第165回 「文化には国民の支持がないではないか」

2014年10月29日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

表題は、文化庁が概算要求をした折に財務省の主計官が発した言葉と聞いています。このエピソードを耳にした時に、私は「もっともな言い分だな」と最初に思いました。上段の構えから真向に切りこむ正攻法で正面突破をしようとする主計官の余裕を持った対応に、「痛いところを突いてくるな」とも思いました。文化芸術分野に公的資金が本格的に投入されたのは1990年です。芸術文化振興基金ができて、芸術団体や劇場ホールに、決して多くはないが、基金の果実に加えて文化庁から補填された税金が投入されたのです。当時の劇団の反応に「芸術活動に政治の介入を許すことになるから申請は止めるべきではないか」と躊躇うものがあったことをみても、それがいかに画期的なことであったかが理解できます。実に隔世の感があります。

次いで94年には財団法人地域創造が当時の自治省の外郭団体として設立されて、地域の公立文化施設への助成が始まります。文化庁も96年から「文化のまちづくり事業」を創設して、劇場ホールに特化した補助ではないものの、それも含めた「文化によるまちづくり」というコンセプトをもった補助制度を創設しました。2002年には、その前年に成立施行された「文化芸術振興基本法」を受けて文化庁に「芸術拠点形成事業」が設けられて、劇場ホールに特化した補助事業が動き始めました。次いで、2012年には、いわゆる劇場法の成立施行に連動して「劇場音楽堂等活性化事業」が創設されて、現在ではおよそ30億円という大きな補助額となっています。この補助制度では、「特別支援施設」が15館設けられて、全国の劇場音楽堂等を牽引する役割を任じられることになりました。

芸術団体や劇場ホールへの税金等の公的資金が投入されて、四半世紀にもなります。にもかかわらず、「支持がないではないか」と切りこまれると面目ないのは何故なのだろうかと私は考えます。「支持がないではないか」と言われながらも、一方では新しい劇場ホールの建設計画が全国各地で次々に発表されています。また、この四半世紀で全国2200館の設置と運営に投入された公的資金は途方もない額に上ります。なのに「支持がないではないか」なのです。この径庭にはいささか混乱してしまいます。

それは全国の公立劇場ホールの活動が、支持者を拡大していくようなソーシャル・マーケティングの視点を欠落させてきたからではないか、と私は考えています。劇団やオーケストラのような芸術団体が、自らの芸術的野心を補助金や助成金によって達成し、自己実現を果たそうとするのは、それが国民市民の支持を獲得できるか否かは別にして、きわめて健全な営みだと私は思います。しかし、公立の劇場ホールは、芸術的使命と等価で社会的使命を持っていなければならないと私は強く思います。国民市民から強制的に徴収した税金で設置し、運営しているのですから、公益的な使命を果たすことを当然求められると考えるべきでしょう。私が可児市文化創造センターala(アーラ)を館長就任の当初から「社会機関としてのアーラ」にすると言っているのは、高水準の優れた舞台芸術を年間およそ70事業前後実施している一方で、その考えに沿って年間422回(2013年度実績)のソーシャル・プログラムを教育機関、福祉施設、保健医療機関、多文化施設等の地域社会全体に向けて提供しているからです。まさしく「社会機関としてのアーラ」を実現するためなのです。「公的資金の導入」という厳正な事実は、「第三次基本方針」にあるように地域社会の健全化及び文化化への「戦略的投資」なのであり、その事実としっかり向かい合えば、公立の劇場ホールは社会的使命を果たさなければ何らない存在であることは自明となります。

ところが、そのあたりのスキームが、実は設置自治体にはまったく欠落しているのです。微塵もない、と言って良いでしょう。これまでに建設され運営されている劇場ホールにも、これから建設される劇場ホールの運営計画にも、その社会的使命への目配りが欠けているのです。とにもかくにも、できれば高水準の舞台芸術を地域に配給する装置を設置しよう、という程度の考えで、いままでも、そしてこれからも巨額の税金を投入して一部の愛好者と可処分所得の高い特権階級のために「鑑賞施設」としての劇場ホールを計画しているのに過ぎないのです。これを社会的正義といえるでしょうか。民間の劇場ホールならば市場原理で動いていますから至極もっともなのですが、巨額の税金で設置されているのです。しかも後年度負担が毎年建設費のおよそ4%?5%が掛かり続けるのです。これを地域社会への「戦略的な投資」と考えなくては公的資金を拠出する政策根拠がありません。「無駄なハコモノ」、「支持がないではないか」と言われても致し方ないのです。

その根幹には、文化芸術をその程度のものと考えている自治体の、そして首長の不見識があります。「第三次基本方針」に言われた「文化芸術の社会包摂機能」に対して、そのような自治体は政策的に何一つ応えていません。いまでも劇場ホールは「娯楽の殿堂」なのです。文化芸術を「娯楽」というところに押し込めているのです。民間の興行資本が収益は見込めないとした地域に劇場ホールを計画する自治体が、その一方で収益を上げるようにとより大きな収容人員のホールを設置しようと計画は枚挙にいとまがありません。これは自己矛盾ではないのだろうか。被災地の石巻市は1500キャパのホール建設を計画している。仄聞によれば、「市民」の中にはそれでも「小さい」という声があるとも聞いている。人口15万人のまちで、しかも今現在も仮設住宅に居住せざるを得ない人が1万7千人もいて、日々の営みの中で孤立感を深めているというのに、あまりに旧態然としたホール建設計画に私は強い憤りを感じます。たとえ震災によって解体した市民会館と文化センターにかわるものと位置づけられていても、「本当に震災を経験した自治体の計画なのか」、もっと大きなものが必要という「市民」は「本当に被災した<市民>なのか」と唖然とするばかりです。公共機関のサービスは「欲望の充足」を目指すものではなく、「必要の充足」でなければなりません。なぜなら、サービスの受益者は、厳密な意味で顧客というよりも、好むと好まざるとにかかわらず税金や負担金の拠出者であるからです。

社会的に孤立し、心のケアや健康不安を持つ人々を目の前にして、1500席の「興行場」を造ろうとする、しかもその候補地にはいまも仮設住宅が建っている場所が挙げられている。無神経きわまりない。およそ文化的ではない「文化施設建設計画」だと思わざるを得ません。「第三次基本方針」や「劇場法」のできる前の、バブル期の感覚で建設計画を進めているとしか思えません。「市民」とはいったい誰なのか。その「市民」が文化的エゴを振り回してもっと大きなホールを、というなら自治体の職員が「第三次基本方針」と「劇場法」と「大臣指針」を説くべきではないだろうか。自治体が不見識なら、市民が覚醒すべきではないかと私は思います。「文化芸術の社会包摂機能」とは、仮設住宅で不安を持ちながら社会的に孤立していく人々に寄り添う社会のユニバーサル・デザインに向かうための政策理念なのです。

7月の文化審議会総会での下山文科大臣の冒頭の挨拶にあった「社会課題」とは、直接的には東日本大震災の被災者のケアのことを指しているのではないでしょうか。「省庁横断」は、その社会課題を解決するためには省庁の壁より「人間を中心に据える」ということではないだろうか。それらを満足させる社会的なプログラムを供給することで行われるソーシャル・マーケティングによって支持者を増やし「新しい価値」である「市場創造」を実現しようとすることではなかったのか。石巻市の建設計画の財政面の詳細はまだ正式に公表されていないが、どうやら復興交付金を含めたものになるとされている。だとするなら、この計画はあまりに酷い。「暴挙」としか思えないのです。もっとも声を上げにくく、生きづらさを感じている市民の支持が得られる計画と言えるのだろうか。

そして私は、いま一度「国民の支持がないではないか」という主計官の言葉に戻ることになります。石巻市の事例などを聞くと「もっともな言い分だ」と口をついて出そうになります。私が持っている公立文化施設への問題意識である「指定管理者制度」における雇止めが常態化した雇用問題、それによる「人材育成」、「人材投資」の機能不全、指定管理料への自治体の負担感と削減傾向など、すべては劇場ホールの活動が当該地域に貢献していないか、もしくは一部の市民しか受益していない劇場ホールのこれまでの在り方に起因するものなのです。文化芸術を趣味嗜好の類に属する「個人の娯楽」としか捉えていない自治体の不見識と、それによる国民市民の誤解から来ているものなのです。それもこれも、従来の劇場経営の「常識」がなせるものなのです。

芸術的評価と社会的評価は、芸術的成果と社会へ貢献は、公立の劇場ホールにとっては「車の両輪」です。その双方が機能してはじめて「社会機関としての劇場ホール」が社会的に認知されると、私は90年代半ばに『芸術文化行政と地域社会』を上梓してから長いこと思ってきました。公立の劇場ホールは地域社会の「人間の家」でなければならないのです。岐阜県公文協の研究会で、何をやろうと予算や指定管理料の削減からは逃れられないという意見が出ました。何もやろうとしないでその削減傾向に歯止めをかけることなどできるはずがありません。優れた舞台成果を購入して鑑賞機会を提供する、という従来からの「常識」に縛られている限りは「支持がないではないか」を撥ね退けることは出来ないのです。「劇場経営」は外部環境の変化で新しい地平に踏み込んでいる、との認識を持たなければ「変化」へのモチベーションは持てません。誰かに変わってほしいのなら、まず自分が変わることなのです。ケインズの言葉に次のようなものがあります。「人間にとって一番難しいのは、新しい考えを受け容れることではなくて、古い考えを捨てることだ」。