第1回 社会包摂が経済的価値を大きくして収益構造を激変させる-CSR(社会的責任経営)からCSV(共創価値経営)へ。

2021年4月24日

可児市文化創造センター シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生

「『善いこと』は『もうからない』はずでなかったか。余裕がある個人・団体ができるだけで、『ウチにはそんな余裕はない』と。まずもうけて(成長)、それからチャリティ(分配)するのがセオリーで、そのセオリーを踏み外せば本体がつぶれてしまって元も子もなくなる・・・はずだろう」。

これは、社会活動家で東京大学特任教授の湯浅誠氏が2017年の法政大学教授時代に、池袋近くの要町で子ども食堂をやっていらっしゃる豊島子どもWAKUWAKUネットワーク代表の栗林知絵子さんから薦められて突然アーラにみえて、その後にYahoo!でのご自身の連載に書いてくださった『劇場は、芸術ではなく、人のためにある 観客数を3.7倍にした劇場がやっていること』の冒頭に近い書き出しの部分です。アーラの具体的な事業展開のみならず、一歩も二歩も踏み込んで、アーラの施している経営手法に触れている箇所です。初見の読み始めでこのくだりに行き当たり感じたのは、「見抜かれているな」というもので、さすがに長年社会活動をなさってきて、民主党政権で社会包摂を担当する内閣参与を務めていらっしゃった湯浅さんならではの慧眼だなと畏れ入ったことは鮮明に憶えています。

「まずもうけて(成長)、それからチャリティ(分配)するのがセオリーで、そのセオリーを踏み外せば本体がつぶれてしまって元も子もなくなる」は、彼が社会活動に携わりながら、常々持ち続けていたジレンマだったに違いないと思えました。当時はすでに可児市文化創造センターalaの社会包摂型劇場経営は全国的に知れ渡り始めていて、年に30回前後の講演とシンポジウム、また地方議会の会派、委員会、党派の議員さんたちの視察訪問が増え始めてきた頃で、視察対応で求めに応じるかたちで年間40回前後、1時間を少し超える程度の劇場経営のセミナーをしていました。地方都市での講演とシンポジウムのあとで、施設職員や幹部職員から寄せられるのは、「是非とも導入したいけれど、社会包摂に回せる予算も事業収入もギリギリで、人員もそれに充てられる余裕がないので」という意見が大半でした。

この意見の背景には、コミュニティへの社会包摂型プログラムは「副業」で、事業のチケットを売り捌いて収益を上げる「本業」さえままならないので、という公立施設の忸怩たる立場が反映されていました。設置者の行政からは、事業収入を上げて、経済効率の良い運営を促されており、「必要だと認識しているが、なかなかそこまでのリソース配分ができない」という諦めにも似たものでした。なかには、私の話には心を激しく揺さぶられるのだが、どうにも動きが取れないという悲鳴にも近い気持ちのこもる感想だったりもしました。財政的リソースが不足なら鑑賞事業を一本だけ削れば、と提案したりしました。また、人員的なリソースの目途が付かないなら単一の劇場音楽堂だけで自己完結しようとはせずに、当時注目されていた複数の異なるセクター(行政、企業、NPO・財団・. 社団等)が「共通のゴール」を目指して「強み」を持ち寄る「コレクティブ・インパクト」(集合的課題解決)に踏み込めば良いのでは、とアドバイスしたりもしました。

アーラも、市の福祉関連部署、県と市の教育委員会、母子寡婦福祉連合会、子ども食堂、可児市内の企業・団体・個人との「つながり」を持つことで、共通のアジェンダとゴールをアウトカムするために、結果的にではありますが、当初から「コレクティブ・インパクト」を選択していたのです。地域には、さまざまな社会課題や生活課題と向き合おうとする草の根の活動があります。彼らとミッションや評価手法を共有して、それぞれの「強み」を持ち寄り、「弱み」を意味のないものとする「つながり」は、いくら志が高くとも単独で自己完結型に課題解決を目指すよりも、はるかに短時間にインパクトに結び付くことは自明です。それがつながる団体を経由して、劇場や団体の社会的価値をバズ・マーケティングで拡散できることも期待できるのです。あるいは、ある団体が既に実施しているプログラムに劇場音楽堂が後発でも参加することで、停滞していた解決への道を一歩でも前に進めることが出来るのです。

新規職員が6名になったこともあり、また従来からの職員の振り返りの意味もあって、4月12日に旧館長ゼミを開講しました。「言葉を揃える」という私の強い組織づくりの基本理念への第一歩です。今後、名称をどうするかはこれからですが、アーラの経営変遷を私自身が振り返る機会にもなりました。

2009年に始まった『アーラまち元気プロジェクト』は、当初は年間267回でした。それも、この事業の狙いには、90年代から私の構想していた社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing)という「チケット販売促進」ではなく、「チケットの売れる環境づくり」を形成するマーケティング手法がありました。「Cause」とは、すなわち「社会的使命・存在意義」に関連してのマーケティング手法は、1983年にアメリカン・エクスプレスによって実施された「自由の女神修復キャンペーン」が嚆矢とされていますが、実際はその2年前のサンフランシスコ地区の芸術振興というコーズに対して、カードが使用される度にアメックスが2セントを寄付するキャンペーンを行ったのが最初のCRMです。このキャンペーンに対して、初めて「コーズ・リレイテッド・マーケティング」という言葉が用いられます。このキャンペーンでは、3カ月の間におよそ10万ドルの寄付が集まり、次いで「自由の女神修復キャンペーン」では、同社のカード利用ごとに毎回1セント寄付するキャンペーンによって集めることを企図します。このキャンペーンは、同社の新規カード保有者を45%増加させ、カード利用額を28%上昇させたという。そして、なんと修復に向けた資金調達は、170万ドルという規模となったとそうです。この「自由の女神」に関わるキャンペーンで、CRMという経営用語が一挙に人口に膾炙したのです。

私は1998年に初めて訪れた当時のウエストヨークシャー・プレイハウス(現リーズプレイハウス)で目の当たりにした、およそ日本では考えられない劇場の賑わいを、私は、このCRMによって生み出されているに違いないと確信しました、年間1000回もの、そしておよそ市民20万人がアクセスしている多彩で多様なコミュニティ・プログラムよって、市民の裡にプレイハウスへの深いロイヤルティが醸成されていると確信しました。自治体による劇場設置が「ハコモノ」、「税金の無駄づかい」と設置当初から批判されていた当時の日本では、思いもつかない「夢のような話」でした。当時、公共ホールばかりではなく芸術団体にも、決定的に欠けているのは、このマーケティング手法であり、そもそもそのようなマーケティングを成立させる社会包摂的なプログラムさえ何処にも存在していないというのが現実でした。「演劇体験教室」や「出前演奏会」は既に90年代はじめから「ワークショップ」という名称が使われるようになって行われていましたが、その目的は近視眼的な「愛好者開発」、「鑑賞者開発」という非常に狭い射程標的で考えられていました。決して、劇場ホールや芸術団体の社会的存在意義をブランディングする方向に舳先は向いていませんでした。

社会と市民との「つながり」を重視するCRMの考え方は、現在に至るまで一貫してアーラの経営で一切寸分もぶれていない手法です。私が1993年に岡山美術館でのシンポジウムで最初に口にした「創客」とは、そのような「つながり」による鑑賞者開発を意味しています。その地域社会へのコミットメントは、国民市民の生活課題・社会課題にコミットして、文化芸術の多様な機能と劇場音楽堂の諸時空間を活用して、当事者自身さえ必要だとは気付いていない社会的ニーズに基づく文化サービスを、不断に供給するというものです。したがって、アーラにおける「事業定義」は、「私たちは経験価値と、そこから派生するかけがえのない『思い出』と、さらに新しい価値による行動の『変化』とその『生き方』を提供する」と「私たちは地域社会とコミットして、すべての 市民を視野に入れたサービスを提供し続ける『社会機関』である」となります。そして、その先に「人間の家としてのアーラ」が導き出されているのです。

それによって、結果的に「愛好者開発」、「鑑賞者開発」に結び付くことはあったとしても、それを目的とはせず、そのさらに先にある健全な社会構築のために住民にとって必要不可欠な施設という社会合意を醸成することを根本に置いています。コロナ禍で言われる「不要不急」からはもっとも遠いところにある存在であり続けるという意志と、そのような施設であるとの社会的認知を得るためのソーシャル・マーケティングであると、私はCRMを位置づけています。その結果として、湯浅さんが書いたように2014年度統計値で、2007年度比で観客数368%増の52,188人、パッケージチケット数1,426パッケージで同比875%増となって、全体の収支比率が130~140%で推移していた、ということになります。

そして、館長に就任して数年間は、併せて企業・組織の社会的責任経営(Corporate Social Responsibility)を、確信的に理論背景としていました。ちなみに館長就任の2008年はリーマン・ショックの年であり、消費増税の話もその後に何回か浮上していました。ただ、金融危機であるリーマン・ショックは、昨年からのコロナ禍のように家計を時間差なく直撃するものではなく、その影響が消費意欲の減衰として現れるまでは2年間程度のタイムラグがありました。とは言え、正直に吐露すれば「どこでチケット料金を値上げするか、パッケージチケットの公演数を、何をもって減数に踏み切るか」は、まさに息をのんで、手に汗握って計っている、というのが実際のところでした。家計への景気の影響による消費マインドが冷えかかっているこの時期の、それが最大懸案でした。2014年度に消費税は5%から8%に上げられます。アーラの収支も2年続けて、就任以来はじめて赤字となります。演劇のチケット料金を、3000円から4000円に値上げする決断をしましたが、代わりに演劇とクラシックのパッケージ数を2016年度から4公演から3公演に減数して、2万円超になる購入価格のパッケージチケットをなくすというチケッティング改革をすることになります。同時に、CSRという理論的背景をより強いものに変えるべき時と考えました。文化芸術という「本業の強み」による社会的価値と経済的価値をより一体的に両立させるために、第三次基本方針が示された2011年の「ハーバートビジネスレビュー」に経営戦略の大家マイケル・ポーターが発表した『Creating Shared Value』に沿った「共創価値」という経営概念にシフトすることを決めることになります。景気動向に左右されにくい劇場経営にシフトする決断をしました。

その論文の以前に、宮城大学・大学院の教員時代の2006年の「ハーバードビジネスレビュー」にマイケル・ポーターが発表した『Strategy and Society』では、CSRはボランティア派遣や寄付による資金提供という「本業」とつながりのない支援に終始することになる。したがって、「受動的CSR」から「戦略的CSR」にシフトすべしという主張をしています。従来の「受動的CSR」では、本業の自然破壊、公害、地球温暖化等への「罪滅ぼし」或いは「贖罪としての社会貢献」でしかないと断じて、企業は単に経済的価値の極大化、利潤の最大化を目指す存在ではなく、社会との相互信頼の下で、存在意義に関わるコミットメントを果たすべき、とそれまでのポーターとは思えないことを書いています。彼はこの『Strategy and Society』で大きく舳先を変えたという印象を私は持っています。「競い合い、奪い合う」という新自由主義的な経営戦略の大家であったマイケル・ポーターが、この論文を機に「転向」したのではなかったかと、私はいまでも思っています。

本業の「強み」を活かして社会課題を解決する社会的価値と、それによってエシカル消費性向(倫理的・道徳的な消費者行動の傾向)を梃子とした経済的価値である利潤を導き出す、両利きの経営手法でなければ、「本業」が傾いたら社会貢献も大幅に縮小するか、撤退するしかない、というのがポーターの考え方でした。その考えを進化させたのが、2011年の『Creating Shared Value』であり、「本業の強み」で価値を共創・共有することで、サービスの供給側と享受者側が、共に価値を創造して協働する信頼関係を切り結ぶことになる。そのことで、きわめて大きな、そして揺るぎない関係資産をつくることになる。それは「無形資産」ではあるものの、経営資源として重要な「つながり資産」となる。その経営資源は、気を配り、思いやり、気遣いをして丁寧に関わるほど「利息」を生んで大きくなる。アーラで言えば、文化芸術の持つ諸機能という「強み」を活用して、あわせて可児市文化創造センターという建造物の諸空間を存分に活用して経営資産を膨らませることが出来る。

そこには「本業」も「副業」もありません。その線引きは何ら意味をなさないものとなる。創造・鑑賞と社会包摂の価値循環による鑑賞者開発と支持者・支援者開発、さらには揺るぎないブランディングの進捗というアウトカムを導き、経済的価値と社会的価値を両立させ、ともに相互に影響しあって弁証法的に引き出す「価値循環型劇場経営」にパラダイムシフトをすべき時機と判断しました。景気に左右されにくい経営手法へと、消費税増税からの収支の赤字転落を機に経営手法をシフトしたのです。そのために、その数年前から考えていたチケット販売収入と貸館貸室収入の1%をアジアアフリカの子供たちの教育と医療にNGOを通して寄付し、アーラという装置を通して可児市民が世界とつながる、というシビックプライド醸成の構想等、いくつかのプロジェクトの優先順位を思い切り下げることになりました。「誰かと誰か」が共に創りあう価値によって出来る「つながり」を社会的関係資本とする経営は、「アーラと市民」、「職員と市民」、「市民と市民」にも起こりうる化学反応を基軸とした劇場経営である、と現在の手法に至ったのです。2016年度時点でのマーケティング投資収益率(MROI)は、何と5.62にもなりました。

文化庁は、コロナ禍への対策として数次にわたる補正予算を組んで、盛んにネット配信による「収益構造の改革」、「収益力強化」を進めようとする施策を進めようとしてきましたが、それは一過性の「収益力強化」に過ぎず、恒常的な「経営基盤強化」にはならないと私は見ています。むしろ、チケットの販売促進である広報宣伝と、チケットの売れる環境を創造するマーケティングを混同している現状の誤った認識をただすために政策投資をすべきではないかと考えています。ネット配信のように目先の成果は出ないものの、中長期的には、劇場音楽堂等と芸術団体の存立根拠を確かなものとして、経営基盤を揺るぎないものとするのではないでしょうか。文化政策とは、芸術投資ではなく、もっと巨視的な「鳥の目」による社会投資であるべきです。数年前の世界劇場会議国際フォーラムにゲストスピーカーとして招いた英国芸術評議会のバーバラ・マシューズも、ウエストヨークシャー・プレイハウス(現リーズ・プレイハウス)を芸術監督のジュード・ケリーとともに「北部イングランドの国立劇場」、「コミュニティ・ドライブ」と呼称される劇場に導いた経営監督のマギー・サクソンも、異口同音に「公的資金を受けた芸術はすべての人々に享受する権利がある」と発言して、それが「社会の発展」につながるとの指摘がありました。この「発展」を、休憩中に小耳にはさんだ会話なのですが、日本人は自動的・反射的に「経済的発展」と思い込んでしまうところがあります。そこまで経済優先と拝金主義になっている日本人の現在に、私はちょっと驚きました。社会的発展はあくまでも公正な社会での人間の尊厳が重んじられる健全な発展であり、経済的な利得の進捗とはまったく違うことを、私たちは肝に銘じるべきです。アーラの職員たちは、幾度かの経営理念の転換をくぐりぬけ変遷を経験しながら見た新しい景色というDNAを引き継いで、さらに新たな展開を見せてくれるだろうと、私は信じて疑いません。

随筆 言の葉のしずく

可児での14年で変わった食習慣。

14年間の可児での生活をひとまず閉じて、まもなく東京に拠点を移します。そして、業務委託の事業以外には、定期的に月に2日、一泊二日で可児に通うことになります。何か得体のしれぬものに追いかけられ続けている、という強迫的なストレスからは、いまは徐々に解放されつつあります。理想とするアーラへのあまりに遠い道程と、自分に残されている時間とのあいだで、強迫感覚に苛まれていたのだろうと思います。現在はいささか散文的な生活で違和感はあるのですが、妻に言わせれば、止まってはいられないマグロのような性格だからということになります。

可児の14年間で食生活の好みも随分と変わりました。もともと「麺食い」で、1日3食すべて麺類でも構わないほどで、とくに蕎麦には目がありませんでした。大根おろしを汁ごと少し大きめの蕎麦猪口に入れ、麺つゆと少々の醤油を加えて、乾麺の蔵王そばのようなざっくりして汁の絡む麺をおろしごと手繰るなんて、野趣に富んだ至福の一食と思っていました。

とは言え、可児には蕎麦屋は極端に少なくて、食文化としては「うどん圏」です。アーラに来た頃は歩いて行ける近くの「味よし」という店にランチの度に通っていました。この店でおぼえたのが冷やしを「コロ」ということで、はじめは何を言っているのか見当がつきませんでした。いまでは冬の常食となっている「味噌煮込みうどん」を最初に食べたのは、数年前に店仕舞いをしてしまった「達磨」でした。にぎやかな女将さんに「麺は硬めに」と注文したら「大丈夫?」と、見るからに余所者が味噌煮込みの真骨頂である硬めの麺を知らないのではないか訝しく思われたことがあります。私の「味噌煮込み」の初体験は、琉球フェスティバルの制作で訪れていた栄の裏道にあった木造の安宿の隣の山本屋で、最初はその愛想のない太さと硬さでしたので、食べなれるとあの硬さこそが「味噌煮込み」と思うようになっていました。

ここ数年は、肌寒くなると広見の「竹馬」で、イカ天と卵入りの「味噌煮込み」と半ライスを食すのが習慣になっています。大学生の頃まで、うどんとはまったく縁のなかった私は、可児に来てからは、すっかり「冬はうどん」となりました。とは言っても,夏はやはり天コロ蕎麦か、お酢を強めに効かした冷やし中華になります。それでも、可児というまちは、海のものでも山のものでも、そのうえ但馬地方からの子牛を飼育して出荷する多くのブランド牛とは違い、飛騨牛の血筋をたどると必ず「安福号」にたどり着くという肉の奥行きのある味わいといい、本当に食材豊かな土地だとあらためて思います。海なし県の岐阜ですが、三河湾からも富山湾からも、高速交通網2時間半程度でキトキトの魚介類が届きます。びっくりするほど新鮮な魚も味わえるのが「可児というまち」だとは、ここに住んでみないと分からないのではないでしょうか。