第129回 「教育普及」という言葉は使うべきではない。

2012年4月5日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

ワークショップやアウトリーチに対して「教育普及」という言葉で括ることが一般的である。しかし、この表記は実態を表していないばかりか、誤解と曲解の原因になっていることに私たちは気付くべきではないだろうか。そもそもが、文部省の外局として発足した文化庁が「教育」と「普及」という二つのミッションを貼りつないで造語したのかもしれません。たと えば、(財)地域創造の調査研究報告書(平成20・21年度)「新<アウトリーチのすすめ>?文化・芸術が地域に活力をもたらすために?」では、「教育普及」という用語は一般的な呼称としては使われていますが、重要な内容を指し示す言葉としては使われていません。私の記憶では、この用語を最初に劇場ホールの事業用語に使用したのは世田谷パブリックシアターでした。

確かに「教育」という言葉を使った部署として、英国の劇場には「エデュケーション部」や「アーツデベロップメント部」というものが存在しています。これは、1997年に労働党政権が成立してトニー・ブレアが首相に就任したときに「社会的排除対策室(social exclusion unit)」を設置したことと無縁ではありません。当時、多くの政策に社会的包摂に向けた対策を織り込む傾向が強くあり、それは英国芸術評議会による文化支援政策も例外ではありませんでした。そのため、文化芸術の社会的包摂機能によるコミュニティの健全化を企図する部署である「エデュケーション部」や「アーツデベロップメント部」が各劇場に設置されたのです。資金援助のための必置条件でした。芸術評議会から資金援助を受けるために重要な要件であったのは疑いのないところです。

むろん、「エデュケーション」は直訳すれば「教育」であり、「アーツデベロップメント」は「芸術開発」です。「アーツデベロップメント」が、「アーツによる観客開発」なのか「アーツによる地域進展」なのか訳語としては非常に曖昧ですが、犯罪や麻薬と関わった青少年の再チャレンジプログラムや高齢者社会における仲間づくりのプログラムなどを見るかぎり、英国の地域劇場の活動が後者であることは、間違いのないところです。2000年代に入ってから英国芸術評議会は「鑑賞者開発」というミッションを掲げましたが、そのあたりの経緯が「教育」と「普及」の混同という考え方のもととなったのではないかと推察します。

まず、「教育」と「普及」はまったく異なる目的と使命を持った言葉であり、これを「教育普及」と一語として使うと、「教え諭して、文化芸術を拡げる」という意味になります。とんでもない上からの目線の、ほとんど「集客」に近い鑑賞者開発となります。そもそも「教育」という日本語と「education」という英語にはまったく違ったニュアンスがあります。「教育」が「知識を教え諭す」という教師主体の意味合いあるのに対して、「education」には「可能性を引き出す」という意味で主体は子どもや学生です。知育と智育の差でしょうか。教師主体か、子ども主体か、の看過できない大きな差です。「教育普及」という言葉を耳にすると私はいささか不快になります。そして、「巻き込む」という言葉を思い浮かべます。「巻き込む」には巻き込まれる「客体」があるということで、「市民を巻き込む」、「ボランティアを巻き込む」、「行政を巻き込む」と使われます。「教育普及」には、アクティブ・オーディアンス(能動的な観客・積極的な観客)を開発するという発展型の意味合いは感じられません。私の思い過ごしかも知れませんが「お上意識」が滲んでいる用語です。アウトリーチが学校をはじめフリースクール、支援学級を含めた教育機関、高齢者福祉施設、独居高齢者、障害者福祉施設、終末期治療、長期入院児童を含めた医療機関、在留外国人の多文化施設にまで広がり、文化芸術の社会的包摂機能を社会に適用し始めている現在、「教育普及」は実態を映さないばかりか、まったく相応しくない誤った用語となっていると感じています。言いようのない違和感を感じます。

(財)地域創造の調査研究報告書(平成20・21年度)「新[アウトリーチのすすめ]?文化・芸術が地域に活力をもたらすために?」 には、「近年、アーティストを学校や福祉施設などに派遣してワークショップ型の事業を行うアウトリーチは、全国各地で定着してきました。これらは、公立文化施設の運営や文化・芸術の普及に大きな効果をもたらすとともに、アウトリーチ的な取り組みによって、教育や福祉、地域づくり等の分野で文化・芸術の新しい可能性を模索する動きも活発になっている」という報告がなされています。ここでも「文化・芸術の普及に大きな効果をもたらす」という機能が特筆されていますが、私はその機能はアウトリーチの副次的な産物であると考えています。コミュニティへのアウトリーチの基軸は、あくまでも文化芸術の「社会的包摂機能」を援用して、基本的人権を構成する文化を創造する権利、文化を享受する権利という、文化芸術振興基本法第二条第三項の「文化権」を担保するための活動と定義できます。あるいは、パブリック・ベネフィット(公益)を保障するための活動と定義できます。社会的に不利な立場にいる人々を社会的排除から守って、孤立させずに社会全体で包み込もうとする、「個」の人間としての尊厳を社会全体で守ろうとする社会的包摂活動の一環であると考えます。これが劇場ホールという社会機関が実施して現出してブランディング(社会的信頼)を推し進めるのです。その結果の副産物が鑑賞者開発となります。そう考える方が適切ではないでしょうか。そう考えると、アウトリーチが、単に学校に出かけるだけではない、高齢者福祉施設、独居高齢者、障害者福祉施設、終末期治療を含めた医療機関や在留外国人へのアプローチの手法として一本の線上に位置づけられるのではないでしょうか。あわせて、「セラピー」と峻別する「エリート意識」からもテイクオフ出来ます。

「ともかくもセラピーとは線引きしたい」という頑迷な考え方は、文化芸術による社会的包摂とは相容れない考え方です。セラピーの語源はギリシャ語の「THERAPON」(セラポン)で「悩みを共有する友」というくらいの意味です。アウトリーチやワークショップは、参加者に「寄り添う」ことが基本となる活動です。それを社会機関たる劇場ホールが実施するのか、それとも医療機関で行われるのかの差でしかなく、その成果は何処で行われても相似形なのです。セラピーは、日本語訳では「薬や手術を伴わない治療」、「療法」となっていますが、原意はまったく違っているのです。この頑なな「峻別」には何か他意があるように私には感じられます。アウトリーチやワークショップは「ものの見方」や「感じ方」や「価値観」を変化させることを成果とします。「セラピー」も「癒し」も同じです。したがって私は、「セラピー」と「アウトリーチ・ワークショップ」を力づくでも峻別しようとする意志には合意できないのです。「悩みを共有する友」、「寄り添う」はともにアウトリーチやワークショップのファシリテーターの基本的な心構えではないでしょうか。

アーティストのみならず福祉の現場に近いところからも同様の「峻別」の考え方が語られています。エイブル・アート・ジャパンの代表の太田好泰氏は、「新<アウトリーチのすすめ>?文化・芸術が地域に活力をもたらすために?」 で「ここで注意したいことは、作業療法士などが行う<療法>や<セラピー>とのちがいを整理し役割分担をする必要があるということだ」、「公共ホールが行うアウトリーチは、療法としての治療的・福祉的<効果>や<成果>とは距離をとる必要があると思う」と述べている。続けて「効果がはっきりしているプログラムの方が、受け入れ側(福祉施設側)の理解を得やすいことは言うまでもないが、それでは施設内での関係性に変化が生じることは期待できない」と述べています。これは、施設内の関係性が変化しない手法で作業療法士のワークショップを位置づけているという現状を語っているに過ぎない。施設の側の意識と仕組みの設計の仕方に問題があるのではないだろうか。あるいは、「ケアされる側」と「ケアする側」と考える太田氏や施設サイドの意識の問題なのではないか。ワークショップもセラピーも、参加する人とファシリテイトする人、またそれを見守る人たちの人間の関係の「変化」(トランジッション)が成果と言えます。セラピーは施設内の職員に影響を与えないと言うが、それは「手法」と「意識」の問題であって、施設へのアウトリーチとセラピーを峻別する根拠とはならないと考えます。

ここでは、むしろ「アウトリーチという用語には、文化施設から外に出て地域や住民にサービスを提供するという<一方通行的な>イメージが強い。また、恵まれた地域からそうではない地域へ、というニュアンスもあることから、海外では<エデュケーション・プログラム><コミュニティ・プログラム>という用語を用いる傾向も強まっている」という「新<アウトリーチのすすめ>?文化・芸術が地域に活力をもたらすために?」の指摘に着目したい。ただ、先述したように「エデュケーション・プログラム」を直訳で「教育プログラム」とすると、参加者のポテンシャルを引き出すという意がすっぽりと抜け落ちてしまう。したがって「コミュニティ・プログラム」という用語は私も使うことがありますが、その基本的な姿勢と目指すべきミッションから言えば「ソーシャル・プログラム」の方が最適な用語ではないでしょうか。アウトリーチやワークショップの社会的なコミットメントとしては「社会的包摂」であり、「教育普及」では決してない。「教育普及」という上から目線の造語はかなり酷いですが、「教育」と「普及」を社会にコミットすることの意味さえも私には理解できないのです。「教育普及」という用語は、日本の劇場ホールにおける「公益性」の、「パブリック・ベネフィット」(社会厚生的・社会福祉的公益)と「パブリック・インタレスト」(経済合理的・経済波及的利益)との混同と混乱によって造られた言葉と断じざるを得ない。劇場ホールという社会機関における「公益性」が、前者であることは言うまでもない。