第7回 ボランティアは「私」から始まる。

2007年7月21日


可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

 可児市文化創造センターでは、NPO法人alaクルーズというボランティア組織が自立的な活動をしています。そのalaクルーズが主催して「アーツ ボランティア フォーラム 2007」が開催されました。中部圏の7団体、80名の参加する大掛かりなフォーラムとなりました。

 名古屋大学大学院教授の清水裕之氏の基調講演のあと、劇場見学と昼食をはさんで約3時間の長時間にわたっての交流会議が開かれました。私は「最後に総括をする」という役割でしたので皆さんのお話のメモを取りながらお聞きしていました。そのうちに、妙な苛立ちを感じている自分に気付きました。

 その苛立ちが何処から来ているのかを探っていくうちに「ボランティアが日本に真に根付くことはあるのだろうか」というところに行き着きました。まずもって、「ボランティア」にまともに対応する日本語はあるのだろうかと思いました。「奉仕活動」があるではないか、と言われるかもしれないですが、奉仕は「奉」も「仕」もお上に対してとか、国家に対してとかいう縦型の構造を意味する言葉で「ボランティア」とはかなりニュアンスが違います。「ボランティア」はあくまでも自発性に重きをおき、横型のパートナーシップに依拠した行動です。また、「滅私奉公」とは真反対の概念です。「奉公」の「公」は、難しく言うと官治的公共性の「公」です。つまり政治的な、あるいは宗教的な、あるいは経済的な権力者が専らする「公」に奉げ勤めるのが「奉公」です。ボランティアとはあまりに違うニュアンスです。ボランティアは市民が「公」に参画することであり、「公」には違いはないのですが、この「公」は市民的公共性の「公」なのです。ボランティアは、市民がみずからの意志で、自発的に公共に踏み込み行動することなのです。

 また、「滅私」も「ボランティア」には対極にある行動パターンです。ボランティアは「私」の自己実現や自己達成の喜びを希求する気持ちがモチベーションとなるものであり、まず「私」から始まる行動なのです。真反対のように思われるかもしれませんが、「他助」ではなくまさしく「自助」なのです。

 ときおり文化ボランティアの人が施設側との対応で「やってあげている」という態度をあらわにすることを見受けます。むろん施設側の対応は責められるべきですが、「やってあげている」というくらいの意識ならボランティアや市民参加はいますぐに辞めるべきです。「ボランティア」という言葉の動詞用法での意味は、「‥を進んで引き受ける、‥を自発的に申し出る」です。そして、ボランティアが得る「報酬」は、感謝の気持ちや謝辞や笑顔だったりします。つまり、他者を経由して返ってくる感情を喜びとできる者にしかボランティアはできないのです。あくまでも他助であるよりも自助なのです。一人称から始まる行動なのです。ボランティアはいろいろなサービスを供給しますが、つまるところは心の通わせ合いなのではないでしょうか。「生きがい」や「かけがえのなさ」というエネルギーを他者からもらうという行為にボランティアの本質があるといえます。

 また、「ボランティアを募集するとたいていは福祉に行ってしまい、文化には人が来ない」という声が参加者からありました。ここにも「ボランティア=弱者救済」という日本的な誤解がうかがえます。ボランティアは必ずしも弱者救済を意味する言葉ではありません。

 ボランティアは、本来的には行政府、財団、NPOなどの「使命」に共鳴、共感して自発的に参加し、その労力や技術の提供がそれらの団体のサービスの対価の低廉化に寄与するものです。したがって、弱者救済では必ずしもなく、行政府、財団などの広い意味でのNPOや特定非営利活動促進法に定義されるNPO法人の行う事業なら、すべてが対象であり、したがって文化ボランティアも福祉ボランティアと等価であると言えます。

 今回のフォーラムでとても気になることがありました。ボランティア=NPOという考え方です。特定非営利活動促進法(NPO法)が施行されて10年近くになろうとしているのに、まだこの理解が進んでいないことに私は唖然としました。「現在は直営館であるのだが、市長がゆくゆくは指定管理者に移行したいとしており、そうなると私たちは営利法人にボランティアすることになってしまうので、それならNPO法人格を取得して指定管理者のコンペに参加しようと思っている」という発言がありました。お気持ちは理解できるのですが、これは困ったなと正直思いました。

 NPO 認証第一号で、富良野演劇工場という劇場を運営しているNPO法人ふらの演劇工房も、実はボランティア団体であり、いまはどうか確かめてはいませんが、劇場運営が動き出してからも長いこと事務局長に給料は支払われていませんでした。NPO経営とは企業経営と同義です。民法の特別法で規定された立派な法人なのです。したがって税金も払います。経営に失敗すれば無限責任ではありませんが、相当する経済的な責任も負わなければなりません。ボランティア団体も NPOですが、NPO法人ではありません。法人であることで契約主体になれたりとか、補助金の対象となったりのメリットはありますが、同等程度のリスクも負うことになるのです。愛知県蒲郡市の市民会館の指定管理者が資金を流用して破綻した記憶はまだ新しいのではないでしようか。

 ボランティアは「安上がり行政」なのではないかと思うことがある、という意見もありました。間違いありません。行政に限らず、ボランティアはコストを低減してサービス対価を低廉化するものですから、言葉は悪いですが「安上がり」であることは間違いないのです。ただ、「安上がり」であることと、ボランティアに「安上がり行政」と感じさせることは別物です。「安上がり行政」と感じさせてしまう行政の側の意識に問題があるのです。米国の劇場や美術館のボランティアには、施設の側がボランティア・マネージャーという専門職を配置してボランティアのモチベーションの高度化や「燃え尽き症候群」へのリスクマネジメントに適切に対応しています。NPOにとってボランティアはサービス対価を低減化するための大切な人的資源であり、無形資産です。資産である以上、気を使い、心を配り、思いやることで資産をより大きくしていこうとするのは、経営上、当然のことと言えます。ボランティア・マネージャーには無形資産を大きくしていく役割があるのです。

 ところが、日本の行政が「市民参加」や「ボランティア」を仕組みとして採用する第一義的な意味は、アリバイ証明であることが多いのです。そのために市民に対してパートナーとしての適切な対応に欠けてしまいます。つまり、「市民参加」や「ボランティア」という制度を取り入れただけで彼らの「思惑」は自己完結してしまうのです。パートナーシップがないから、市民に対して反論をしない大変卑屈な態度をとることになります。行政の仕事はマイナスをゼロにする仕事です。ところが「市民参加」とか「ボランティア」はゼロをプラスにする仕事で、そのプラスは人それぞれに多様で、まだら模様をしているのです。そのことも行政の仕事の質には不適合なものなのです。

 ましてやボランティアが「私」から始まるということには、行政の精神は適応しません。が、しかし、ボランティアはまぎれもなく「私」からしか始まらないのです。「私」の愛の及ぶ範囲が拡大することでボランティアが成立していると考えると、「ボランティア」に関わるいろいろなことが整理されます。

 たとえば、全国の公立文化施設の多くに設置されている市民参加による「事業選定委員会」的な意思決定機関は、「私のやりたいことをやる」という独善的な組織になっていることがあります。「テレビに出ているスターの出る芝居を見たい」、「有名なポップスの歌手を呼びたい」という自分の欲求を実現するに過ぎない選定委員会のなんと多いことか。嫌というほど私は見てきましたし、体験してきました。これは「私利私欲」以外の何者でもありません。その地域の「市民の代表」として事業を選定しているとはとても思えないのです。自分が「呼びたい」ものではなく、まちの人々に「呼んであげたい」ものを考えるべきなのですが、大多数はそうはなっていません。このような市民参加の「事業選定委員会」が公共文化施設を劣化させている例を、私は多く見ています。一時期全国的に評価された北陸地方のある公共劇場が、瞬くままに輝きを失ったのもそのような「委員会」の独善で事業を選定するようになってからです。「私」の愛の範囲が自分の住んでいる地域へ広がってこその「事業選定委員会」ではないでしようか。

 「ボランティア」や「市民参加」は、「私」の他者から受ける喜びから始まるのですが、他者を経由せずして「私」自身が喜ぶことをするのは対極に位置する行為にほかなりません。「ボランティア」は日本に根付くか、という設問にいま答えは持ち合わせていません。ただ、越えなければならない壁が幾重にもあることだけは分かります。ただ、やはり私は、ボランティアは「私」からしか始まらないのだと強く思うのです。