第163回 陽あたりのよくない地域を良くしていくことが文化政策。

2014年8月18日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

感動しました。表題は、7月24日に開催された文化審議会総会での青柳正規文化庁長官の挨拶の中での言葉です。「そのような文化政策を実施していくのが文化庁の役割」であるとも明言なさいました。まさに文化政策とは、国民市民がどのような経済的環境下にあろうとも、生きる意欲を持ち、希望を持って、日常の生活を営めるような健全な福祉社会を形成して行くための手立てでなければならない、と言い切っているのです。また、河村潤子文化庁次長(当時)は、審議会冒頭で策定される基本計画が「一部の関係者の閉じられたものでないことを承知していることを確認したい」と文化審議委員に呼びかけました。私は、この話を伝え聞いて、いかに文化庁幹部が、文化芸術をすべての国民市民の生活の中に明確に位置づけたい、根づかせたいと思っておられるかを強く感じました。文化庁が設置されてからおよそ半世紀も経つのにそうはなっていないという「危機感」から発せられた言葉ではないか、と私には思えました。文化政策と文化芸術は、一部の関係者や愛好者、特権階級の独占物ではなく、広く国民市民に社会的便益や社会的効用を行きわたるための手立てであり、今期の文化審議会が策定する「第四次基本方針」はそういう方向性を持つものでありたい、そのような指針を策定したいという思いが、お二人の言葉には滲んでいる、と私は受け取りました。

もとより文化芸術や劇場ホールによる多様な所産は「一部の関係者や愛好者、特権階級の独占物」であってはなりません。日本の場合、芸術団体や文化団体は、芸術的使命や文化的使命を唯一のミッションとして団体自体が結集しているわけで、オーケストラは素晴らしい演奏を実現することが目的であり、演劇団体は高品質の舞台を創造することが一般的には唯一の目的でした。社会全体へ便益を行き渡らせるというより、観客、聴衆という愛好者への良質な文化サービスの提供に専らすることが、長い間の日本の文化芸術のあり方であり、彼らのそのような活動が日本の文化芸術を発展させて来ました。それは厳正な「事実」です。公立の劇場ホールがその発展の役割の一部を担うように要請されたのは、文化庁が2001年の「文化芸術振興基本法」を受けて、2002年度に「芸術拠点形成事業」という補助事業を創設してからだと私は見ています。なんと21世紀に入ってからでしかないのです。10余年でしかない、と言っても過言ではないでしょう。

さらに「優れた劇場音楽堂からの創造発信事業」を経て、昨年2013年度からは「劇場音楽堂等活性化事業」に「公演事業」、「人材養成事業」、「普及啓発事業」というかたちでの「活動別支援事業」という枠組みが設けられました。そのことで、アウトリーチ活動やワークショップ活動などコミュニティ・プログラムに特化した補助支援を受けられる仕組みがつくられました。これによって、表題の青柳長官の「陽あたりのよくない地域を良くしていくこと」や、冒頭の「一部の関係者の閉じられたものでないこと」のために、地域の公立の劇場ホールが地域社会のすべての市民を対象とした活動を展開し、文化芸術を社会化することが比較的容易になったことは事実です。そのための「手段」を劇場音楽堂関係者は手に入れたのです。公的な資金(税金)を投入して設置し、運営されているのですから、民間の芸術団体と社会的使命がおのずと違うのは当然です。

その進化のプロセスに、2011年2月8日に閣議決定された「第三次基本方針」があり、そこには2000年12月に当時の厚生省の「社会的援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会報告書」を嚆矢とした「社会包摂」という文言が、「文化芸術の社会包摂機能」という風に明示されました。さらには、閣議決定の直後に起こった東日本大震災によって、その「社会包摂的文化政策」の重要性と緊急性が高まったという事実にも着目しなければならないでしょう。その精神は、2012年6月27日に成立施行されたいわゆる「劇場法前文」に、さらにはその運用ための方針たる「劇場,音楽堂等の事業の活性化のための取組に関する指針」、いわゆる「大臣指針」にも引き継がれて、その政策根拠が一層強化されたことも、また忘れてはならないと私は考えています。

すなわち、文化芸術を社会化するための最前線に全国の劇場音楽堂等が立ち、全国隅々にまでその社会的効用を波及させる役割を演じることが要請されるようになったのです。そのことを劇場音楽堂等の職員一人ひとりはもちろんのこと、とりわけ館長や芸術監督、事務局長等の経営責任者は重く受け止めなければなりません。矜持を持って仕事をしなければなりません。憲法25条を根拠とする「生存権」に依る福祉政策は、いわばセーフティネットとしての「消極的」な社会政策ですが、一方文化政策は、憲法13条の「幸福追求権」等の基本的人権に関わる「積極的な福祉政策」です。その担い手として、地域の劇場音楽堂等が国民市民の生活に最も近いところで、まさしく「人間の家」としての社会的機能を持つことが期待されているのです。

むろん、そのことを設置自治体に説明する責務を果たすことも同時に私たちに期待されていると言わなければなりません。前述の「大臣指針」には、「教育機関、福祉施設、医療機関等の関係機関と連携・協力しつつ、年齢や障害の有無等にかかわらず利用者等の社会参加の機会を拡充する観点からの様々な取組を進めること」とあります。設置自治体の教育委員会、福祉所管部局、保健医療所管部局、まちづくり所管部局等と連携して、健全な地域社会を形成し、あるいは支え合うコミュニティづくりに尽力することが、自治体と当該地域の劇場音楽堂等には期待されているのです。冒頭の文化審議会総会での下村博文文部科学大臣の挨拶の中にも、「省庁横断」、「社会課題」、「市場創造」の三つのキーワードが挙げられていました。

しかしながら、「活動別支援」への補助申請は、制度が整った2013年度で113件(採択89件)、今年度は114件(採択89件)にとどまっています。私はもっと多くの、さらに言えば全国の中小規模館の多くが教育機関・福祉施設・保健医療機関へのアウトリーチやワークショップを実施すべく果敢にアプライしても良いのではないかと考えています。鑑賞事業の一つや二つを削減しても、それらの社会包摂的なプログラムを実施すべきと思います。一部の愛好者や特権階級に向けられた文化サービスよりも、すべての住民を視野に入れた文化サービスにスタンスを置くべきと考えます。むろん、事業予算が少なくて補助金の「裏負担」ができないとか、そのサービスを実施するにあたっての「専門家」が不在であるという厳しい現実はあります。かつてのように学校に入って行くだけのアウトリーチ・サービスなら実施は容易だったのですが、子供の貧困や不登校児、児童虐待、高齢者、障害者、長期入院児、在留外国人などに対応するアウトリーチやワークショップとなると、アーチストなら誰でもできるというものではなくなります。当然ですが、そのための「人間的な適性」が求められます。補助申請の少なさの背景には、そのような阻害要因があるのは事実です。したがって、コミュニティ・アーツワーカーの「人材育成のための研修制度」の実現は急がなければなりません。本来は文化審議会がそのような提言を、「大臣指針」に沿うかたちで出すべきではないかと私は考えます。

それは「時代の要請」と言えます。2000年を前後して規制緩和された労働者派遣法以降、格差社会は世代を重ねることで「格差の再生産」というかたちで階級社会化して、たとえば「子供の貧困」が大きな社会問題となっています。年収113万円という貧困線以下の世帯で育っている子どもが6人に1人いる、という厚労省の統計が昨年出て、あまりに重い格差問題として驚きをもって社会に受け止められました。その多くは単身親家庭です。子供に給食費や学用品代を補助する「就学援助」も約150万人、6人に1人が利用していましたが、生活保護の基準が引き下げられたことに連動して今年度71自治体が支給対象の基準を下げて、多くの子供たちが援助対象から外れました。これらの「事実」は将来社会への危機であり、 今後の社会不安をつくることともなる、解決しなければならない社会課題です。そこに生きなければならない、育たなければならない、子供たちと親たちの「心のケア」は劇場音楽堂等の仕事です。アーラは、不登校の子供たちや孤立しがちな高齢者や0歳児から3歳児とその若い母親へのコミュニティ・プログラムを各々週一回の割合で実施しています。それとは別に、近い将来、単身親家庭における親子の社会的孤立を防ぐための「機会」を提供するワークショップにアーラは乗り出します。「まち元気プロジェクト」にその為のワークショップを加えることになります。

これらも時代の要請に応じた、地域社会の健全化へ向けた、将来の地域社会へのリスクヘッジとしての社会包摂型のプログラムです。前述の例でいえば、単身の親に有利な就業先を斡旋紹介するのは政府や自治体の仕事ですが、その親子が社会的に孤立しないように「心のケア」をして、支え合う仲間づくりの「機会」を提供するのは劇場音楽堂等の側の仕事です。「社会包摂」のためのコミュニティ・プログラムとは「機会の提供」なのです。社会包摂的なコミュニティ・プログラムは、実施すれば課題が解決するという特効薬ではありません。「機会」を提供することで、自律的に「必要とされている実感」と「存在が役に立っているという実感」を獲得してもらうという、漢方薬のような役割が社会包摂的なプログラムなのです。「時代の要請」に応じて「文化芸術の社会包摂機能」を多様多彩に工夫して実践的に活用するのが、税金で設置し、運営している公立の劇場音楽堂等の社会的使命であると私は考えています。それは、いわば地域社会への「投資」です。鑑賞の機会の提供という文化的使命のほかに、そのような社会的機能を劇場音楽堂等に持たせることも、税金を投入してまで施設を設置した存立根拠になるのです。そうすることで、いわゆる「ハコモノ」を林立させてしまった「政治の失敗」を逆手にとって社会包摂センターとして利活用を促進して、地域を活性化する「逆転の発想」も必要です。

かつて県立宮城大学の教員をしていた頃、当時の岩手県東和町(現花巻市)のコミュニティセンターで高齢者の「生きがいづくり事業」を実施したところ、まちの財政に重い負担となっていた高齢者医療費が劇的に改善できたという事実を知り、大学所在地からも比較的近いこともありヒヤリング調査に伺ったことがあります。文化芸術や劇場音楽堂等の社会的効用は、適正にアウトプットすることができるように設計すれば行政の財政負担を軽減化することも可能なのです。英国のグラスゴー市にあるグラスゴー・シチズンズシアターには、数多くあるコミュニティ・プログラムの中に刑務所へのアウトリーチがあります。およそその為に費やされる費用は2万5000ポンドですが、服役者の再犯率が下がれば、刑務所収容に関わる費用を充分にカバーできてお釣りがくる、とプログラムの担当者が話していました。3人の受刑者の再犯が抑止できれは費用対効果のバランスは取れるそうです。個人的に20年ほどの付き合いのある、高齢者プログラム「HEYDAYS」で有名な英国の地域劇場ウエストヨークシャー・プレイスウスは、6月にインタビューしたところ、現在「認知症の高齢者へのプログラム開発」をしているということでした。英国でも認知症高齢者の問題が大きな社会的課題であり、行政課題にもなっていることが窺われる話でした。

可児市のフリースクールである、教育研究所内に設置されている「スマイリングルーム」では、いじめによって不登校になったと思われる中学生が、自己防衛本能なのでしょうか、当初は何をしても背の丈ほどもある棍棒を手放さなかったのですが、3回目のワークショップから此処が安全な場所であり、担当しているコミュニティ・アーツワーカーが気の許せる人間たちと気付いたのでしょう。頑なに握りしめていたその棍棒を手放し、表情も柔らかくなって笑顔さえうっすらと浮かべるようになったのを目の当たりにしました。彼はワークショップを経て、とても「創造的思考」のできるようになって人間的成長を果たしました。また、入学時の半数の約80人の学生が中途退学していた県立高校でのコミュニケーション・ワークショップをサポートし始めてから3年目の今年、その数が激減して20人台になり、入学試験の定員割れも解消したとのことでした。そのような実績と実際と成果を目の当たりにすると、文化芸術の社会包摂機能の底力に、あらためて驚愕させられます。「間違ったことはしていない」という確信をいま私は持っています。そのことを私たちは「彼ら」から教えられたのです。

「0歳児から3歳児と若い母親」のワークショップである「親子de仲間づくりワークショップ」には、今年度当初、定員をはるかに超える応募がありました。抽選になってしまいましたが、このようなプログラムの社会的ニーズが非常に高いことを私たちは知らされました。若い母親の「子育て」への不安、「孤立」への不安がいかに大きいかを教えられました。昨年度の「児童虐待」の通報件数が72000件と報道されました。1日200件です。この数字の背景には、若い母親たちの、「核家族化」と「コミュニティの崩壊」に起因する社会的孤立があります。アーラは、彼女たちの誰もが、同じ悩みや環境下にある繋がれる相手を欲していることを知らされました。ここでも「間違ったことはしてはいない」とプログラム設計への確信を持ちました。

「時代」は、劇場音楽堂等や文化芸術が社会にもたらすだろうコミュニティ形成という効用と、広い裾野への社会包摂機能の活用に大きな期待を寄せています。いや、むしろ財政逼迫の中で、期待を寄せざるを得ない状況なのだ、と行政を説得すべきです。また、東京への一極集中化が現在進行形で進んでいるのに対して「地方の疲弊」が盛んに言われています。それに比例して地域にある公立の劇場音楽堂等の果たさなければいけない使命は大きくなっています。多くの社会的課題が顕在化し、しかもそれに対応しなければならない役割は社会の劣化に正比例して大きくなっているのです。表題の青柳長官の「陽あたりのよくない地域を良くしていくことが文化政策」、河村次長の「一部の関係者の閉じられたものでないこと」が極めて重要な今日的な文化政策の課題となっていることは明白です。「第四次基本方針」に、その「社会的危機感」から来る課題解決策が盛り込まれることを、私は期待してやみません。

「生きづらさ」を抱えている人々にこそ基本的人権の一要素である「幸福追求権」、「文化権」は保障されなければなりません。文化政策は「国民総幸福度・Gross National Happiness, GNH」を下支えするものです。文化審議会委員の皆さんには、もう一度、文化政策を所掌する幹部である三人の言葉に込められた「危機感」を吟味していただきたい、と願ってやみません。今年3月に出た『文化芸術立国中期プラン』で下村大臣が、東京オリンピックを「第3の大きな社会変革の機会」と捉え、2020年には日本が「世界の文化交流のハブ」になることを目標にしたい、という壮大なビジョンを立ち上げました。それを達成するためには、文化芸術が国民市民にとってかけがえのない「社会的資産=公共財」であるような社会形成をしなければなりません。そうでない「土壌」に築かれたグランドデザインは「砂上の楼閣」でしかないことに私たちは気付かなければなりません。東京オリンピックに向けて「打ち上げ花火」をいくら壮大に打ち上げても、それが国民市民のものになっていなければただの浪費でしかありません。私たち文化芸術関係者は、とりわけて公立の劇場音楽堂等で働く人間たちは、まさに「大きな社会変革」を担うことを国民市民から負託されていることに自覚的でなければなりません。強く自覚することを、いま求められているのです。