第28回 タンポポのように。

2008年9月8日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

金沢の俳優で、演劇のコミュニティ・アーツ・ワーカーだった東修さんが亡くなりました。五十代はじめという年齢の、いかにも早すぎる逝去でした。発病から九年間、四度の再発という癌との闘病の中で、県立中島高校演劇コースや能美市の総合文化会館(タント)でのタント演劇学校で多くの子どもや若者に演劇の楽しさを伝える一方で、金沢市民芸術村ドラマ工房のディレクターとして、人懐こい笑顔で金沢の演劇人を牽引していた方でした。

彼はまた、2000年5月に始まった第二回戯曲ワークショップ(ドラマドクター 松田正隆)で出来あがった『おーい幾多郎』(作 池田むかう)のタイトルロールである「幾多郎役者」でもありました。2002年12月のドラマリーディング公演、2004年3月の初演、2005年5月の文学座ユニットとの再演と、一貫して西田幾多郎役を演じた、飄々とした持ち味の味のある俳優でした。癌を抱えたままの『おーい幾多郎』での演技でした。

昨夜の通夜に列席しました。強い雨の降る可児から高速道路でおよそ三時間、金沢は夕焼けで赤く染まっていました。300人以上は列席していたと思える大きな葬儀場には、東さんのあの笑顔の遺影が沢山の花に囲まれていました。お年寄りから東さんと同世代と思える方々、中学生と見受けられるセーラー服の沢山の少女たちまで、本当に多くの人たちが東さんとの別れに訪れていました。彼がいかに多くの人たちに慕われ、心から惜しまれて逝ったということが私の心に強い印象を残しました。

彼は生前、「僕はタンポポのようになりたい」と言っていたそうです。演劇の種を風に乗せていっぱい飛ばして、沢山の花をあちこちに咲かせたい、という意味だろうと思います。「東修」という演劇人は、十分にタンポポの役割を果たしてきたと私は思います。ただ、まだまだやってほしいことはありました。金沢にとって、彼の死は大きな損失です。残念でなりません。

私と東さんとは、金沢市民芸術村のアドバイザーとディレクターという立場になる以前からの付き合いでした。1996年の芸術村開村以前、私は、阪神淡路大震災の心のケアと仮設住宅での高齢者のコミュニティ形成のための神戸シアターワークスという団体をやっており、毎月神戸に行った帰りにはJRの特急サンダーバードで金沢に立ち寄り、金沢市民芸術村のマネジメントについて東さんを含めた四、五人とミーティングをやっていました。この年、芸術村の費用で金沢に宿泊したのが四泊であるのに対して、自費で宿泊したのが四十二泊でした。ほとんど毎週のように金沢に出かけて、東さんと顔を合わして、お話しをしていたことになります。

開村三年目あたりだったと記憶していますが、文化庁の補助金で障害者、子ども、高齢者対象のワークショップ事業をフォー・シーズンでやろうという企画がありました。結局は、文化庁の担当者と協議して、子どもに特化したプロジェクトを翌年度から三ヵ年で動かすことになりました。そのとき「キッズ・クルー」というグループを立ち上げたのが東さんでした。東さんにとっては、ここがまさしくタンポポ・プロジェクトの出発点になったのではないでしょうか。

彼の出演した『おーい幾多郎』は全国公演を昨年度行って、初演以来の観客数をおよそ9500人に伸ばしました。今年は9月26日から10月5日まで東京・吉祥寺シアターで東京公演を実施します。九年かけてようやく東京にたどり着いたという感じです。東さんの闘病とともに、多くの観客の方々に成長させてもらった『おーい幾多郎』です。東さんと最後に会ったのはアーラを見に、娘さんといらっした時でした。7月13日のことで、この日は地域拠点契約を結んでいる新日本フィルハーモニー交響楽団の初コンサートの日で、劇場を隅々まで視察した後、父娘でサマーコンサートを楽しんで金沢に帰りました。それが最後でした。その折に、親子三人で『おーい幾多郎』を東京に観に来ることを楽しみにしている、と言っていました。それが実現しなくて本当に残念です。しかし私は、九年間も闘った東さんにエールを送りたいと思います。「本当に良く頑張ったよ、東さん。僕にはとても出来ることではない。ゆっくり休んでください」と。今度の『おーい幾多郎』に出演する文学座の俳優たちは、「みんなで良い舞台にしよう、それが一番の供養だ」と言っています。『おーい幾多郎』もまた、東さんが飛ばしたタンポポの種の一粒なのかも知れません。