第132回 「賑わい」をつくりだすのは何か  可児市統計資料を見て思う 

2012年5月19日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

市民の意識調査統計を参考にして「可児市民像」のおおよそを描いて制度設計や事業計画という劇場経営のディテールを考える習慣は、非常勤として就任した2008年から毎年折に触れてやっていまするところが、先日、今年アップされた統計資料の「文化創造センターの利用状況」のタブを開いて驚きました。暦年統計なのですが、具体数をカウントできる施設利用者が、私が就任する前年の2007年の225,263人から昨年(2011年)には314,069人と、5年間で88,806人も増加しているのです。毎年、約18,000人ずつ来館者が増加していることになります。

昨年と一昨年の統計では施設利用者が30万には少し届いていなかったので少々驚きました。この数字には、お弁当をつくってピクニック気分で遊びに来る人たちやDVDやパソコンや読書を楽しみに来る方々や勉強に来ている中高生、それに「アーラまち元気プロジェクト」に参加した人たちはカウントされていません。公式にはカウントできない来館者をおよそ57,000人と考えているので、可児市文化創造センターalaの「賑わい」をつくっている来館者総数は、およそ370,000人にも達しています。人口101,500人の町ですから市民一人が年間3.7回もアーラに足を運んでくださっていることになります。どなたが視察にいらしても、その「賑わい」には肝をつぶしています。どういう要素がそのような「賑わい」を生み出しているのかを改めて考えてみました。

まず考えられるのが、劇場建築の設計思想ではないでしょうか。建築家の伊東豊雄氏が「ホールに人が来ないのには建築家の責任もある」という意味の発言をしていたと記憶していますが、人を寄せ付けない、いかにも「芸術の殿堂」と言わんばかりの設計の施されている劇場ホールは非常に多くあります。そういう劇場に限って、人っ子一人おらず閑散としています。旧知の英国の演出家であるゲイル・マッキンタイア女史を新国立劇場に案内した時、彼女の口から出た最初の言葉が「エンプティ!」(空っぽね)でした。あきらかに「建築家の責任」です。それを認め許した「行政の責任」でもあります。可児市文化創造センターalaは、設計思想に「コミュニケーション」を重視した考え方を反映させる香山壽夫氏による設計で、その意味では氏の代表的な作品なのではないかと思っています。町から地続きのような、いわば町に開かれている明るい空間であり、多くの人々の動線が、集い、さらに行き交うように見事に設計されています。この要素は「賑わい」をつくるうえで非常に大きいのですが、そのような設計でないから「賑わい」をつくれないということは決してありません。私はそう信じます。ならば、「賑わい」を創出するためにはどのような要素が必要なのか。

「賑わい」に重要な役割を果たす要素は「ホスピタリティ」です。市民が「歓迎されている」と感じる雰囲気です。「ホスピタリティ」は人間的な資質に係る概念です。「相手を思い遣る」、「相手を気遣う」、「相手に心を配る」といった、脳科学的に言えば前頭連合野の発達した人間に備わっている想像力と創造力を駆使して他者に対する適正な行動を選択できる資質のことです。for somebody(誰々のために)が「ホスピタリティ」であり、サービスはto somebody(誰々に対して)に過ぎないのです。この僅かな差が「歓迎されている」という気持ちを心に生じさせます。そういう雰囲気で劇場を包み込むことが大切なのです。その為に、まずは職員には接遇態度をしっかりと教育することです。まずは挨拶を相手にきちんと掛けられるか、です。当然そうしているかのように思っていますが、実のところは「儀礼としての挨拶」しかしていないのが通常です。挨拶は「貴方に関心を持っています」という最初のメッセージです。このメッセージがしっかりと伝わらなければ、その先をどれだけ懇切丁寧に対応しても中身は空虚なものになってしまいます。「劇場はサービス業」と私は良く口にしますが、より正確に言えば「劇場はホスピタリティ業」なのです。入場料を支払っていない来館者も、私たちには劇場設置と運営のための資金の「拠出者」であり、歓迎されてしかるべき方々なのです。電話の対応も同じことです。

そうであるのに、「何々をしないでください」という貼紙でお客様の行動に制約を加えるのは愚の骨頂、思い違いと勘違いが甚だしいと言わざるを得ません。私は、地域に出てから25年間で公立劇場を500館程度は見ていますが、貼紙の多さと来館者の数は反比例します。貼紙が多いほど、その劇場ホールは閑散としています。禁止事項の貼紙を見て気持ちの良い人間などは一人もいません。私が就任して2年目にこんなことがありました。二階に設置しているテーブルに刃物で書いた悪戯書きがあったのです。総務課職員が「今後は警察に通報します」というカードを全部の机に立てたようです。私は朝一番で劇場に出ますから、それをすぐに全部撤去して総務を叱りつけました。むろん落書きをしたことは悪い。やったのはそこで勉強をしている中高校生の一人であることは間違いがありません。ただ、それは1000人に1人、あるいは10000人に1人でしかなく、そのために残りの中高校生に不快な思いをさせることは「まかりならぬ」ということです。アーラに来る人々は、外の世界で精一杯に羽ばたいてきた羽根をちょっと休めに、あるいは伸び伸びと心をリラックスさせるために来ているのであって、その気持ちのすべてを受け止めることが、受け容れることが、私たちの「最初の仕事」であると思っています。劇場は、何があったとしても「心の解放区」でなければなりません。

また、こんなこともありました。一昨年あたりからホームレスめいた男性が出入りしているのです。髪が伸び放題で、煮しめたような服を着ています。関心を持って注意していましたが、他の人たちに危害を加えたり、暴言を吐いたりはしないし、少し体臭がにおうのですが、来館者からのクレームもありません。危害を加えるようなら、事務所には刺股を常備しているし、私の個人持ち木刀も用意しているので命を張っても排除するのですが、いまのところ追い出すつもりはありません。彼も、来館者の多い週末を避けて人気少ない月曜日や水曜日に来ているようです。持参した本を読んだり、コンビニで買ったのだろう菓子パンを食べたりしています。いまのところ注意深く見守っていますが、問題はない状態です。外見で人間を差別する行為は決して文化的とは言えません。警備の係にもそう伝えてあります。             

私たちは、まず貼紙を剥がすことから始めなければなりません。貼紙は私たちと市民とのあいだにバリアをつくることだと心しなければなりません。貼紙をすることで、私たちはお金では買えないものを山ほど失ってしまうことに気付かなければなりません。一度失ったらお金では買い戻せないものがあることを知らなければなりません。普通、「事故があるといけないから」と役所からの派遣職員は思います。職歴に傷がつくから、いきおい保守的になるのですが、事故があったら責任をとれば良いだけのことです。貼紙をすることでリスクから逃れられると思うことが間違っているのです。リスク・テイクをすることが劇場ホールを居心地の良い場所にするのです。リスクは軽減できません。リスク・マネジメントはリスクを軽減することを意味しません。リスク・テイクをしても経営をスムーズに運べるか否かの意思決定をすることがリスク・マネジメントです。再度言います。リスクは軽減できませんし、リスクをなくすことはできません。経営とは、まさしくリスクをとることなのです。

次に考えられるのが「ステータスとしての劇場」です。「ステータスとしての劇場」とは、「自尊」の気持ちが醸成される場でなければならない、ということです。むろん、大前提としては良質な舞台の提供があります。そのためにはカンパニーやプロモーターと喧嘩も辞さずの心構えが必要になってきます。事実、私は、ほっておいても多くの観客が入るだろう二つの有名カンパニーを、アーラへの「出入り禁止」にしました。市民や顧客、さらには税金の拠出者に対しては、そのくらいの責務が私たちにあるということです。クォリティを決して落とさない、は大前提です。期待値を上回る、ということが「ステータスとしての劇場」を創りだす第一歩になるのです。

むろん、これは舞台の水準のみならず、ワークショップ、アウトリーチなどのソーシャル・プログラムにしても同様です。劇場の外に「出前する」という意識でのアウトリーチは論外です。たとえばアウトリーチの受益者は「五人」います。アーチストあるいはコミュニティ・アーツワーカー、直接の参加者または体験者、それを見守り、その成果や変化に共感する施設関係者・教師あるいは保護者、さらに随行して進行を担当する劇場関係者、最後にそのプログラムの成果や意味を広く市民に伝えるマスコミ関係者の「五人」です。この「五人」の受益の仕組みをどのように設計するかが、そのプログラムの質と成果を決定します。それが「ステータス」を決めます。その「劇場としてのステータス」がブランディング活動となります。逆に言えば、ブランド=社会的信頼こそが「ステータスとしての劇場」を現実のものとするのです。

37万を超える来館者があって、市民一人が年間3.7回アーラに足を運んでいても、「一度も行ったことのない市民がいるので何とかすべき」とよく言われます。むろん、劇場はすべての人間に開かれている「イコール・アクセス」の場所であるべきと思います。しかし、一方では、市民のすべてがアーラにアクセスして、なおかつ礼賛するのは健全ではない、とも思います。「ワシはアーラには行かない」という芸術とは無縁の市民の年老いた母親が、施設で新日本フィルの演奏を聴いて「生きていて良かった、もっと生きよう」と思えば、アーラに来ない市民も間接的な受益者になる、と私は考えます。アーラで受験勉強をしていた中高校生が志望校に合格出来れば、そのご両親も間接的な受益者になると思います。

その拡がりを考えれば、私たちの最後に残った仕事は、独居で孤立した高齢者とアーラの関係づくりではないかと漠と思います。そのために昨年から「お元気ですかチケット」を導入しました。電話で予約していただければ職員がご自宅までチケットをお届けして、「お変わりありませんか」のお声掛けをするチケットです。これも、それだけでは不十分で、デマンドタクシーや相乗りタクシーで、廉価でのアーラへの足の確保が必要です。これは市役所の仕事ですが、私の中には3年前から「愛乗り(あいのり)タクシー」の構想があります。「賑わい」の次に来る課題は「イコール・アクセス」です。