第138回 地域に生きる劇場  「人間の家」へ。

2012年9月20日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

地域劇場のことを考えはじめたのは、演劇雑誌『テアトロ』に連載を始めた時でしたから、92年からだと記憶しています。もちろん唐突に「地域劇場」と発想したわけではなく、東京の演劇界が「小劇場ブーム」に湧きながらも、それらの舞台に、想像力と創造力で観客一人ひとりに固有の「物語」を紡ぎださせる力の減衰を感じたからです。ライブパフォーマンスだけが有する舞台力が衰弱しており、そのような東京の演劇界を相対化するためには、50年代アメリカに起こった「リージョナルシアター運動」のようなものを起こさなければならない、という危機感が背後にはありました。

「小劇場ブーム」のトップランナー的な劇団には、当時民間から億単位、千万単位の資金援助がなされて「冠公演」が多く行われていました。86年には、東京・国立代々木体育館で夢の遊眠社の「ストーンヘンジ三部作一挙上演」が行われ、一日で2万6400人の観客を動員して社会面の記事になったりしていました。舞台は巨大なスクリーンに映し出され、それを観客が見るという、ライブパフォーマンス固有の「身体性」を放棄したものでした。東京の演劇界には浮ついたバブル感が充満して、地に足が付いていない浮遊感もありました。週刊誌のライターが「新しいものだけが良いもの」とばかり未成熟な劇団を次々に紹介する傾向が強くなり、舞台や戯曲や演技の巧拙を評価する専門性に依拠する私のような演劇評論家の批評行為は「ネクラ」の営為と敬遠される傾向にありました。「ノリ」の時代だったのです。「ネアカ」が歓迎され、物事を深く考察する批評行為は「ネクラ」と差別される時代の空気でした。これが「病理」なら此処に踏みとどまろう、しかしこの浮ついた空気が演劇界の「生理」なら演劇そのもの捨てよう、と連載していた批評に書きました。「演劇評論家とは書けない」という題のエッセイも書きました。確定申告の時に職業欄に「演劇評論家」と書けなくなった自分がそこにいたのです。

ともかく「エイ、ヤッ」とばかりに地域に出ました。月刊誌、週刊誌、女性誌に連載していた11本を1本だけ残してすべて断りました。ある月刊誌の編集長と2年の約束で始めた連載をいきなり中断したので、「約束が違う」と大喧嘩にもなりました。それでも東京の演劇界に少しでも関わることを出来るかぎり避けたかったのです。レギュラーの演劇キャスターになっていた毎週の「BSエンターテイメントニュース」と月一回の宇田川清江さんの「ラジオ深夜便」も2年後には降板しました。600万円を超えていた年収は一気に10分の1以下になりました。地域に出かけても、当然人脈などありませんから行政に日参して取材を頼み込んだり、つてを辿って紹介を受けたりして情報を拾い集め、帰ってから一本だけ残しておいた月刊の演劇雑誌『テアトロ』に書き下ろすという日々になります。むろん取材費などは出ません。貯めていた預金を切り崩しながらの地域取材でした。それでも、その頃が私には生涯で一番楽しい時期でした。多くの出会いに恵まれた時期でした。演劇や劇場の社会的機能との出会いと発見に胸を高鳴らせた時間の連続でした(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_15.html)。公共政策学、文化政策学、経営学、マーケティング学、古典経済学と行動経済学、文化経済学、劇場に関連する諸法律、認知心理学と、劇場に関わるものは独学で勉強しまくった数年間でした。

そして93年に、取材してきた地域の情報を多くの人たちと共有するために舞台芸術環境フォーラムを設立しました。と言っても任意団体です。総務省の官僚や大学教授、企業メセナ協会の若い職員、民間の文化財団の職員、民間会社のメセナ担当部署の職員、演劇制作者、学生など、実に多種多様な出自の違った人々が集まりました。開催場所は、そのときに貸してもらえる友人の会社の会議室などを借用しました。したがって、2ヶ月に一度の集まりは転々としている状態でした。のちには、北海道演劇財団の平田修二氏に頼まれて、札幌でも集まりを何回か開きました。その頃の連載原稿の一部をまとめたのが『芸術文化行政と地域社会 ― レジデントシアターへのデザイン』です。この種の本としては珍しく5ヶ月間で売り切って第二版まで増刷されました。

『芸術文化行政と地域社会』のなかで私は、演劇や劇場が福祉、教育、保健医療、保育などの地域社会が抱える諸課題の問題解決に関与すべきと提言しています。この「レジデントシアター ― <もうひとつの公共>へ」の章は、この本を出版するにあたって書き下ろした部分で、95年当時の私の構想をすべて映しています。若書きでいささか性急なので気恥ずかしい気分もあります。少し長くなりますが引用しておきます。

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さて、私の構想するレジデントシアターは、それ自体が自治体文化行政へ転換をせまる「政策提案」であり、また、演劇固有の能力を劇場の呪縛から解き放ち、多元的・社会的な価値として公共の認知を獲得しようとする「演劇自体の自己改革」をも企図するものである。前者は、日本の文化行政の「住民の生活にかかわらない分野」からの脱却、すなわち、演劇は私的な欲求を充足させる財であると同時に、福祉、教育、保健医療、保育などの地域社会が抱える諸問題にかかわり、その解決のための媒介的役割を果たす社会的な価値財であるとの認知を促して地域社会と行政に意識の転換を求めることであり、後者は、舞台という成果への「芸術的評価」のみを絶対的な価値として、それ以外のたとえばアウトリーチ活動にかかわる「社会的評価」を軽視しがちな従来の演劇のあり方に変革をせまるものである。いわば、芸術を聖域化する偏狭な考えからの、アーチスト自身の解放と言える。

『芸術文化行政と地域社会 ― レジデントシアターへのデザイン』・「レジデントシアター ― <もうひとつの公共>へ」より。

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つんのめっている、勢いだけで書いている感の強い文章で「よくも、まぁ」と久しぶりに読み返して思いますが、それには阪神淡路大震災のあとの神戸シアターワークスの活動のさなかに書かれたという背景があります。当時、被災地での私たちの活動に協力を求めた東京の30代から40代前半の若手中堅の演劇人から「演劇はそんなことのためにあるのではない」と罵詈雑言を浴びせられ、神戸の地元演劇人からは「売名行為」と罵倒されながらの神戸シアターワークスでしたから、情けなさと悔しさと怒りとが綯い交ぜになった気分の中で書いた「レジデントシアター ― <もうひとつの公共>へ」だったのです。このレジデントシアター構想は、地域に出てからの数年間の多くの出会いと発見だけをもとに純粋培養した地域演劇への思いと問題意識の発露でした。「構想」とは言え、実際に実現できる保証は何処にもありませんでした。出来るとしても何十年かはかかるだろうという、いわば「夢物語」に近いものでした。

98年に私はバルセロナで開催された国際文化経済学会で『Public Theatre as Means of Community Revitalization (コミュニティ再生装置としての公立劇場)』という論文を発表する機会を得ました。国際学会が終わってすぐに私は英国に飛びました。前年に名古屋で開催された世界劇場会議国際フォーラムで知り合ったマギー・サクソン女史が経営監督をしている、北部英国・リーズ市にあるウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)を訪問するためでした。彼女に再会するだけのいわば気楽な表敬訪問程度に考えての英国へのフライトでしたが、この時のちょっとした寄り道が、その後の私の生き方を大きく変えることになります。

そこには「レジデントシアター ― <もうひとつの公共>へ」で構想した地域劇場が実在したのです。驚きました。唖然としました。ほとんど茫然自失。訪れた劇場は多くの市民で賑わっていました。ロンドンのウエストエンドにトランスファーする舞台、ロイヤルナショナルシアターに1ヶ月間招待される舞台、ナショナルツアーのできる舞台などの芸術的に高い評価を得る作品を製作していながら、年間1000のコミュニティ・プログラムを実施して20万人がそれにアクセスしているということでした。地域社会の隅々にまでWYPのコミュニティ・プログラムは行き渡っています。たとえば、子どもたちが犯罪や麻薬に巻き込まれないように「SPARK」という放課後のアウトリーチ・プログラムがあり、不幸にも10代で犯罪に手を染めてしまったり、麻薬に手を出してしまった若者には、「ファーストフロア」という、そこから立ち直るためのプログラムが劇場には用意されています。そして、成績優秀な若者にはリーズ音楽大学への推薦入学の枠まであります。賑わっているはずです。WYPはリーズ市民にはなくてはならない「広場」になっているのです。そこでは、すべての市民を柔らかく包み込む包摂性の高いコミュニティづくりのための劇場運営がなされていました。心の底から驚きました。そこはまさしく「もうひとつの公共」と言える場所でした。「芸術の殿堂」ではなく「人間の家」でした。WYPのような劇場が日本に10くらいあったら日本の社会は大きく変わる、と思ったものでした。7年間計画に主査として関わって、知事交代で「瞬間凍結」となった北海道劇場計画も、最後の数年間はWYPをパイロットモデルとして練り上げたものでした。子ども達だけで運営する小劇場を持った画期的な計画でした。

それから私は2、3年に一度くらいの頻度でWYPを訪れています。あの「新鮮な驚き」を忘れないためです。WYPのような地域劇場を日本にもつくろう、という気持ちを「上書き保存」しておくためです。自分を奮い立たせるためです。むろん、当時の芸術監督のジュード・ケリーも、経営監督のマギー・サクソンも、いまはいません。芸術監督は、その後エジンバラのトラヴァース劇場にいたイアン・ブラウンになって、この9月からはスコットランドのダンディ・レパートリーシアターの芸術監督をしていたジェイムス・ブライニングになりました。彼は社会的な発言をする、いわばジュード・ケリーに近いタイプの演出家のようです。大いに期待しています。今月末から来月にかけて、私は英国に行きます。当然、WYPを訪れます。来年2月の世界劇場会議国際フォーラム日英会議と、3月のアーラの事業である『オーケストラで踊ろう』の打ち合わせです。再来年度あたりには、改修工事の休みのあいだに職員を連れてWYPへのツアーを企画しています。むろん自費でのツアーですが、アーラが目指す「人間の家」のグランドデザインを職員全員で共有する機会にするためです。そうすることで強力な推進力を生むはずです。可児市民が誇りに思えるような「人間の家」を実現し続けるためには、どうしても必要な「WYP体験」になると信じています。地域に出てから20年、ようやく構想した地域劇場への道の入り口に立っていると思える昨今です。

あと3週間ほどでマギー・サクソン女史と再会できます。私のNPOで2日間の国際会議をした2003年以来ですから、実に10年ぶりです。来年には、彼女をはじめとする英国の劇場界や芸術評議会の人間がアーラに来ることになっています。私の経営する地域劇場を見てもらえます。楽しみです。答案用紙を担任の先生から返してもらう時の気分です。