第8回 震災で思い出したこと。

2007年7月22日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

 7月16日午前10時13分、上越、中越地方で震度六強の地震が発生したことは皆さんもご存知のとおりです。その日の夜に長岡に入って、翌日に長岡リリックホールで打ち合わせをすることになっていただけにいささか驚きました。驚いたと同時に13年前になる阪神淡路大震災のときのことが思い起こされました。

 1995年1月17日午前5時46分にマグニチュード7.3の揺れが阪神淡路地方を襲いました。その日の早朝、ふと目覚めてテレビのスイッチを入れた私の目に飛び込んできたのは、ヘリコプターからのただならぬ映像でした。にわかには何が起こっているのか理解できませんでした。ただ、いたるところから黒煙が立ち昇っている映像に、何かとてつもないことが起きたのだということだけは認識できました。そのときから、私とその震災地との4年間の付き合いが始まるのです。47歳の誕生日を10日後に控えた朝のことでした。

 私は8時間にもわたる青山学院大学で行われたボランティア派遣の講座を受けて、2月中旬に救援物資の受け入れと配布のセンター機能を果たしていた芦屋の教会に入りました。私たちはボランティア・リーダーから「救援物資はあくまでもコミュニケーション・ツールで、ともかく被災者の皆さんに声かけをしてください」と指示されました。そのことで被災のストレスを吐き出してもらうことがボランティアの使命であると教えられました。これはちょっと目からうろこでした。この「目からうろこ」が、その後の私の活動の原点となります。

 本当に被災者の皆さんからいろいろな話を聞きました。妹が亡くなって、無傷で助かることができたお姉ちゃんに辛く当たる言葉も聞かなければなりません。一日の終わりには、今度は私たちボランティアがストレスを吐き出すミーティングが必ず開かれます。

 いろいろな救援物資がありました。それを配るだけのボランティアでしたが、その一つひとつに被災者の方々のさまざまな安堵する表情もありました。笑顔や泣き顔もありました。私は皆さんから自分という存在の生きている意味を教えていただきました。前回、ボランティアは「私」からしか始まらない、と書いたのはこのときの実感なのです。

 私は、これなら演劇でもできる、と感じ始めていました。そして、3月になって神戸の中心部である三ノ宮と新開地に歩いて入りました。当時、JRは三ノ宮の三駅手前の住吉駅までしか復旧していませんでした。歩いている私の目にまず飛び込んできたのは横倒しになった阪神高速道路でした。この世の光景ではありませんでした。三ノ宮ではさまざまな角度で傾いてもたれあっているようなビル群に平衡感覚がおかしくなるのを感じました。「サラエボ状態」の光景でした。それから新開地まで歩いて旧知の友人に「神戸シアターワークス」の立ち上げを相談したのです。

 被災した子ども達の心のケアと避難所の人々のコミュニティづくりのために「演劇的手法」を使うことを提案しました。それから約1年間はいろいろな人たちに会って神戸シアターワークスの提案と組織づくりに歩きました。東京と関西の演劇人の多くは動きませんでした。いや、動けなかったと言った方が正確です。「演劇はそんなことのためにあるのではない」と若手演劇人から罵声を浴びました。「売名行為」と地元演劇人から私と動いていた神戸の仲間が罵られました。多くのボランティア・リーダーたちは「慰問公演をしてくれるなら笑えるものを」と、私たちの考えを理解しませんでした。

 しかし、96年夏、阪急塚口駅付近のキッズワークショップから神戸シアターワークスの活動がようやく動き始めました。これから99年12月11日の解散を決めて、事業は兵庫県子ども文化協会に引き継ぐことを決めた会議までの約4年間の私の神戸通いが始まったのです。そのときの、ちょっと気負いこんだ趣意書に書いたマニフェストを再録します。

震災から一年が過ぎて、私たちはいままで知らなかった多くのことを体験し、

これまで出逢うことのなかった人々と語り合いました。

その体験と出逢いのなかで、私たちは、「人間が人間を支え、人間が人間を守る」ことこそが

私たちの望んでいる《まち》である事を実感しました。

どんな建物よりも、どんな道路よりも、何があっても壊れないのが「人間の絆」であることを、

そして多くの人々が、子どもたちが、いま其れを求めていることを、私たちは知っています。

《まち》とは人と人の絆の集積であることを、いま私たちは確信をもって言えます。

それは「生きる権利」の最初の一歩だと、私たちは考えています。

しかし、それを求めることが、こんなに困難な社会だったとは……、とも私たちは知らされました。

《まち》を求めている人々がいて、《まち》のなかで生きたいと願っている子供たちがいることも、

私たちは知っています。

「出逢い、語り合い、違いを知り、理解し合う」ということが、

これほど切実に求められたことはなかったのではないでしょうか。

だから私たちは、「一本の樹」を立てようと話し合いました。

演劇という「一本の樹」のまわりに集まって、それを見上げながら「出会い、語り合い、違いを知り、

理解し合う」という健全な営みを取り戻そうと考えました。

そのために貴方の参加を求めます。貴方がもっと元気になる形で、貴方の思うままに。

発起人代表 衛 紀生

 なんとも勢いだけで書いている感の強い宣言文でした。ただ、いま読み返すと、これは私の芸術文化全般への現在の信頼と相似形であると強く感じます。可児市文化創造センターでやろうとしていることは、このマニフェストと何ら変わるものではありません。違うとすれば「演劇という『一本の樹』」ではなく、可児というまちに芸術文化という「一本の樹」、という点だけでしょう。

 私はいま、あの頃に出会ったさまざまな人たち、子ども達を思い出します。「頑張りすぎですよ」と声を掛けたらオイオイと泣いて、しゃくりあげた居酒屋のおやじ、『焼けない野原をさがして』という物語を紡ぎあうワークショップの前に、ひとしきり常軌を逸したはしゃぎようを必ずする子ども達、被災地に演劇を持ち込もうとしていた劇団楽市楽座の武智さん(芸名うでまくり洗吉)も思い出します。彼女は「また皆さんに会いにきます」と言い残してから五ヶ月後の夏の朝に急逝した。みんなみんな、一人ひとりを思い出します。その人たちとの出会いが、いまの私の背中を押してくれているのです。中越沖地震が身近で起こって、久しぶりにあの頃のこと、みんなのことを思い出しました。

 いまでも春に新幹線に乗って滋賀県あたりに差し掛かると、レンゲと白つめ草でピンクと白に染まった田植え前の田圃を見ることができます。私はこの風景に出会うと、いまでも息苦しさを覚えます。胸騒ぎがします。あの頃のトラウマから脱していないのかもしれません。そう言えば、私はいまだに夜寝るときには、財布と車のキーを布団の下に入れています。やはりトラウマですかね。