第136回 「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」と「ハコモノ批判」のあいだ。

2012年8月12日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

ある週刊ビジネス誌の編集者から、可児市文化創造センターalaの経営が非営利組織のビジネスモデルとして非常におもしろいので記事で大きく取り上げたいとの話を頂きました。有難いことです。しかし、編集部での会議の結果、「ハコモノ特集」のなかでアーラを取り上げる、ということになったそうです。お話は有難いのですが、やはりそういう切り口で公立の劇場ホールを見るのが一般的なのだなと少しがっかりしました。「ハコモノ行政」は、建設費の多寡よりも後年度負担が建設後数十年間発生して、そのために行政の予算を圧迫し続ける存在として「批判」の対象となる、というスキームが一般的と言えます。「ハコモノ」には必ず「批判」という言辞が付いてまわる、というのがこの20年来続いている傾向と言えます。とりわけ劇場ホールに対するそれは厳しいものがあります。それには劇場ホールの受益者が一部の愛好者でしかないという偏りがあり、医療施設や福祉施設のように「いつかは自分も世話になる」というセーフティネットとしての可能性がまったく考えられないことも批判を際立たせる原因と言えます。

福祉施設や医療施設の場合、納税者は将来的に自分も世話になるという意味で「保険」としての経費負担の妥当性を承認します。また学校施設は、地域社会の将来を担う人材の輩出を自分の将来と重ね合わせてその合理性を受け容れます。ともに自身や係累者の「安心・安全」のための掛け金として負担を承認しているのです。ゴミ処理場や浄水場の建設もハコモノに違いありませんが、これらは市民生活の衛生面や利便性を担保するという点で、誰もが反対できない「生活環境の整備」という大義があります。これらのハコモノは、将来にわたってのそこに居住する人間の「生活環境」に密接に関わり、利便を図るという合理性と正当性があるのです。

劇場ホールがもたらす後年度負担は、釣り堀のようになっている使われない港湾施設、不採算路線のみが就航していて経済効果も集客効果も地元にもたらさない地方空港というハコモノと同一視されて、税金の投入に投資効果も正当性も合理性もないとされています。これが劇場ホールへ向けられる「ハコモノ批判」のあらましです。そうであるなら、批判は当然のことであり、どのように正当化しても「ムダ」であるのは火を見るよりも明らかです。納税者にこの負担を押し付けることは政治的不道徳であり、不正義です。しかし一方では、港湾施設、地方空港と劇場ホールを次の観点から一緒に論じるべきではないという考えがあります。劇場ホールで行われる舞台芸術には、それ自体に「公共性」がある、という見方です。私はこの考え方の論拠を、きわめて曖昧なものと感じます。すべての文化芸術それ自体に先験的に「公共性」があるとは決して思わないし、その考えはまさに不正義であるし、不道徳で、乱暴で、独善的で、独断的な偏見でしかない、と思います。芸術の側に立つ人間の「苦し紛れの言い逃れ」でしかありません。

ならば、どうしてこの狭い国土に2200とも2400とも言われる数の公立劇場やホールが造られてしまったのでしょうか。隣町にもあるから、隣町も造ったから、という自治体の、とりわけ首長の功名心はあるでしょう。既存の施設のある隣町まで行けば住民の一定程度の文化環境は担保できるのに、そうしない理由はやはり一種の功名心であり、「公共事業」としてのホール建設です。そのためだけに住民に後年度の負担を強いるのは理にかないません。行政的な不道徳です。もうひとつの劇場ホールの建設の根拠は、町を文化的にする、という大義です。しかし、設置するだけで町は文化的な環境になるのでしょうか。誰が考えても、これは論理的な帰結とはいえません。90年代初頭に『文化ホールがまちをつくる』という、文化行政マンのバイブルとなった森啓さんの著作がありましたが、圧倒的多数の公立ホールにはせいぜい年に二本か三本分の予算しかついていません。たとえば北海道の自治体直営のホールの多くには、年一本分の事業予算しか確保されていません。その程度の文化イベントをやったからと言って町が文化的になると信じるのは無邪気に過ぎます。きっと誰もそのようなことは信じていないのです。それが信じるに足りないことであるのは、当事者が一番知っているはずなのです。

仮に「文化ホールがまちをつくる」のであるならば、共催、貸館も入れて、最低で年間の三分の二程度の日数の事業がなされなければそれは実現しないでしよう。そうでなければ市民にも「文化的なまち」という実感は起きないでしょう。しかし、それだけのマーケットが当該地域にあるかははなはだ疑問です。たとえ周辺地域も入れてのマーケット規模は望めたとしても、事業予算のみならず、それだけの事業を実施するための人材とノウハウは担保できるのか、という話までくるとそのリアリティは一挙に消え失せます。つまり、「出来もしない与太話」の類なのです、ホール建設ラッシュの舞台裏は。どだい無理を承知で建設したのがその経緯なのです。

したがって、ビジネス誌の編集企画会議が、非営利ビジネスモデルとしての可児市文化創造センターalaのマネジメントを取り上げたいという一編集者の熱意ある提案を「ハコモノ特集」とまとめるのには、残念ながら、相応の理由があるのです。「ハコモノ」という言い方のニュアンスを汲みとれば、行政の造った建造物を指すのは言うまでもありません。民間の劇場ホールに対して、それが実際的には貸館のみのハコモノであったとしても、批判的なニュアンスを込めて「ハコモノ」とは言わないし、「ハコモノ」であることは社会的に容認されています。「公立」と「民間立」のあいだには、その原資を根拠として、径庭の懸隔があるのです。

ビジネス誌からの「特集を組みたい」という話があった直前に参議院先議のうえで「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」が衆議院で可決成立され、その後施行されました。その条文を吟味すると、第二条「定義」に「この法律において『劇場、音楽堂等』とは、文化芸術に関する活動を行うための施設及びその施設の運営に係る人的体制により構成されるもののうち、その有する創意と知見をもって実演芸術の公演を企画し、又は行うこと等により、これを一般公衆に鑑賞させることを目的とするもの」とあります。この「一般公衆に鑑賞させることを目的とする」は、一般的にはいかにも当然至極のように思えるでしょうが、この「一般公衆」が非常に狭い範囲の一部の舞台芸術愛好者であると考えると、「公立」であることと「鑑賞をさせることを目的」とのあいだに論理的な矛盾が生じてしまいます。「公立」の劇場ホールは「鑑賞をさせること」のみを目的とするわけではないのです。

つまり、「公立劇場ホール」と「民間立の劇場ホール」を一緒に論じて劇場音楽堂等を定義すること自体が、はじめから論理的な矛盾を背負い込むことになるのです。民間立の劇場音楽堂が一部の愛好者のみを相手にビジネスをするのが当然であるのに対して、公立の劇場ホールは、その原資を根拠として、すべての市民を視野に入れてサービスを考えなければ不誠実であり、不道徳であり、不正義となるのです。民間立の劇場ホールは「ビジネス」ですが、公立の劇場ホールは「地域社会への投資」と考えるべきなのです。これらを一緒に定義することに無理があり、法律自体が曖昧な領域を抱え込むことになるのです。「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」を一読して法律の文言の視座にブレを感じるのはそこに原因があるのです。

また、「一般公衆に鑑賞させることを目的とするもの」という「定義」は、専ら民間立の劇場ホールの事業に対して言えることであり、この考えを公立施設に当てはめると、施設の機能の一部のみを指しているに過ぎなくなってしまうのです。公立劇場ホールにとって上演施設は全機能の「部分」でしかないのであり、それを全体として考えると、「ハコモノ批判」の出てくる視座と重なり合って、ついには同一になってしまいます。それが一般的に信じられている劇場音楽堂やホールへの理解なのですが、公立施設は鑑賞機能のほか、社会サービス機関として多様な機能が求められているのであり、それを充足させて初めて公立施設としての要件を満たし、「ハコモノ批判」の対象から脱することができるのです。

可児市文化創造センターalaは、年間46前後の滞在型創造事業と鑑賞事業を実施し、年間354回のアウトリーチ、ワークショップ等をまとめた「アーラまち元気プロジェクト」を行っています。つまり、一年中サービスを地域に提供しているのです。私たちの劇場に「ハコモノ批判」が当てはまらないのは、そのようにすべての市民を視野に入れた社会的なサービスを供給する社会機関としての多様な機能を通年で働かせているからなのです。その点で、法律前文にある「公共財」であることを十分に満足させています。劇場ホールを考える時、「創造・上演・鑑賞」という枠組みのみに囚われてしまい、非常に狭くその機能を定義してしまう従来の捉え方から、いま私たちは脱しなければならないのではないかとこの20数年間思い続けています。その狭隘な考え方をブレークスルーして、劇場ホールの社会的機能を解き放たなければならない時代に至っていることを私たちは自覚しなければならないと思います。劇場ホールの社会的包摂の機能を十分に発揮することが社会から期待されていることに私たちは一刻も早く気付かなければなりません。日本の社会は、いま、緊急事態の中にいるのですから。

その狭隘な劇場ホールの捉え方が滲み出てしまっているのが同法第一条の「目的」の条文です。「この法律は、文化芸術振興基本法(平成十三年法律第百四十八号)の基本理念にのっとり、劇場、音楽堂等の活性化を図ることにより、我が国の実演芸術の水準の向上等を通じて実演芸術の振興を図るため、劇場、音楽堂等の事業、関係者並びに国及び地方公共団体の役割、基本的施策等を定め、もって心豊かな国民生活及び活力ある地域社会の実現並びに国際社会の調和ある発展に寄与することを目的とする」とあります。「実演芸術の振興を図る」のが法律の目的であり、それによって「心豊かな国民生活及び活力ある地域社会の実現並びに国際社会の調和ある発展に寄与する」という読み方が適正なのでしょうが、「実演芸術の振興を図る」という法の目的の件に、私は「創造・上演・鑑賞」という狭隘な「劇場音楽堂等」への理解が拭いがたくあると断じるのです。「実演芸術の振興を図る」ことと「劇場音楽堂等」の社会的包摂機能を社会に向けて供給するということは断じてイコールではありません。このズレが大きな問題であり、そのズレが、今回の「劇場音楽堂等の活性化に関する法律」に一本芯が通っていないという感を否めない主たる原因なのです。私が、法律の文言の視座にブレを感じる、というのはその点を指しているのです。

仮に百歩譲って「実演芸術の振興を図る」を呑んだとしても、それによってどのような社会を、地域社会を実現しようとするのかが、文化に関わる文言で使い古された「心豊かな国民生活及び活力ある地域社会の実現」ではあまりに陳腐ではないでしょうか。社会からの要請は、「劇場音楽堂等」の社会的包摂機能なのです。フランスの「社会的排除と闘う1998年法」(反排除法)の第140条「教育・文化」にある社会的包摂社会を建設する「強い意志」を表現してほしいとまでもとは言わないまでも、所得格差が教育格差、福祉格差、医療格差、健康格差、そしていのちの格差や希望格差にまで社会的病理が進行している現代の日本にどのような処方箋を出すのかくらいの「意志」は欲しいところです。

法律はすべての国民市民を最終受益者と想定すべきと考えます。「実演芸術の振興」を目的とするなら、その受益者は芸術家と一部の愛好者と劇場音楽堂関係者にとどまってしまう。それでは業界内改革に過ぎないのではないでしょうか。昨年2月8日に閣議決定された第三次基本方針で、せっかく文化芸術の「社会包摂機能」を認知したのです。それは今法律の「前文」では展開されているものの、法律本文ではその展開がなされていないのです。すべての国民市民にとって有益な法律であってほしい、と思うのは私だけでしょうか。年内に第16条を根拠として文部科学大臣名で出される「劇場、音楽堂等の事業の活性化に関する指針」には、是非とも国民市民のための法律であるような文言が折り込まれることを願うばかりです。それが「ハコモノ」からの脱却の第一歩となり、劇場音楽堂等の使命に対する社会的合意の第一歩となると私は断言します

。8月6日の文化審議会第10期文化政策部会(第3回)の資料として提出された「最近の諸情勢に対応した文化政策の在り方について」(案)にある「文化芸術の力に関する認識の普及」の件にある「平時においても災害時においても、文化芸術が果たす重要な役割をフルに発揮できるようにするためには、各国民がその職業を問わず、文化芸術の力を正しく認識する必要がある。このためには、学校、家庭及び職場の全てにおいて、文化芸術を各人の日常生活の一部と位置づけられるような様々な措置を関係者が連携して講じていくべきである」という強い意志こそがいま必要なのではないか。この際の「文化芸術」が「創造・上演・鑑賞」という旧来の枠組みのそれではないことは言うまでもありません。