第156回 アーツマーケティングの要諦  「二人称・三人称」の思考回路と認知コストについて。

2014年1月13日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

私はアーツマネジメントの三大要素を「アーツマーケティング」、「アーツファイナンス」、「ヒューマン・リソース・マネジメント」と考えています。なかでも、アーツマーケティングは日本の現状では最も必要とされながらも理解の進んでいない分野であると考えて来ました。その原因としては、「チケットを売る」という行為に囚われてしまい「マーケティング(marketing)=セリング(selling)」という誤った枠組みの中でマーケティングが捉えられていて、その本質を見失っているからです。これは従来から舞台芸術経営のスタンダードとされてきた東京圏のアーツ環境が、成果を観客動員数の多寡のみにフォーカスし、その枠組み内でしかマーケティングが考えられていないからです。「瞬間最大風速としての観客動員」が自己目的化されてしまい、本来のアーツマーケティングの社会的使命である観客自身と社会の「変化」に関心が向かっていないからです。その「変化」のための環境を整えることこそがアーツマーケティングであるのに、結果としての「数」を目的化してしまったことでアーツマーケティングへの理解を未成熟なものにしてしまっている、と私は考えています。

アーツマーケティングとは、「チケットを売る」ことではなく、「チケットの売れる環境をつくる」という創造的なミッションを遂行することに他ならないのです。「一枚でも多く売る」と「これまでより一枚だけ多く買ってもらう」との違いを理解しなければなりません。この二つの言葉には径庭の隔たりがあることを、まずもって理解しなければなりません。「実のところ、セリングとマーケティングは真逆である。同じ意味でないことはもちろん、補い合う部分さえない。むろん何らかのセリングは必要である。だがマーケティングの理想は、セリングを不要にすることである」というドラッカーの言葉を、私たちはいま一度良く吟味しなければならないのです。究極においてマーケティングの使命と目的は顧客の内的環境に「変化」を生み出すための戦略です。しかし、モノを売るためのマーケティングと、アーツを提供して「変化」を生むマーケティングとは構造的には若干異なっています。モノを使用してもらってライフスタイルに「変化」をもたらすためのマーケティングと、アーツのように鑑賞行為とパラレルに「変化」を生じさせる「生産と消費の同時性」をもった商品(アーツ)のマーケティングが違ってくるのは当然です。

ここではアーツを売るためのマーケティングを考えているのですが、その双方に共通するところもあります。共通項としては、戦略を考える思考回路を「一人称」で考えてはいけないということです。「二人称」あるいは「三人称」で考える能力がマネジメントやマーケティングには必要とされます。「一人称」で考えるのはアーチストや技術開発者の仕事です。たとえば、最近私は、「独り善がり」な製品開発だな、と思ったモノがあります。「3Dテレビ」と「4Kテレビ」です。これらは技術者にとっては当然のように開発できる製品なのでしょうが、顧客志向、つまり二人称や三人称で考えられて売り出された製品ではないと思っています。仮にそれが考えられたうえでの発売だとしたら、私は経営者のセンスを疑います。テレビの前にかじりついて番組を楽しむ時代ではありませんし、ハイビジョン・テレビで充足している消費者が、さらに走査線を多くしてより鮮明な画像をいま求めているわけでもありません。これは技術開発者の自己満足に過ぎないと私は思っています。まさしく「独り善がり」です。また、ハンドルやアクセル、ブレーキを操作せずに自動車を運転できるGPS とコンピュータ制御による自動操縦車の開発がなされていますが、これはA地点からB地点への移動手段としてのみの機能的価値の自動車を意味しており、ステータスとしての自動車、ドライブを楽しむ手段としての自動車という意味的価値をまったく否定してしまっています。これらを売り出すという経営判断をした経営者とマーケッターに「一人称」の思考論理を感じます。疑義を感じざるを得ません。これに類することはアートにも度々あります。

たとえば、真っ白な卵状の球体の現代アート作品があり、その天井部分、ちょうど真上に外界の景色の変化が見えるように弓を二本背中合わせたような穴があけられているとします。卵状の内部には人が入れるようになっていて、壁面からしずくが長い間隔で一滴ずつしたたり、それが本当に長時間をかけていろいろな形状となり、なっては離れ、終には小さな水たまりをつくります。このアートの内部にいきなり入っても何が何だかさっぱり理解できないでしょうが、仮にこの現代アートに「胎内」とか「誕生」というタイトルがつけられていれば、作品を了解して楽しむ「想像力の起爆装置」となります。

この場合、そのタイトルの良し悪しが鑑賞者と作品との「対話」を可能にします。ここに介在するのが、マネジメント意識であり、マーケティング意識です。タイトルは何でも良いわけではないのは当然です。いかに「作品との対話」を惹起させるかが吟味されなければなりません。それなしにタイトルを不用意につけてしまうとアートの、「変化」をもたらすという意味的価値は削ぎ落されてしまいます。タイトルが「想像力の起爆装置」となり、「対話」が成立しなければ、この作品はアーチストの「独り善がり」でしかなくなってしまいます。当然ですが、「二人称」や「三人称」でばかり考えるアーチストや技術者は職業人として「落第」です。しかし逆に、職業人としての経営者やマーケッターが「一人称」で戦略を考えていては完全に「落第」です。3Dテレビも、4Kテレビも、自動操縦も、タイトルのない上記の球体アートも、共に「一人称の独り善がり」によっている点でマーケティング意識の欠落が顕著であると言えます。「観る」、「聴く」はあくまでも行為そのものを意味するのであって、その行為は受益者が得る利益ではありません。その「行為」のためにチケットを購入しているのではないのです。

さて、アメリカの哲学者アラスディスア・マッキンタイアによれば、人間は「物語」を紡ぐことで「他者との対話」を成立させ、それを理解する存在だと言っています。演劇でも、音楽でも、美術でも、いやそれらのみならず人間関係をはじめとするすべての生活局面で何かを理解するときに人間は想像力で「物語」を紡ぐことが宿命づけられています。人間の一生は、その反復によって常識的な態度や社会慣習やルールなどを身に付けていきます。想像力を駆使した「物語」を介して人間は「何か」を受容し、理解し、承認する存在なのです。アーツマーケティングは、その「他者との対話による受容・理解・承認」を梃子として、顧客の価値観や生活環境や生活信条や生活行動、またライフスタイルに「変化」をもたらす作法と言えます。基本的な態度は「顧客との対話」、「潜在顧客との対話」であると言えます。したがって、顧客や潜在顧客の身になって考える「二人称」、「三人称」の思考をしなければマーケティングは決して成立しない作法なのです。私の英国の友人であり、アーツマーケティングのコンサルタントであるヘザー・メイトランドは、「マーケティングとは観客、参観者、参加者の観点から物事を見つめることです。私たちは人々に関わってもらうための「理由」を提供しなければなりません」と言っています。

これは簡単そうに思えて、非常に難しい作業がともないます。人間は「何か」を受容し、理解し、承認するためには、脳科学的に「認知コスト」という脳内エネルギーを使っています。人間の脳はチンパンジーの4倍の重さがありますが、供給される血液量はチンパンジーの2倍でしかありません。いわば慢性的なエネルギー不足と言えます。したがって、ストレスを感じることなく、コストとベネフィットの脳内環境のバランスを保つために、人間は新しい価値を受容することを極力回避しようとする傾向があります。いわば人間の脳は保守的なのです。新しい価値を受容し、承認するために必要な「認知コスト」と、承認した結果の利益とのバランスが取れないと、人間は強いストレスを感じることになります。対話によって人間の価値観に影響を与え、行動を促すマーケティングの難しさは脳科学的にも裏付けられる困難さなのです。

当然です、人間の行動に影響を与えることが容易であるはずもありません。むろん、その為の環境整備がマーケティングの具体的な作業となります。小はチラシづくりから、大は関連企画の実施、さらには劇場や劇団のブランディングまで、「認知コスト」の軽減化を図ることがマーケティングの具体的な作業となります。「認知コスト」という非常に高いハードルを下げるための、あるいは顕在顧客や潜在顧客の背中を押すような環境づくりをするのが、いわばアーツマーケティングのミッションであり、仕掛けなのです。

その環境づくりの最も大きな仕事はブランディングです。アーツは鑑賞するその場になってみないと品質が分からない「認識の不確実性」という商品特性を持っています。チケット購入という行動は、単に「良い体験を提供します」という「誓約」を買っているに過ぎないのです。これは脳内エネルギーにとってはかなり高い認知負荷と言えます。それだけに、とくに舞台芸術の場合、「生産と消費の同時性」という商品特性があり、いわばその場になってみないと分からないという厄介な特徴があります。したがって、相当な「認知コスト」を費やしても高品質のベネフィットを得られる、という品質保証条件を得るには、ブランド力という社会的信頼性が非常に有利な環境整備として作用することは想像に難くありません。

ブランディングとして良く行われるのは、有名な俳優・演奏家やタレントやキャスティングして、そのアーチストのブランド力をもって観客動員を図る手法です。非常に一般的な行われているブランディングの手法ですが、これには大きな欠陥があります。それは劇場や芸術団体固有のブランディングではないために、「その場かぎり」のブランディングでしかないという点です。「瞬間最大風速」としての観客動員数を記録することはあっても、それを継続客や固定客に転化させるのが大変に難しいということです。したがって、「瞬間最大風速」ではなく、変動性の小さなコンスタントな観客動員数を得るためには、劇場それ自体や芸術団体固有の「ファン」をつくるためのマーケティングをすることが必要になってきます。つまり、継続客・固定客を創造することこそがアーツマーケティングの究極の仕事なのです。 

可児市文化創造センターalaで言えば、昨年度の自主事業の観客動員数は42,188人で2005年からは約280%の増加なのに対して、パッケージチケットのセット数は、サービスを開始した2007年は163パッケージだったのが、2010年には1426パッケージと約875%の伸びになっています。年間4本の演劇やクラシックを鑑賞する継続客・固定客が大幅に増えていることになります。可児市の人口はおよそ101,500人ですから、71人に1人がパッケージチケットを購入していることになります。今年度には全国トップレベルの15の劇場・音楽堂が支援される特別支援事業に指定されてアーラのブランド力も大きく伸長していることが予想されますので、今年3月の来年度のパッケージチケット発売月にどの程度のパッケージ数となるか、それほど大きな伸びにはならないでしょうが、名古屋市、岐阜市、各務原市などの遠方のまちからのお客様が微増傾向にあるので、ある程度の伸びは期待できます。館長に就任して6年目で、演劇、クラシックともに分厚い固定客層が形成されつつあります。

この傾向が全国的な「変化」にならないのはなぜなのだろうか。おそらくはアーツマーケティングが未成熟なためだろうと私は考えます。「一枚でも多く売る」というマーケティングが十年一日のごとく繰り返されているからに違いないと思うのです。演劇やクラシックの継続客や固定客をつくりだすための「顧客との対話」が、目の前の一枚を売ろうとするあまり疎かになっているのではないか。あるいは、アーチストの一人称の思考回路と成果物に経営責任者やアーツマーケッターが追随、同調して、せっかく劇場にみえたお客様へのアプローチが疎かになってしまっているのではないか。舞台芸術が一般化しないのは、むろんアーチストの責任もあるでしょうが、第一義的にはアーツマネジメントとアーツマーケティングの敗北だと私はつとに思っています。

いささか古いのですが、1962年にスタンフォード大学の社会学者エペレット・M・ロジャーズによって提唱された「イノベーター理論」によれば、新しいものを真っ先に取り入れるイノベーター(革新者)は人口の2.5%に過ぎません。流行に敏感で、情報収集も積極的に行って自ら進んで購入するオピニオンリーダーたるアーリーアダプター(初期採用者)は市場の13.5%で、この二つの階層を足すと16%にもなります。よくクラシック愛好者は人口の1%と言われます。これに演劇愛好者を足すとおよそ2.5%のイノペーターと符合します。実は私たちはこの階層しか開発していないのではないでしょうか。オピニオンリーダーたるアーリーアダプターまでたどり着いていないから舞台芸術が日本人の生活の一部になっていないし、社会の重要なファクターになり得ていないし、分厚い支持層を形成出来ていないのではないかと私は思います。そこまでマーケティングが出来れば、慎重派ではあるもののオピニオンリーダーたるアーリーアダプターの影響を比較的強く受けるアーリーマジョリティ(初期追随者・34%)が胎動し始めると考えるのはうがち過ぎているでしょうか。オピニオンリーダーを開発していないということが、舞台芸術の社会的基盤の脆弱さを物語っているように私には思えます。

アーラはどのような基準で企画を決めているのかと訊かれると、私はいつも「市民の半歩先」であるかどうかで決めます、と答えます。それがどういうことなのかは前述した脳の「認知コスト」で説明できます。人間は、費やした「認知コスト」に見合うだけの利益(ベネフィット)=「物語」が紡がれて脳内エネルギーのバランスがとれれば、ベネフィットによる「変化」がもたらされて、満足感や達成感を持つことが出来ます。むろんその為には、チラシのデザイン・コピーから関連企画や関連ワークショップ、当日パンフレット、さらには劇場自体のブランディングなどによる脳内エネルギーのリソースの軽減化を企図する環境整備はしなければなりません。そうすることで費やされる「認知コスト」を極力低いものにして、より多くの観客に「変化」をもたらす満足感と達成感を持ち帰っていただくようにします。いま一度繰り返します。「観る」「聴く」はあくまでも行為そのものを意味するのであって、その行為は受益者が得る利益(ベネフィット)ではないのです。

市民に阿るのではなく、「半歩だけ先」にすることで、「物語」を紡ぐ想像力の及ぶ範囲をより多くの人々が持てるように設えるのです。ところが「一歩以上」、あるいは「数歩先」の舞台をやると、大多数の観客は舞台からはぐれてしまいます。分からないものを理解しようとして認知コストは支払われるのですが、一度舞台からはぐれてしまったら、舞台芸術は時間を逆回転させることは出来ません。客席の椅子に押し込められて、無為な時間を過ごす羽目になってしまいます。無駄に「認知コスト」が費やされただけでもストレスが生じるのに、そのような時間を過ごすことになった市民に舞台芸術を愛することが期待出来るでしょうか。好きになることが出来るでしょうか。むしろ「劇場嫌い」を拡大再生産することになります。「半歩先」というのは「二人称・三人称」のマーケティング思考なのです。

90年代に「文化のまちづくり」ということが盛んに言われ、文化庁の補助事業としても「文化のまちづくり事業」があった時期があります。それによって多くの事業が行われた事実もあります。ただ、それは事業が多く実施されればまちが文化的になり、健全なまちづくりが出来るという近視眼的な誤った考えに基づいていました。「まちづくり」とはコミュニティ形成です。コミュニティ形成には多様なコミュニケーションが域内に発生して人と人の関係づくり、「出会い、語り合い、知りあう」というプロセスが不可欠です。コミュニケーションの集積がコミュニティだからです。数多くの文化イベントが行われたとしても、それらがコミュニケーション集積の仕掛けに裏打ちされていなければ、単なる「一揆主義」でしかありません。もし多くの文化イベントが文化的で健全なコミュニティをつくるというなら、東京は世界一文化的で健全な都市ということになります。私には到底信じられません。

大切なのは文化イベントの多寡ではありません。それが起爆剤となって、多様なコミュニケーションと、関係づくりが行われているかなのです。フランスの文化コミュニケーション省がコメディフランセーズの観客調査をした結果があります。それによると、一人で観劇に来ている観客は全体の12%に過ぎません。2人連れは50%、3、4人での観劇は22%、5人以上だと何と16%にもなります。アーラの3年前のニューイヤー・コンサートでの調査では、一人でお見えになっている聴衆は15%、複数での参加は69%で、その内4人以上での聴衆は9%もいます。私が8年前にプロデュースした『おーい幾多郎』の米子公演では、単独客は24%で複数客は69%。その内訳は、夫婦23%、家族15%、恋人1%、友人26%、同僚4%となっています。

つまり、一人の顧客の後ろには数人の潜在顧客が隠れており、その掘り起こしをヘビーユーザーたる顧客自身に委ねる仕組みをつくることで、まず観客開発の端緒に付けるのです。さらに、次の一手としては、鑑賞という同じ体験を共有する複数名のあいだに「関わり合う」というコミュニケーションを発生させる仕掛けを用意するのです。アーラには「ビックコミュニケーションチケット」というそのためのチケット制度があります。4人なら10%OFF、6人なら20%OFF、8人以上なら30%OFF、というチケット制度です。今後は、鑑賞前のランチ、鑑賞後のディナーのために、ウェブ上で良質のサービスと上質の食事を提供する飲食店を予約できるように仕組む予定です。アーツを媒介させて同じ舞台芸術を体験した者同士のコミュニティをつくることが、真の意味での「文化のまちづくり」になるのです。「文化のまちづくり」とはアーツマーケティングの成果を期待するものなのです。

アーラでは、毎年一回「アーラみんなの同窓会」という催しを開催しています。年度末のミュージカル、コンテンポラリーダンス、演劇のサイクルで行われる大型市民参加事業、多国籍の市民が参加する「多文化共生プロジェクト」などの市民参加型事業の参加者が一堂に会する、まさしく「同窓会」で、毎年80人から90人程度の出席者があります。ここに、経年のそれぞれの演出家や作家や講師も招待されて、ミュージカルナンバーを歌ったり、ダンスを披露したりします。

これは、県立宮城大学の教員時代に読んだアメリカの研究論文に、幼少期に芸術に親しんだ子どもが大人になってもその芸術に親和的な態度(attitude)を持ち続けるには、幼少期の人間関係や友人関係が青年期になっても継続していないと難しい、という内容の記述がありました。人間関係が途絶えると、芸術との距離も離れてしまうというのです。その論文にヒントを得たのが、市民参加事業に出演した人々が年に一度、プロジェクトの指導者にも集まっていただいて交流を図る「アーラみんなの同窓会」構想です。幼少期、子供の頃にアーツに関わることはとても大切なのですが、そこで形成されたコミュニティにいかに継続性を持たせるかが重要で、その仕組みをつくらないかぎりいくら幼少期、少年期のアーツ体験を仕組んでも、大人になって文化芸術との親和的な姿勢は担保できないのです。これもアーツマーケティングの範疇に入ることです。「文化のまちづくり」の一方策です。

つまり、アーツマーケティングは、個々人の生活に関わり、価値観やそれにともなって発現する習慣や社会的な行動に関わる、すなわちソーシャル・マーケティングとも言える「関わり合いの科学」なのです。「一枚のチケット」から拡がる一人の人間の生活の「変化」をステージング(演出)する作法なのです。「一枚でも多くチケットを売る」にとどまるのか、そのチケットから「変化」を導き出すのか、この選択がアーツの日常化への岐路なのだと言ってもよいと思っています。ここでいま一度繰り返します。「観る」「聴く」はあくまでも行為そのものを意味するのであって、その行為は受益者が得る利益(ベネフィット)ではないのです。チケット料金は、「観る」、「聴く」という行為の対価ではないのです。