第86回 年々息苦しくなっていく日本の社会に処方箋はあるか。 

2010年5月24日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

「今春、就職先が決まらずに大学や高校などを卒業した若者は推定8万人」(朝日新聞 5月22日付)。この三月に高校、大学などを卒業して、就職のできなかった若者が8万人もいるという。この数字を見て将来の日本社会の危機を私は強く感じました。「就職氷河期」などと表面的な論評をするマスコミがほとんどですが、本当にその程度の危機感で事足れるのでしょうか。私には日本の社会がどんどんと劣化していく予兆だとしか思えないのです。もしかすると、もう手遅れかもしれないのです。私はこの数字に強い危機感を感じます。

「労働力調査」(総務省統計局)によると、この三月段階での若年層の完全失業率は、15歳から24歳で11.9%、25歳から34歳で6.4%となり、全体の5.3%をいずれも大きく上回っています。この数字は、社会の劣化が始まる、あるいは始まっていると考えるべき値です。リーマンショックから来る景気の低迷によるもの、などと言っていられない事態だと思います。これに、雇用を維持するために国が給付している雇用調整助成金による「隠れ失業者」と、求職をあきらめて就職活動をしていない若者をカウントすると、それぞれ15%、10%を超えると推測できます。これも本当に恐ろしい数値です。「一人で就活を続けるのはつらい」、「正社員になれないと将来が不安だ」(朝日新聞記事より)という内向する声が、社会に向かうのにはそれほど時間を必要としません。自分は社会から必要とされていない、という内向する気持ちが、社会への失望感や敵愾心になる転化する可能性は非常に高いと私は考えます。

厚生労働省の「労働経済白書」(2004年版)によれば、1996年に約100万人だったフリーターが、8年間で倍以上の約214万人になっています。現時点で教育も職業訓練も受けておらず、就労もしていない35歳未満のニートは64万人と報告されています。経年の増加率で推測すると、フリーターは400万人を超えており(内閣府のデータでは417万人)、ニートも「就業構造基本調査」の推定によると100万人を超えていると言われています。また、フリーター、ニートともに、35歳以上の高年齢化が看過できないものとなっています。私が「もう手遅れかもしれない」というのは、そのことを指しています。もっと早期に政治が手を打たなければならなかった深刻な社会問題なのです。

時代とともに価値観が変化して「多様な働き方が求められている」とか、「働き方の選択肢は拡げるべき」というのが、労働者派遣法を改正するときの当時の政府幹部の発言でしたが、「中小企業白書」によれば男性フリーターの90.9%が定職に就くことを希望しており、全体でも78.8%が定職を求めています。先の発言はまったくの方便に過ぎません。言い繕いであり、的外れであり、当時の政府見解は誤魔化しだったと言わざるをえません。問題は、なぜ「誤魔化しの答弁」をしなければならなかったかの背景です。これが、実は冒頭の「就職先が決まらずに大学や高校などを卒業した若者は推定8万人」にも共通する、日本社会の現代の病根なのだと私は考えています。サッチャー政権下で若年労働者の失業率が13・1%になった状況といまの日本の社会は酷似しています。あるいはそれ以上かも知れません。「構造改革」と称して「痛みに耐えろ」と国民にはメッセージが送られましたが、「改革」は必ずしも社会を良くし、国民の生活を良くするものではないことが現況を見るとはっきり分かります。世の中を悪くする「改革」もあるのです。 国民は、痛みに耐えれば、きっと生活が良くなると信じ込まされたわけです。

「相対的所得仮説」という学説があります。「絶対的所得仮説」は、貧困層に病気が多く死亡率が高いことを指す昔からよく知られていた考え方です。貧困層では、食物が充分に摂取できず、また偏りがあって、衛生状態も悪くて病気にかかりやすく、いったん病気に罹患すると医療利用の機会が充分ではないことで死亡率が高いとする説です。しかし、近年、ハーバート大学の日系研究者 Ichiro Kawachi博士は、公衆衛生学に「社会疫学」という学際的な分野を提起して「相対的所得仮説」を唱えています。それによると、「先進国においては、他の人と比べた相対的な所得レベルが低いことも、不健康をもたらす」というのです。それにとどまらずに、全米各州を調査した結果、所得格差が殺人事件の発生率に相関性を持っていることも分かってきました。12年連続して年間3万人を超える日本の自殺者の背景にも、所得格差や社会の階級化現象、未就労などの「社会的排除」があるとされています。

私が新卒者の未就職率の高さや、若年層のフリーターやニートの量的な拡大傾向に危機感を持つのはこの点においてです。所得格差が殺人事件の発生率に相関性を持つのは、先に述べたように、彼らの「世界」への失望感や「必要とされていない」と感じることからくる漠然とした社会への敵愾心からだと私は感じています。近年になって多く起きている「動機が理解不能」な通り魔的な殺傷事件はそれを物語ってあまりあります。また、所得格差が健康に悪影響を与えるとすれば、今後は医療費という社会的費用の増大と公的医療保険制度の今以上の逼迫が予想されます。

そして、この事態を招いたのは、経済発展を第一とする政治や社会にあると私は考えています。サッカー・ワールドカップの暴力的なサポーターである英国のフーリガンを、行き場のない社会への憤懣を爆発させた現象、と評する識者もいるくらいです。「コンクリートから人へ」は最近の基本政策のようですが、本来なら「人間を踏み潰してまでの経済発展至上主義から、体温のある人間中心の社会へ」ではないでしょうか。あくまでも「人間」をど真ん中に据えて、政治は考えられるべきです。社会はかたちづくられるべきです。

たとえば、近年保守政治家や企業人からたびたび発言のある、日本の法人税は諸外国と比較して高いから低税率にすべきとの論旨が正当性を持つためには、社会保険の事業主負担割合が日本はフランスのおよそ3分の1である、ということが合わせて語られなければ「木を見て森を見ない(見せない)」の類です。70年代からここ30年のあいだに、社会保険の家計負担が増加の一途を辿っているのとは比例して、事業主負担が減り続けてきていることに頬被りして法人税率のことばかりを強調するのはフェアではありません。

あわせて「消費税を上げなければ少子高齢化社会の社会保険を賄えない」という論議も、社会保険の事業主負担が先進諸国と比較して低率傾向にあることをあわせて語るべきだと思います。「応益負担」の制度から、所得再配分の「応能負担」の国にもう一度もどすべきなのです。それではグローバル経済の中で企業経営が成り立たなくなる、と言いますが、そのように外需中心の産業構造に「構造改革」したのは誰なのか、と私は問いたいのです。企業に社会保険負担のない派遣労働者を多くすることを容易にできる労働者派遣法を改正して、企業の人件費の負担軽減に一瀉千里に走ったのは誰なのか、と私は問いたいのです。「グローバル経済」とか「グローバル・スタンダード」と言えば、人間を人間扱いしなくても許される社会風潮は、どこかが狂っていませんか。

私たち日本人は、とめどもなく螺旋状に落下する無間地獄の深みにはまってしまっているかのようです。ここから抜け出すのは、いくら楽天家の私でも不可能ではないかとさえ思えます。前回の「館長エッセイ」に書いたように、GDPの伸びが国民に還元されないならば、そのような社会の構造を改めることから始めなければなりません。あるいは「GDP幻想」を捨て去ることです。そして、将来的な社会不安を取り除くために、就職のかなわなかった若者や、フリーター、ニートに「誰かに必要とされている体験」の機会を提供することです。

ともかくも、いま傷から流れている出血を、傷が大きくならないうちにただちに止血することではないでしょうか。たとえば、サッチャー政権下で大量に発生した若年層の失業者向けに、コミュニティ・アーツワーカー(アーチスト)と教育専門家と行政関係者が一体となって彼らとともに作品創造をして「支え合う仲間をつくる機会」を設けることをしました。このような施策を、内閣府や厚生労働省が音頭をとって始めるのも一策です。「必要とされる人間関係」を生み出すのです。文化芸術は、人々の心の交流に強い力を発揮する行動様式です。他者との関係づくりに最適なツールです。「またもや芸術道具主義者が」という批判が芸術至上主義者から聞えてきそうですが、事態は緊急を要すると私は思っています。手遅れかもしれない事態なのです。将来的に社会への絶望感からくる怨嗟の声が渦巻く社会不安が、すぐそこにまで来ているのです。

少なくとも、パブリックな劇場やホールは、知恵と技術と人脈を総動員して事に当たるべきだ、と私は考えます。地域には「芸術の殿堂」は要りません。まさしく「人間の家」があれば良いのです。文化芸術には政策や制度をつくる力はありません。しかし、制度などによって起こる社会的な歪みに対処することはできます。そういう「知」や「力」を持って社会と向きあってきたから、文化芸術は悠久の時を生きながらえてきたのだと、私は信じてやみません。