第144回 公共劇場の社会的責任経営について― 世界劇場会議国際フォーラム日英会議を終えて。

2013年2月25日

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督  衛 紀生

世界劇場会議国際フォーラム2013が無事に幕を閉じました。実行委員長の立場として、まずは安堵しています。今年のテーマは「公共劇場を、デザインする」でした。英国から劇場経営コンサルタントのマギー・サクソンさん、ウエストヨークシャー・プレイハウスの最高経営責任者のシーナ・リグレイさん、英国芸術評議会の演劇部門ディレクターのバーバラ・マシューズさん、そして飛び入りで英国芸術評議会ヨークシャー支部理事長のリー・コーナー、日本側からは、静岡グランシップ館長の田村孝子さん、しいの実シアター芸術監督の園山土筆さん、それに私という陣容での国際会議でした。(以下敬称略)基調講演はマギー・サクソンの「Community Engagement」と私の「約束の仕事へ ―新しい価値を生み続ける社会機関となるために」でした。

2日間のセッションでのキーワードを整理すると、「芸術的使命と社会的使命の等価性」と「地域への投資としての劇場経営」の二つではないかと思っています。これは来年の世界劇場会議国際フォーラムのテーマに直結すると思いますが、このキーワードで容易に想像できるように、劇場が社会とどのように関わるべきなのかというのが2日間の議論の中心でした。マギー・サクソンの基調講演での「公的資金は公共的なものに投資されるべきであり、誰も疎外してはならない」、「公共のものであるためには、その投資に応えなければならない」の発言に代表されるように、公的資金によって発生する劇場をはじめとする創造団体等の社会的責任のあり方が、基調講演及びセッションにおいてのメインストリームとなった2日間でした。二つのキーワードを一つに束ねるならば「公的資金による劇場経営の社会的責任」ということになるのではないでしょうか。

こうした議論は文化経済学や文化政策学やアーツマネジメント学の大前提のように思われ、いかにも議論が頻繁に行われて、それをベースに様々な研究や提言が行われているかのように感じられますが、私の知るかぎりにおいてはまったく聞いたこともない議論です。公的資金の投入により発生する社会的責任を所与の条件のように研究者や学者は考えているようですが、いかなる研究も提言も、ここから出発しなければ空理空論に過ぎない、と私は思っています。アーラの「経験価値経営=創客経営」は、この前提の上に構築した経営理論であり、実践なのです。

日本では公的資金に対する社会的責任の感覚が鈍いと、私は常々思っていました。芸術団体や公立ホールの補助金の審査を何回もしましたが、まことに不誠実な申請に出会うことは度々です。申請時の演目が、修正申請の制度があるにもかかわらず、上演時にはまったく異なった作品を上演するなんてことは日常茶飯事です。「芸術監督」を記入する欄があると、役所から派遣されている係長名を堂々と書き入れてくる北海道のある公立ホールもありました。公的資金を使うことに対して真摯な態度ではないのです。無自覚に過ぎるのです。「棚から牡丹餅」、「貰えるものなら一円でも多く」という態度が申請書の書き方に露骨に表れており、一方事業完了届の報告書は限りなく杜撰で、公的資金を投入された団体とは思えないほど説明責任を果たしていないのです。公的資金によって支援を受けるための作法が全くなっていないのです。学者・研究者も創造現場も、公的資金投入による社会的責任についてはかなり無関心であり、無自覚であると言えます。

また、こんなことも言えます。英国芸術評議会のバーバラ・マシューズもマギーと同様に「公的資金を受けた芸術はすべての人々に享受する権利がある」と発言して、それが社会の発展につながるとの指摘があったのですが、これは喫煙所で小耳にはさんだ会話なのですが、この「発展」を日本人は自動的に条件反射的に「経済的発展」と思い込む国民性があるようです。ちょっと驚きました。社会的発展はあくまでも公正な社会の発展であり、経済的な進捗とはまったく違うフェーズなのです。いささか卑しいなと思ったのが正直なところです。

税金等の公的資金を使うことへの社会的責任には二つの側面があります。ひとつは、みずからの存在と事業が社会的な価値をもつことへの責任であり、劇場にかぎって言えば、「ムダ」とか「ハコモノ」とか当該地域住民に思われない経営を施すことです。どんなことがあっても「欠損」と思われないための経営努力をしなければならない、ということです。そう思われてしまうということは、社会の秩序への攻撃に等しいからです。「秩序への攻撃」に対する反発として「ムダ」とか「ハコモノ」という蔑称を劇場に向けて投げつけているのです。クレームから経営側が汲み取らなければならない「真実」があるのです。みずからの存在が与える社会的な影響をあたうかぎり最小にするのが公立劇場の社会的責任経営です。むろん、指定管理料、補助金、助成金、協賛金等を得たことへの説明責任は公正に果たさなければなりません。一点の曇りがあってはならないことは言うまでもないことです。

もうひとつの社会的責任の側面は、自らの存在や価値とは関係なく、社会の病理に対してみずからの技術や人的な資源を用いて貢献するという責任の果たし方です。なぜなら、健全な劇場経営は、健全な社会を前提としてしか成り立たないからです。「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」の「大臣指針(案)」にある「個人の年齢若しくは性別又は個人を取り巻く社会的状況等にかかわりなく、全ての国民が、潤いと誇りを感じることのできる心豊かな生活を実現するための場として、また、社会参加の機会をひらく社会包摂の機能を有する基盤として、常に活力ある社会を構築するための大きな役割を担っている」という件が、その社会的責任経営の方向を指し示しています。

日本はもはや階級社会の様相を呈しています。いたるところで階級的矛盾が噴出して、漠とした不安が社会を覆い、将来的な社会不安のもととなっています。劇場にはそれらの矛盾を生みだしている社会的制度を変える力はもとよりありません。だがしかし、その制度からの歪みを矯正しようとする努力と、その結果としての「社会的価値観の変化」は劇場ならではの可能性であり、潜在力と言えます。また、そこと闘わないかぎり、劇場や芸術は一部の特権階級の独占物となってしまいます。それが健全な劇場のあり方であるとは到底思えません。芸術が特権階級の独占物であってはならないという「文化の民主主義」は、今回の世界劇場会議国際フォーラムで多くのパネラーから発せられた言葉です。「文化の民主主義」とは、まさに健全な社会にしか健全な劇場経営は成り立たない、という定理そのものなのです。これが失われるなら、あるいは脅かされるから、もしくは希望が持てなくなるなら、私は劇場にとどまる理由がなくなります。劇場は社会の健全性を保持するための「ラストリゾート(最後の拠り所)」だからです。今回の世界劇場会議国際フォーラム2013は、私にそのことを再認識させてくれるまたとない機会となりました。