第149回 「社会包摂」及び「社会包摂機能」について― 今後、文化芸術を語るうえでのキーワードとなる新しい概念。

2013年6月2日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

今後、劇場ホール、舞台芸術のみならず、文化芸術や文化政策を語るうえで、「社会包摂」と「社会包摂機能」というキーワードは重要な役割を持つことになると思われます。「社会包摂」という文言が公的文書に使われたのは、前回も書きましたが、2000年12月、当時の厚生省社会・擁護局による、「社会的な擁護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会」の報告書に、新たな福祉課題に対応するための方法を導く理念として位置付けられたのが日本での嚆矢だと認識しています。これは、90年代にヨーロッパを中心に起こってきた社会政策理念であるソーシャル・インクルージョン(社会包摂)という考え方に強い影響を受けたものと考えられます。

社会包摂という考え方は、大元を辿ると70年代の障がい者権利運動に行き着きます。障がい者自身による運動が、分離教育から統合教育への動きとなって、特別なニーズに基づいた教育(Special need education)という概念が提唱されます。それがノーマライゼーション(障がいや貧困、高齢などの人々が一般の市民と差別なく共に暮らすのが健全であるという福祉理念)という考え方を生み、さらには普通学級において障がいのある子どもを教育することを要請するインクルーシヴ(包括的)教育を実現させるために、すべての子どもに普遍的な通常教育と、特別なニーズに対応した教育の双方を障がいのある子どもに提供することなしには成立し得ないという考えに発展して、インクルーシヴ教育を実質的に保障していくためには、普通教育と特殊教育を統合して一つの教育制度として再編していく必要が出てくるのです。

90年代後半になると、インクルーシヴ教育に向けた国際的、国内的な取り組みの影響を受け、障がいや貧困などといった様々な理由によって、社会から人々を疎外して、排除する社会のあり方そのものを批判する考え方が登場します。そして、万人が地域社会を担う一構成員であるとし、誰もが暮らしやすい社会を築いていこうとする概念が社会の中で台頭してきます。これはすなわち、障がいや貧困、差別、国籍・人種の違いなどによって社会から疎外・排除されてきた人々を、そのようなカテゴリーによってではなく、「特別なニーズ」のある人々として社会の一員として捉え、受け容れ、連帯し、共生し、それぞれのニーズに応じたサービスの提供を行うユニバーサル化によって、分断や格差を生み出す社会構造を解消し、全ての人が平等に社会に受け入れられるようにしていこうという考え方で、これこそが「社会包摂(ソーシャル・インクルージョン)」です。

ソーシャル・インクルージョンは、ノーマライゼーションの特徴の一つである「全ての人が共に生活できるように社会のあり方を変革する」という考え方が発展したものと考えられます。すなわち、ノーマライゼーションは、障がいのある人の視点から、障がいのある人を排除する社会のあり方に異議を唱え、彼らを障がいの無い人の生活に近接させていこうという視点でしたが、ソーシャル・インクルージョンは、その後のノーマライゼーションから発展した様々な教育運動の影響を受け、障がいの有無に関係なく、違いのあるあらゆる人々が平等に受け入れられる社会を実現するために社会自体を変革するという視点がより強調されることになるのです。

直近の3年間は文化法制や文化に関する公式文書に「社会包摂」という言葉が頻繁に登場しています。一昨年2月の「第三次基本方針」、昨年6月に成立した「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」、そして今年3月末に告示された「大臣指針」に、文化芸術の効用として「社会包摂」という文言が使われています。このように「社会包摂」という文言が、文化の公的な文書に頻繁に使われるようになった背景には、社会の激しい変容への「処方箋」として、いわばリスクヘッジとして、文化芸術に期待する政策理念への傾斜があるのではないかと私は思っています。

ほとんど暴力的でさえある金融資本主義や市場原理主義の「市場における自由な競争に基づくいかなる結果をも正当化される」という考えから生じる格差や貧困という社会的不正義性に対して、コンシャス・キャピタリズム(理性ある資本主義)を担保するために、劇場と文化芸術の諸機能を充分に発揮することが、劇場ホール・文化芸術には、いま社会から強く求められているのだと思っています。社会のあり方が激しく変化する結果生じる今日的な社会的課題への対応策として、文化芸術に期待するニーズが、「個人の趣味は個人に帰する」というかつての日本的な文化芸術の概念から大きくはみ出して、大きく変化してきているとみるのが適切でしょう。ジョン・ロールズの正義論を発端としてマイケル・サンデルなど、おもにアメリカで近年「正義論」研究が活発に行われるようになっている背景にも、「理性ある資本主義」への回帰を求める「アメリカの現実」があると私は思っています。

「社会包摂」というキーワードを、さらに分析すると「コミュニケーション」というタームが浮上してきます。コミュニケーションというと、話し手に関わる機能のように思えますが、実は受け手の知覚によっているものです。受け手の価値観、期待、要求によってのみコミュニケーションが成立することは、ドラッカーの『マネジメント』に詳しく解説されています。そしてコミュニケーションは一方向性を特徴とするインフォメーション(情報)とは、補完関係にありながらも峻別されるべきものとドラッカーは看破しています。つまり、コミュニケーションとは相互に価値を交換する相互関係のあり方であり、それによって「学び合い」や「成長」を相互にもたらす対話の作法といえます。それが、さまざまな利害を調整して、社会的・階級的な合意による包摂性の高い社会を形成するという論理になるのです。

コミュニケーションがそのような社会的機能を果たすのは、「想像力」と「創造力」という、脳科学的には前頭連合野がつかさどっている「社会脳(social brain)」が働くからです。アメリカの哲学者アレスディア・マッキンタイアは「人間は物語(narrativeであり、storyではない)を紡ぐ存在である」と言っています。「思いやり」、「心くばり」、「気づかい」、「空気を読む」という他者への対応は、この社会脳によるものです。想像力と創造力で「物語」を紡いで、相手の立場を慮って行動を選ぶという機能が「社会脳」にあるのです。したがって、誕生して間もない幼児にそのような社会的機能を期待するのには無理があるのです。「子どもは残酷だ」という言い方にはそういう理由があるのです。

つまり、多様な経験則が「社会脳」を発達させ、人間は、アリストテレスの言うところの「社会的な動物」になっていくのです。その「社会脳」の機能への期待が、さまざまな利害を調整して、階級的障壁や身体的・精神的障がいや社会的格差を乗り越えることを可能にすると考えられるのです。したがって、社会包摂というのは「人間への期待」が根底にある概念であると言えます。人間という存在を全面的に信頼する立場に依拠している考え方です。文化芸術の享受の局面で起こる感動や共感という「化学反応」もそこから生じる感情です。

私がたびたび、文化芸術は「一部の愛好者や特権階級の占有物ではない」、すべての「普通の人々」にこそ必要である、と語るのにはそのような根拠があるからです。「文化」とは、劇場やホールや美術館で起こるものだけを指すのでは決してなく、原理的にはすべての生活局面、「普通の人々」の日々の営みにこそ必需な財であると私は強く考えています。第二次大戦直後のイギリスのクレメント・アトリー首相は、「揺り籠から墓場まで」という社会福祉政策の徹底を図ったことで有名ですが、実は「文化の享受は万人の権利である」という政策も提唱しているのです。経済学者ケインズを初代議長とした英国芸術評議会の発足、地方公共団体法の改正による公的助成が可能になる改革の背景には、このアトリーの労働党政権の政策理念があったのです。

そして、ソーシャル・インクルージョン・ユニット(社会包摂局)を政権発足後の97年12月に設

置して、「社会包摂」という政策理念を全政策に機能させようとしたのが、サッチャー政権下で社会への帰属意識を弱め、公衆道徳の失墜、社会的連帯感の喪失など荒廃した社会とコミュニティを回復させようとしたトニー・ブレア首相の労働党政権だったのです。ほぼ同時期には、フランスでは、移民政策と社会的連帯に対応するものとして「社会的排除と闘う7月29日法」が成立しており、1989年の欧州社会憲章の序文では、社会的排除との闘いの意義が言及され、2004年6月18日に採択された欧州憲法草案において、ソーシャル・インクルージョンは社会政策の基本理念として規定されています。

こう見てくると、「社会包摂」という概念はヨーロッパの社会民主的な社会風土に特徴的で、アメリカはそれに反して「自己責任」が基本のソーシャル・エクスクルージョン(社会排除)の国であり、一見すると文化芸術が隆盛している国柄のように見えますが、実のところは一部の特権的な階層の占有物になっているのではないかと私は考えます。文化芸術が産業として成立化しているという意味で、アメリカは産業的な「文化芸術立国」であり、ヨーロッパは社会的平等を重視した「文化芸術立国」なのではないでしょうか。

私たちが進むべきは、後者であると私は強く確信します。「人間」をど真ん中に据えた文化政策であり、社会政策であるべきと確信しています。可児市文化創造センターalaが「特別支援劇場音楽堂」として評価されたのは、年間400回を超える「アーラまち元気プロジェクト」という社会包摂性の高い事業を実施している点と、43万8000人という多くの来館者によるものと思っています。

社会的疎外感をケアし、社会的孤立を回避して、「何かのコミュニティの一員」となることで社会的人間として存在し、成長を約束され、多様な価値を包摂できてこそ、懐の深い豊かさを実現し、健全で成長力のある社会を実現できるというのが「社会包摂」の理念であり、経済成長よりも国民総幸福度を重視する「成長」と「豊かさ」のある社会形成のための理念だと私は考えます。文化芸術は、コミュニケーションの作法が内包された包摂性の高い行動様式であり、その機能を社会に反映させてこそ、文化芸術の「公共性」は担保されるのではないでしょうか。劇場音楽堂も然り、であることは言うまでもないことです。