第81回 下北沢素描  私が子どもだったころ。

2010年4月7日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

文化経済学会<日本>の理事会に列席するために東京に戻りました。長い会議が終わり、会場になった新宿・芸能花伝舎(廃校になった小学校を事務所・稽古場に転用した施設)から東京の自宅のある下北沢に戻って夜道を歩いていたら、赤い椿の花がボトリという感じで道に落ちていました。夜道に映える鮮やかな赤でした。ふっと子どものころの記憶が戻ってきました。私が生まれ育って、今も自宅としている家の前は女学校です。成徳学園といって、いまでは女子高バレーの強豪校となっています。この学校の塀沿いには、かつては色とりどりの椿の木が植えられていました。ボタリボタリと春が近くなると椿の花が塀の外の道路に落ちていました。辺りが赤く染まったかのように、椿の花が敷き詰められていた記憶があります。いまでは学校の経営者が変わり、椿は伐採されてしまいました。

椿の花は盛りのときにプツンと枝から離れて落花します。あんな生き方ができるといいなと思っています。盛りのときにカットアウトです。枯れないで終わるだけに理想的です。白い椿の花は枝についているときに錆色が出て汚くなります。あれはいただけません。やはり椿は赤に極まります。武士(もののふ)の生きざまを思わせて、落花した椿を見るとその潔さに感動さえ覚えます。「夭折」(若くして死ぬ)という、私にはもう縁のない言葉を思い起こさせます。

そういえば、下北沢というまちは、かつては屋敷桜とバラの生け垣の多いところでした。一抱え以上もあるような古木の桜が道路に枝を張り出して、その下はまさに桜花に覆いかぶさられたトンネルのようになります。綺麗ではあるのですが、どこか不自然な、とくに夜は不吉な感じさえありました。魔物が宿っているのではないかと、子どものころには思いました。夜桜の下を走って帰って、寝付かれない夜があったことを思い出します。夜桜は本当に「夜」が化粧をして佇んでいるように見えませんか。「異形」とか「非日常」とかいう言葉がぴったりの光景です。下北沢には明治大正期からの古いお屋敷がたくさんありました。昔は相当な田舎、良く言えば田園地帯でしたので、下町の大店の主人や隠居の別邸だったのではないでしょうか。そこには決まって桜の古木が、威張りくさったように道に枝を張り出して、幅を利かせていました。

やがて道を花びらで染めて葉桜となると、無数の毛虫が枝々を覆い始めます。ちょっと油断すると襟元に毛虫が落ちてきました。何故なんでしょうか、最近の桜には毛虫がいないように思えます。手入れがされているからでしょうか。私が子どもだったころは、桜に毛虫はつきものでした。小学校の桜には五月を過ぎると近寄らなかったのを思い出します。

下北沢は、春になるとバラの生け垣が綺麗なまちでもありました。小さなバラの生け垣の家が多かったのですが、結構大輪のバラの生け垣をしつらえているお宅もありました。ちょっと小洒落た洋風の家で、若いご夫婦と小さな子供のいる家が多かったように思います。そんな生け垣の下の土盛りの部分に桜草を這わせて咲かせている家もありました。桜の古木のある家とははっきりと違う「人種」が住んでいました。こういう家は、生け垣の花を通して家の中が窺えるようになっていました。不用心だったと言えばそれまでですが、その頃は、我が家のように雑駁な「シモキタ原住民」が住むところも、塀の外から内に向かって声をかけられる構造になっていました。昭和三十年代の頃の下北沢です。

まだコミュニティがしっかりとあった頃です。「ちょっと出かけるから、お婆ちゃん、見ていてねぇ」と声をかけられた子どもの私たちは、裏路地で遊び呆けながらも、抜き板を打ち付けた塀の外から、寝たきりになった近所の婆ちゃんに「婆ちゃん、大丈夫」と声をかけたりしていました。100メートルは離れている家に電話の取り次ぎに走らされた時代です。テレビが入ると、夕食後にその家に一家で行ってテレビに見入っていた時代でした。その頃の下北沢には、「互助」という言葉がまだ息づいていたのでした。私の住んでいた辺りは、昼から三味線の音が聴こえるような、有名文化人の「オメカケサン」が住んでいる下町気分のまちでしたから、余計に「互助」というコミュニティがしっかりとあったのかもしれません。

焼け跡が土台を残してまだ少し残っていました。当時の私たち子供のあいだでは「原っぱ」と呼んでいました。雑草がぼうぼうと生え茂っていて、まさに「原っぱ」でした。エシャロットをうんと小ぶりにしたような野蒜(のびる)を沢山採って、家に持ち帰り、味噌和えで晩のおかずにしたこともありました。原っぱは、子どもたちの想像力が果てしなくふくらむ「王国」でした。冒険心と想像力でどんな遊びでも編み出していました。台風の日には、あちこちから廃材や段ボールや茣蓙を持ち寄って、自分たちの「家」をつくりました。何をしたという記憶はないのですが、大風の中で身を寄せ合って、息をひそめているのが、「僕たちの冒険」だったのでしょう。

原っぱでは、捨て犬や捨て猫の赤ん坊をみんなで飼っていたこともあります。紙の箱の中に草を敷き詰めて、餌はベビーギャングどもが家からそっと持ち寄って育てていました。ほとんどの場合は、子犬と子猫は目が開かない前に死んで、原っぱに彼らの墓をつくって「僕たちの冒険」は終わりました。

そういえば、最近、我が家に「通いネコ」が来ていました。私と妻はたまに下北沢の家に戻るのですが、明かりがつくのをどこからか見ているのでしょう、スゥーとその「通いネコ」はやってきました。「通いネコ」といっても、家の中をのぞいて「ニャー、ニャー」と鳴くだけで、餌を敷居のところに置いてやると、器用に手で外に落として食べていました。かまぼこがお気に入りでした。それも小田原の「鈴廣」の高級かまぼこが大層お気に入りでした。贅沢な野良猫だなぁ、と思っていました。私たち夫婦は彼女(仕草からメスと推定していました)に「あんこ」という名を付けました。「プカプカ」という70年代フォークに出てくる「俺のあんこは タバコが好きで いつもプカプカプカ」の「あんこ」です。ある時私が近くの商店街を歩いているとき、私の家とは反対側から車の前を一瞬で横切ったネコがいました。「あんこ」でした。

我が家では、子どものころから数えると数十匹の猫と八匹の犬を飼っていました。ですから、ネコが何軒かの家を掛け持ちで「飼いネコ」になって、家々で違った名前で呼ばれても「ニャー」と鳴いて見せる離れ業くらい軽くこなして見せることは知っていました。「あんこ」もどこかの飼い猫だったのでしょう。まさに「プカプカ」の「あんこ」の面目躍如です。

しばらくして、お腹が横にどんどん大きくなっていることに気付きました。妊娠していたのです。「あんこ」は生む場所を品定めでもしているように、我が家の中に入ってくるようになっていました。ある時、私の書斎に入っていた「あんこ」に驚いた妻が、大声を出して追い出したことがあったようです。妻に言わせると、そのがっかりして肩を落とした後ろ姿がたいそう哀れだったそうです。「あんこ」は我が家に来なくなりました。妻はそれを気にして「どうしたら良いだろうか」と電話で私に尋ねてきました。「段ボールに古いタオルを敷いて、あんこの臭いのするものをいれておいたら」とアドバイスしました。しかし、「あんこ」は、それ以来、一度も顔を出さなくなりました。たまに仕事で東京に戻って、家に明かりをつけてから「チュッチュッチュッ」と呼んでみるのですが、影もかたちも現れません。だから軒下の段ボールの産床はそのままになっています。下北沢にいまでも野良猫がいることには、少しほっとしています。私が子どもだったころは、野良猫と野良犬だらけだったのですが。