第162回 逆転の発想を劇場経営に  創客という成果を生むアーラの社会包摂型チケットシステム。

2014年7月23日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

先日開催した「サマーコンサート2014」は、地域拠点契約を締結している新日本フィルハーモニー交響楽団の「ブラームス」で、世界的に高く評価されている気鋭ダニエル・ハーディングの指揮で、第一部では、これも近年目覚ましい活躍で注目されているヴァイオリニストのイザベル・ファウストがソロとして参加している極上のプログラムでした。一部でのイザベル・ファウストのヴァイオリンは「男前」とでも形容できる切れの良い演奏で聴衆を魅了しました。第二部の交響曲第4番も、繰り返しが多くていささか単調になりがちなブラームスをハーディングが見事に料理して、聴きごたえのあるオーケストレーションになりました。間違いなく第一級のコンサートになったと自負しています。

そのコンサートのアンケート用紙に目を通していて「素晴らしいコンサートでした。我々のような年金生活者にとっては当日ハーフプライスというのは助かります」という記述を見つけて、アーラが採用しているチケット制度の確かな社会的成果を感じました。この方は、1枚分のチケット料金でご夫婦揃って極上のブラームスに触れることができたようです。年金生活をなさっておられる方ばかりではありません。可処分所得が年々目減りしておられる世帯が急増して格差社会化、階級社会化している現在の日本で、しかも地域で生活しておられるすべての人々がちょっと一息つける時間を持つことができるようにするというのは、税金で運営している公立の施設にとっては当然の社会的使命です。むろん、学生たちも半額料金で水準の高い舞台を享受できます。事のついでに言えば、アーラに付属している「アーラ・ユースシアター」に所属している子どもたちは、すべての公演に1000円で入場できるようになっています。これらは、より多くの地域の人々に水準の高い舞台芸術に触れていただく「機会」をつくりだすという社会包摂的な意味合いを持っています。

日本は当日券が前売りより高い価格で設定される、という世界的に珍しいチケット制度が一般化しています。小劇場から大劇場まで、当日券の方が高い価格というのが当然のように受け止められていますが、しかし当日券の方が席は悪いわけですから経済合理性はまったくありません。それでも当日券の方が高いのは、かつての日本の芸術団体がおかれていた社会的地位と、それによって彼らが置かれた経済環境に因ります。前売り券を少しでも多く売って、舞台美術や衣装や劇場の貸料等の支払いに充てなければ本番までの期間の、あるいは本番後に発生する債務の手当てができない、という経済的な事情があったのです。いわば、早めに現金を手に入れたいという「事情」があったわけです。そのために「不合理」を承知の上で前売りを廉価に設定して、流動性のある資金をなるべく多く、しかも早く内部に留保することを意図したわけです。それが運営資金に余裕のある商業劇場の一部や公立劇場でも、前売りより当日券を高く設定するという「慣習」がいまだに残っている理由です。この不合理なチケットシステムを、日本の劇場ホールや芸術団体は何ら検証することなく「慣習」として引き継いで今日に至っているわけです。

私は大学の教員する以前から、この「慣習」にはまったく合理性がなく、非常におかしいと思っていました。私の知る限りでは当日券が前売りより高いのは日本だけの「慣習」です。顧客志向型のチケットシステムではなく、芸術団体や劇場側の「事情」が優先された結果の当日券の割高設定なのです。それを科学的に検証せず、反省もしないで今日まで引き継いでいるのは、サービス産業の特質である顧客志向の経営から言ってもいかがなものかと私は思っていました。

アーラでは、私が常勤として就任した年度当初から、ネット上では当日の午前零時から、チケットブースでも午前9時からチケット価格を半額にする「ハーフプライス・チケット制度」を導入しました。一般的に「ハーフプライス・チケット」と言えば、ニューヨーク・ブロードウェイのタイムズ・スクエアやロンドン・ウエストエンドのレスター・スクエアの売り場が有名ですが、これは『実演芸術 その経済的ジレンマ』という歴史的論文の著者の一人であるウイリアム・J・ボウモル博士らの提言で、開幕と同時に価値を喪失してしまう舞台芸術の座席からせめて半額でも売り上げる方が経済合理性はある、という根拠によってはじめられた制度です。しかし、アーラの「ハーフプライス・チケット制度」は、その根拠とは違って、正規の料金でチケットを購入したお客さまの鑑賞環境を高度化するためには、空席が目立つより客席ではなく劇場を満員に近い状態にすることの方がはるかに鑑賞によって高い経験価値が生じる、という私の評論家時代の実体験を根拠に設定したものです。

スコットランドを代表する地域劇場であるグラスゴー・シチズンズシアターは、まちの基幹産業である重工業が衰退した60年代から70年代にかけてまちに失業者が溢れていました。シチズンズシアターの立地するゴーバル地域も荒廃して、希望の見いだせないまちになっていました。この時のシチズンズシアターの芸術監督のジェフリー・ハーパーは、ゴーバル地域の住民に50ペンスで演劇を鑑賞できる制度を創りました。それを契機として地域の治安が良くなり、街の中心部から逃げ出していた市民が戻って来ました。この「ゴーバル地区の50ペンスチケット」は、まさに社会包摂的なチケット制度です。現在では、ドミニク・ヒルという若い芸術監督が、限定100枚ですが、この「50ペンスチケット」を復活させています。

冒頭のお客さまのハーフプライス・チケットへの評価は、当初から狙っていたことが実現しているということの証左です。少子高齢化は21世紀の日本社会の大きな問題ですが、日本の文化政策はどうしても「子どもの健全育成」のために文化芸術を活用するという方向に偏っています。それも間違いではないのですが、世界でも例を見ない「高齢化社会」に入っている日本では、高齢者のQOLを担保するために、私は文化芸術をもっと援用すべきと考えています。高齢者の社会的孤立は大きな社会問題です。とくに配偶者を亡くした高齢者は引き籠りがちになり、社会的に孤立を深めて、終には孤独死という不幸な事態に至る例も少なくありません。そのリスクを回避する意味でも、たとえ年金生活で可処分所得が限られていても舞台芸術に触れることのできるチケット制度は整えるべきと考えています。

また、アーラには、「ビックコミュニケーション・チケット」というチケット制度もあります。鑑賞前や後に、より多くの人たちとコミュニケーションを持っていただければという構想で、4人から10%OFF、6人になると20%OFF、8人以上が集まれば30%OFFにチケット料金がなる、というシステムです。鑑賞する前は期待感で会話が弾むでしょうし、鑑賞後は、約60%強の方々が食事やお茶を共にしているというデータがアーラでは得られています。そのような場では、同じ体験をした者同士でコミュニケーションが大いに進むでしょう。コミュニケーションの集積が「コミュニティ」ですから、そのような場は、コミュニティの一員となることで社会的孤立や社会的排除を回避できるためのリスクヘッジになります。社会包摂型のチケット制度とは、そのような意図のもと様々な仕組みが張り巡らされたシステムの構築を指します。

私たち公立劇場に働く者は「興行師」ではありません。利潤の最大化を目指す「興行師」では決してありません。利益の適正化と、あわせて地域社会の課題解決のために、劇場音楽堂等は文化芸術を通して「地域に投資をする」存在でなければなりません。自主事業も、アウトリーチ・ワークショップも、チケット制度も、劇場のアクティビティのすべてが地域社会の課題解決に向けての「投資」と位置づけられ、制度設計されていなければならないのです。でなければ、すべての市民から強制的に徴収した税金で設置し、運営しているという根拠が根底から崩れ去ってしまうのです。

鑑賞のためのチケットは、いわば「コミュニケーション・ツール」です。私はそのように位置づけています。鑑賞体験の共有によってコミュニケーションを発生させるための手段です。現に、お一人で鑑賞する人は、およそ16%前後しかいません。これはフランスの文化コミュニケーションの調査結果でも、アーラの顧客調査でも共通した数値で、世界的に共通した数字です。多くの方々が、複数名での鑑賞を選択しています。鑑賞体験を共有することで、確実にコミュニケーションは発生しています。それも、舞台鑑賞の楽しみの一つなのです。むろん、その為には質の高い舞台芸術を提供しなければなりません。それは大前提です。当然ですが、事業を決める時にはそれ相当のプレッシャーを感じながら意志決定をします。

しかし、その質の高い舞台芸術を鑑賞していただくことは必要条件でしかない、と私は思っています。地域劇場の経営者としては、それによって起きることの想定できるコミュニケーションの質こそが問題なのです。その質の向上のために関心と期待度を高めるための関連企画を実施します。コミュニケーションの質を追求することが公立劇場の経営者や事業担当者の使命なのです。そこが「興行師」とは180度違うところです。そのために劇場の職員は明るくお客さまをお迎えします。劇場職員は高い鑑賞環境をつくりだすための「演出家」なのです。また、その月にバースディを迎えられたお客さまの席には、職員の手づくりバースディ・カードとまちの花であるバラを一輪ラッピングして置いておき、見えた時に私がご挨拶に伺います。これも高い鑑賞環境を創りだすための「演出」です。

「ビックコミュニケーション・チケット」の根拠を経営学的に考えれば、一人のお客さまの後ろには沢山の見込客が隠れているということになります。これは疑いのないことです。「ビックコミュニケーション・チケット」は、その経営学的知見とデータ分析によって創られたチケットシステムです。より多くのお客さまがコミュニケーションの輪をつくり、大きなコミュニティを創ってくださるように「演出」することが私たち劇場を経営する側の仕事です。それが地域劇場の、健全な地域社会をつくるための社会包摂な使命なのです。地域劇場のホスピタリティというのは、そのための気配りがすべての仕組みの隅々にまでいかに行き届いているかによって決まるのです。

私は、アーラのような経営哲学で運営される劇場音楽堂等が少しでも増えることを強く望んでいます。全国の各地方に一つずつでも良いから、地域の隅々にまで社会的便益を行き届かせることを使命とする、市民の心の拠り所になる、社会包摂的な経営手法で運営される劇場音楽堂等があれば、それの劇場がリーディング・シアターとなって各地方の、従来はハコモノと市民に思われていた施設が市民にとって「公共財」として存在できるようになる方向づけができると、私は思っています。市民が誇りに思う施設への道程を歩み始めると思っています。それでもそのように改革できない施設は淘汰されるべきだと私は考えています。全国2200の劇場音楽堂等は従来、一部の愛好者のための施設で「ハコモノ」と揶揄されて来ましたが、社会包摂を使命とする施設が全国各地に2200もある、と考えれば、日本社会を劣化から救済する拠点施設が2200もある、ということになります。「逆転の発想」です。各地に建設されて自治体がその後年度負担に苦しんでいる「常識」を、ちょっと別の視点から発想すれば、教育、福祉、保健医療、多文化共生のための拠点施設がそれだけあるのだ、と改めて足元を見つめ直し、福祉社会建設のための再発見をすることになります。

「可児は特別」とか「アーラは特別」とかいう言辞が漏れ伝わってきます。そのようなことは断じてありません。予算が少なければ、それに応じてダウンサイジングすれば、何処ででもできることをアーラはやっているのです。「特別な」ことはまったくしていません。そもそも、私がアーラの館長に着任した時に始めた「改革」は、徒手空拳で辛抱強く「変化」を起こした結果なのです。ただ少しばかりの経営アイデアを経営実践へとダウンロードして大きなイノベーションを起こしたのです。その根幹には、社会のあり方への私自身の疑問がありました。それを糺したいという僅かばかりの「意志」があっただけなのです。それがアーラのイノベーションの推進力になったのです。「おかしい」と思うところからの出発です。それだけを持ち合わせていれば、必ず多くの施設は「ハコモノ」から脱出できます。

これから10年弱で100館近い劇場音楽堂等が竣工すると言われています。それらの自治体や議会からのアーラへの視察は非常に多いのですが、鑑賞施設であるホール部分を大きく、しかも立派に造ろうとする、中央からの配給の受け皿的な「20世紀型の計画」が殆どです。劇場建築家さえも、いま求められている劇場音楽堂のあり方に気付いていません。時代という外部環境が大きく変化したことに気付いていません。古い「常識」に縛られたままです。中央のプロモーターや興行会社の受け皿になろうと企図する施設計画ばかりを設計しています。劇場建設計画書の中に「プロモーター関係会社視察調査」まで組み込まれている施設計画さえあります。良く目を凝らして見てください。時代は大きく変化しているのです。

第三次基本方針を嚆矢に、劇場法、とりわけ大臣指針によって、求められる未来志向の劇場音楽堂等は大きく変わっています。地域社会のために、健全な地域社会への投資として、劇場音楽堂等を設置し、社会包摂的な経営手法によって「社会的投資を社会的成果に」という劇場施設を一つでも多く、という私の願いはまだ当分は叶えられそうにもありません。それでも、私は求められれば何処にでも出かけてアーラの経営の仕組みをお話ししています。これからも、ささやかではありますがお手伝いはし続けます。何処へでも出かけます。また、セミナー付きの視察対応も日程さえ合えばいくらでも受け容れます。何とか地域社会の健全化に貢献する劇場を、私が動けるうちに一つでも二つでも造っておきたいと、強く願っています。アーラの経営システムは、ダウンサイジングすれば何処でもできるのです。勇気を持って、是非一歩踏み込んでください。