪問が、私が劇場経営を一生の仕事にすることになる契機になりました。それほどWYPの経営は、地域社会へのおよそ年間1000ものコミュニティ・プログラムと、ロンドンのナショナルシアターから招待を受けて1ヶ月間の舞台公演を実現し、劇場で創った舞台がナショナルツアーになったり、またウエストエンドにトランスファーしたりと、素晴らしいもので、私が頭の中で考えていた「レジデントシアター構想」がそのまま目の前にあったのでした。激しく心が動きました。WYPのような劇場が日本の地域に10程度あったら、当時「ハコモノ」と言われて無駄な予算執行の例とされていた施設が、地域社会の健全化に寄与する機関として社会的に合意を受けることが出来るのに、と強く思ったものでした。

そのあと何回か、マギーさんをはじめとする英米の地域劇場の関係者を招聘して、劇場と地域社会の関係やマーケティングのセッションを開催したり、当時教師をしていた早稲田大学や県立宮城大学の学生や劇場関係者、文化行政関係者を連れて英国の地域劇場の視察研修を主催しました。「これだけ何回かセミナーをしてきても理解されないのならば、今後も理解してもらうことは無いのでは?」という彼女の苛立ちは至極もっともなのです。私が可児市文化創造センターalaの経営を進めるうえでモデルになっているのは言うまでもなくWYPです。事のついでに言えば、主査として関わった北海道劇場計画もWYPのような地域劇場をつくることで、健全なコミュニティを再生する拠点施設にすることがデザインされていました。先日、北海道公文協の招きで砂川市にある地域交流センターゆうで劇場法以降の地域劇場の在り方と社会的使命についての講演に行ってきましたが、あれから20年近くたっていても南千歳駅から札幌に向かう車窓から見えるチェーホフに出て来そうな風景を見ながら、北海道劇場が出来ていればこのあたりに住んでいたのだろうなと懐かしく思い、北海道劇場が出来ていれば「劇都」としての北海道の存在感と、そのブランチとしての地域の劇場ホールはもっと活性化していただろうなと思いました。いずれにしても、仮に私がただの研究者にとどまっていたら、おそらくマギーさんの疑問の前で立ち往生していたことは容易に想像できます。ともかくも、可児市文化創造センターalaを地域劇場のひとつの典型として現在進行形の地域劇場に仕立てたことで、彼女へのエクスキューズにはなると考えました。

そして、日本の文化政策と地域劇場は、少なくとも90年代や2000年代初頭よりは大きく進化しています。私が地域に出始めた90年代のはじめと現在を時系列で輪切りにしたら、別の国のことではないかと思うほど進化してはいるのです。40代になったばかりで地域に足を運ぶようになって、いまはあと数年で70歳を迎えるところにまで来ています。ほぼ四半世紀にもなります。今回のテーマの「社会包摂」が文化の公的文書に書かれたのが2011年の「第三次基本方針」ですから、そこまでほぼ20年掛かったことになります。「文化芸術の社会包摂機能」という文言が文化政策の策定に強い影響を持つ「基本方針」に書き込まれたということは、劇場やホールもその埒外ではないということです。これまでは自治体予算の無駄遣いの象徴のように言われてきた劇場ホールにも、社会的効用という機能が期待されることになります。それは同時に、そこでミッションにしたがって働く職員にも、それだけの資質が求められることになります。現在募集しているアーラ職員の二次試験のグループセッションのテーマは「格差社会」になりました。そのもたらすところを知らなければアーラでは戦力にはならない、という私たちのメッセージです。

マギーさんからの疑問を受けて、私は「公共劇場」の職員の資質について語っていただくことで、地域の劇場ホールを内部から変質させるサジェスチョンをしていただきたいと返事をしました。「大事なことは『社会正義』を劇場人と芸術関係者がどのようにわきまえているかだと思います。格差や差別に対して、どのような受け止め方をしているか、その人の良心と理性が問われるのだと考えています。とても大切なことだと思います」とレスポンスをしました。私は常々「政治や社会や経済」に関心を持っていないと劇場経営には携われない、その「資格がない」と職員に言っています。少なくとも、これからの「期待される劇場ホール」では、そのような職員の資質が強く求められます。常に社会の何かに憤っていないと、個々の事業をよりブラッシュアップして市民により効用のあるものにしようとする手間を省いてしまうことになります。心が見えないサービスは、マニュアル言語のファーストフード店やファミリーレストランのサービスのように、無味乾燥なものになり下がってしまいます。仕事はルーティン化できるし、その方が効率が良いのですが、「こころ」は決してルーティン化してはならないと思っています。私たち劇場人の仕事は、「こころ」をしっかりと手渡しするようなものなのですから。