第93回  アウトリーチは、ソーシャルマーケティングである。

2010年8月30日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

可児の朝夕は涼しくなってきました。朝夕は汗ばむこともなくなりました。空気がサラリとしています。アーラの水と緑の広場には沢山の赤とんぼが飛び始めています。猛暑だった今年の夏の終わりが見えてきました。秋の気配を体感できるようになってきて、少しほっとしています。

先日は、うだるような暑さの中、しかも東可児中学校の蒸し風呂のような体育館で、桜ケ丘地区の小中学校、幼稚園の先生方対象のワークショップを行いました。講師は、今年度の岸田國士戯曲賞受賞者の柴幸男さん。前半は、学期始めに楽しみながら友達づくりのできるコミュニケーション・ゲームをやりながら、柴さんが、思春期の反抗的な中学生の場合にはこういうやり方でやったら比較的スムーズにいく、とアドバイスをゲームの途中や終わりに織り込んでいました。後半は、「演じる」ということを楽しみながら体感するシアター・ゲームでした。参加者の皆さんからは、「授業で使える」とか「自分の授業にはコミュニケーションという双方向性が欠けていた」などの意見が寄せられました。

その少し前には、黒田百合さんとTen Seeds(テンシーズ)による平牧公民館での親子による『遊びの達人』と題されたゲームによるコミュニケーション・ワークショップ、さらにその午後にはアーラでの「ワークショップリーダー養成講座」。そこでは国語、算数、社会の教科書を使ったエデュケーショナル・ワークショップが行われました。9月1日、2日には、文学座の南一恵さんが、老人福祉センター「可児川苑」、在宅介護支援センターの「春里苑」、「サンビュー可児」、それにお元気な高齢者が料理などを持ち寄って民家に集まる「宅老所」での朗読会を催しします。南さんと可児の高齢者との交流は、もう3年間続いています。高齢者の方々は、毎年訪れる南さんの温かい朗読を楽しみにしています。アーラでは、おもに春と秋のシーズンには、毎週3本から6本のワークショップやアウトリーチや朗読会、付属のアーラ・ユースシアターのレッスン、在可児外国人たちの「多文化共生プロジェクト」の稽古などが行われています。

(財)地域創造から『新「アウトリーチのすすめ ― 文化・芸術が地域に活力をもたらすために』という報告書が出ました。「これからのアウトリーチをより確かなものとするために」というマニュアルが後半に掲載されていて、ハンドブックとしてアウトリーチを進める上で便利なものとなっています。サンプル数が974施設で、アウトリーチ実施館が251で25.9%という数値も興味深いものです。「アウトリーチ」という言葉が巷間言われるようになって10年前後を経て、この数値をどう評価するか、ではないでしょうか。私は、決して低い数値ではない、と評価します。ただ、問題はそのプログラムの質ではないでしょうか。

この「報告書」にも、「各地で取り組みが増えた一方で、単に《アーティストを派遣する》という手法のみが先行した形式的なアウトリーチに留まっているケースも少なくない」と「形骸化の危惧」という小見出しの箇所の囲み記事に書かれています。私は、「少なくない」どころではないと実感しています。アウトリーチは、文化芸術のもつ「他者への信頼性」、「コミュニケーションの双方向性」、「共感性と共創性」、「自己肯定感」などを梃子にして、派遣先の各種機関や地域社会の抱える課題の解決に寄与することがミッションであるのは言うまでもありません。アウトリーチとは、「ソーシャルマーケティング」であるという意識や理論が、日本のそれにはまったく欠落しているのです。「ソーシャルマーケティング」であるということは、双方向の関わり合いの中から「新しい価値」を生みだしたり、見出したりする仕組みを持った働き掛けであるということです。

仮に「音楽を届ける」にしても、それによって何をなそうとしているのか、どのような問題解決を目指しているのかというミッションを、アーティスト、各種機関、公共文化施設(あるいは行政機関)の三者で共有していなければなりません。その共有がなければ、事後評価(振り返り)はとうてい出来ません。このPDCA(計画・実施・評価・改善)の流れが、日本のアウトリーチにはあまり見受けられないのです。それは、ソーシャルマーケティングの視点を脱落させたまま、言葉だけが移入されたからにほかありません。

日本の文化芸術の世界に90年代に入ってきた「アーツマネジメント」、「ワークショップ」、「アウトリーチ」という言葉は、言葉だけが先行し、一人歩きしていて、それぞれの内実はかなり寒々しいと言えます。ある劇団制作者が、碌に勉強もしないで、いつの間にか「アートマネージャー」と名乗っていたという出来事がありました。仕事は以前と少しも変わっていません。変わっていないばかりか、「アートマネジメントは、つまるところアーチストマネジメントだ」などと訳のわからない言動をし始める始末でした。「軽佻浮薄」、外来語に対する脇の甘さは、無邪気というか、無知というか、哀しくなるほど「軽い」のです。北海道の「識者」であったさる大学教授が、道内の公共ホール職員の研修を何年か継続していて、「最近ではようやく企画をすることができるようになった、アートマネジメントが定着してきている」と私の前で言い放ったのには、呆れたというより、怒りさえを感じました。アーツマネジメントは「芸術経営」であり、「企画立案」は微細な「部分」でしかありません。「アウトリーチ」もそうならないように、しっかりと事業設計することから始めなければと思っています。ソーシャルマーケティングであることは決して忘れないこと、ではないでしょうか。