第四章 戦略的アーツマーケティングと顧客志向経営の実践-alaを事例として(2)

2009年1月21日

どんな鳥だって想像力よりは高く飛べない。  寺山修司

マーケティングというと「営業」と勘違いする人が多くいます。フィリップ・コトラーは、セリングを「刈り入れ」、マーケティングを「種まき」と言っています。コトラーの先駆者であるピーター・ドラッカーは、究極のマーケティングはセリングを不要にすることである、と言い切ります。つまり、この二つは180度違う考え方であるのです。営業から思い付くのは「動員」や「集客」という言葉です。いわば掻き集めるという方法です。それもひとつの方策ではあると思うのですが、私が10数年前から提唱している「創客」と大きく違うのは、お客さまのモチベーションの違いです。舞台芸術はステージの上の演技や演奏の巧拙やその芸術的価値のみで完結するものではありません。観客や聴衆を一度経由してその価値が派生するものです。館長エッセイ第13回『「売る」ことと「売れる環境をつくる」ことの違い』より

顧客志向からの改革1(インターネット・チケッティング)。

顧客志向にシフトして、最初に導入検討に着手したのが、インターネットで座席予約と決済、発券のできるASP(アプリケーション・サービス・プロバイダー)システムだ。管理職には、可児市とその商圏では、インターネットはさほど普及していないだろうという意見が多かった。しかし、可児市はCATV、光ファイバーも整備されており、ブロードバンドの世帯普及率も全国平均には及ばないものの30.6%と前回調査から1ポイント伸びており、導入後にチケット販売商圏となる可能性のある東海三県の数値は全国平均を2.3ポイント上回っている。インターネット普及率は42.9%と決して低いとはいえない。また、今後はリタイア世代が増加して、インターネットの利用者が増えこそはすれ、減ることはないのだから、将来を見据えれば導入には合理性がある。

本格導入のためのトライアルが、緒形拳の一人芝居『白野』に決まった。結果は39.8%がインターネットからの購入という高い比率を叩き出した。しかも19時から9時までの、インフォメーション・デスク(チケット売場)の開いていない時間外の販売率が51%にもなったのである。さらにほとんどのお客さまがコンビニ(セブンイレブン)での発券を選択していることも分かった。ウェブでのチケット購入者を分析すると30歳代と50歳代と二つの大きな山が出来た。興味深いデータであった。

シカゴ交響楽団のインターネット・チケッティングのデータがジョアン・シェフ・バーンステインの『芸術の売り方』に紹介されているが、売上全体の12.8%がウェブ購入であり、ボックス・オフィスの開いていない時間帯の購入が42%だったという。それと比較しても、トライアルではあるが、広報の不十分さを勘案すれば『白野』ではかなりの数値のアウトカムを得ることができたと言える。

時間外のアクセスが多かったことは、これまでインフォメーション・デスクの開いている時間内に購入不可だった新しい顧客の開発と利便性の飛躍的な向上を意味すると考えられる。また、多くのお客さまが市内に当時2軒しかなかったセブンイレブンでわざわざ発券していることを考えると、インターネットでウェブにアクセスして顧客登録をし、座席予約をして決済・発券をするという購買行動そのものを「経験価値」として楽しんでいたのではないかと推測できる。その購入客の行動様式から、インターネット・チケッティングが新たな「顧客価値」を作り出しているのではないかと推測できた。

団塊の世代と団塊ジュニアの世代に大きな山ができていることからもそのことが推察できる。これらの世代は、きわめて行動的であり、新しい体験に挑戦的でもあるからだ。つまり、インターネット・チケッティングの導入自体が新しい「顧客価値」をつくりだしたと私は考えた。これからはサンプル数が多くなってくる。『白野』では可児市とその周辺の商圏からのウェブ・チケット購入者比率が80%を超えた。それらのサンプルを多変量解析、クロス集計にかければ、可児市を中心にしたおよそ30万商圏の人々の舞台芸術の消費性向のおおよそが抽出ができるだろう。

また、alaが導入したインターネット・チケッティングのシステムは、希望する席をピンポイントで押さえることができる。希望する客席のブロックしか指定できないチケットぴあなどの従来のチケッティング・サービスと比較しても、欲しい席を自分で選択できるというメリットがある。前章で触れた「顧客主権」の尊重である。これも「顧客経験価値」を高めていると私は考えている。

チケット入手の方法と容易さこそが購入意思決定の中心であるという消費者たちもいる。また、熱心な購入者にとっても、チケットが入手しやすいことはプロセスに対する満足度を上げるのに重要である。(フィリップ・コトラー&ジョアン・シェフ・バーンスタイン『Standing Room Only)

インターネット・チケッティング導入による可児市文化創造センターの今後の課題は、名古屋圏と岐阜圏という一時間程度でアクセスできる大きな商圏へのアプローチだ。可児市文化創造センターでは、名古屋圏や岐阜圏ではやっていない事業プログラムを組み始めている。である以上、その二大マーケットを視野に入れたマーケティングをしなければ、インターネット・チケッティングの「強み」をより生かしていないと評価されても致し方ないだろう。

顧客志向からの改革2(パッケージ・チケットとDAN-DANチケット)

 米国の地域劇場やコンサートホールの年間予約会員制(サブスクライバー制度)が、顧客のライフスタイルの変化によって多様なニーズに対応できず、会員数が激減して、制度自体が時代に対応できなくなっていることを、フィリップ・コトラーは『Standing Room Only』と『How the Arts Can Prosper Through Strategic Collaborations』において、政府や民間財団からの資金削減とともに危機感をもって報告している。

 ダニー・ニューマンの『予約会員獲得のすすめ‐奇跡をよぶ財政安定化マニュアル(Subscriber Now)』にあるように、年間予約会員制度は、芸術団体にとってはシーズン当初に多くのイニシャルコスト(初期資金)を手に出来るメリットがあり、観客・聴衆にとっては会員であったからこそ思わぬ良質の舞台に遭遇する機会を得たり、見続けることでの経験の蓄積が起こるなどのメリットがある。会員でなかったら決して出会うことはなかっただろう舞台を経験するという利得が顧客にもたらされるということは、特筆すべき「会員制度」の利点である。

 この「利点」を日本の演劇鑑賞会や会員制を導入している能登演劇堂も大いに活用すべきと考えるが、現実は、タレントや有名俳優の出演している作品を選定して一時的な会員増を狙ったり、住民による企画選定委員会のようなものを設けて同じく有名人志向に傾斜しているのが現状である。「会員制度」と「顧客の経験価値」の科学的なマッチングに無自覚なのである。会員増を企図する有名人志向の作品選定は短期の「瞬間最大風速」しかもたらさないことを知るべきである。良質の「経験価値」こそが演劇をライフスタイルに組み込むモチベーションになる。演劇の真の見巧者の育成こそが会員の定着を促進するのは自明であるのに、目先の会員増だけを追いかけているマネジメントは、稚拙としか言いようがない。閑話休題。

コトラーらが言うように、確かに人々のライフスタイルは大きく変化している。使える余暇時間はかつてに比べて少なくなっている。それだけに余暇の使い方には厳しい選択をするようになってきている。年間予約会員制度が、そのような外部環境の変化の中で選択価値を失ってきているのは確かだ。時には演劇を、あるいはクラシックを、ロックさえも、また静かな美術館での一日も、等しく過ごしたいと思っている行動的顧客がいても不思議ではなくなっている。特定の分野を鑑賞し続けるという年間予約会員制度は、かつては一種のステータスであったが、人々のライフスタイルの変化と、それにともなったデマンドの変化の中ではむしろ不自然でさえある。

 この、一種時代遅れの年間予約会員制度の「強み」だけを抽出して新しいチケットシステムを創れないか、と考えたのが「パッケージ・チケット制度」である。就任直後に決断して動かしたのは、高い水準にあって知名度も高い公演をまとめた「TOP SELLECTION」と五つの演劇公演をまとめた「演劇まるかじり」の2種のパッケージチケットだ。2008年度は6公演がパッケージとなっている「演劇まるかじり」、5コンサートがパックされた「まるごとクラシック」、納涼寄席と初席の「かに寄席パッケージ」、さらには地域拠点契約をした新日本フィルハーモニー交響楽団と劇団文学座による6事業をまとめた「WELLCOME HOME」の4つのパッケージ・チケットで、すべてはおよそ25%から27%OFF前後の価格設定である。価格のディスカウントというよりも、先々の公演日にお客さまのスケジュールを調整していただく負荷へのキックバックの意味合いをこめた価格設定である。

芸術鑑賞や参加は、特別なステータスで自分には縁のないものと考えている人々が持っているアーツへの参加障壁をなくすのが可児市文化創造センター(ala)の重要な仕事(task)のひとつと考えているので、パッケージチケットのチラシは昨年同様にディスカウント・スーパーの折り込みチラシのような表紙デザインにして、「芸術」に気後れすることなくすべての人々が手に出来るように工夫した。B3四つ折で近隣商圏を中心に15万3000部の新聞折り込みとアーラフレンドシップ会員(ウェブチケット会員)への約800通の郵送、200通のメールマガジン、事業の際の折り込みと他館への置きチラシ5000部と、ウェブサイトでの広報が情宣のデザインである。しかし、費用対効果はあまり芳しくない、と私自身は評価している。今後はピンポイントで、スケジュールとチケットシステムが掲載された携帯版のシーズン・ブロッシャー(小冊子)が、必要と思う人の手元に確実に届けられるようにしたいと思っている。現在、2009年度からのブロッシャー発行の準備をしている。

 このパッケージチケットは、ライフスタイルにあわせて好みのチケットをまとめて廉価で購入していただき、野心的で、良質のステージに、パッケージを購入したからこそ出会う機会を演出しようとする意図と、観客の基数をあらかじめ確定してマーケティング戦略を策定する基点にしようとする企図が劇場側にはある。

現在のところ、パッケージチケットの購入者は369名、つまり369席 という基数を可児市文化創造センターは持っているということだ。一年目と比較すると123%増である。ただ、前年度からの継続購入客が少ない(19%)という、克服しなければならない今後の課題がある。パッケージチケットは正価のおよそ25%OFFだが、2009年度からは、継続顧客には「さらに5%OFF」キャンペーンを実施することを目論んでいる。三年間継続するとシングルチケット正価のおよそ「35%OFFの特権」を得ることができる。いったん手に入れた「特権」は経済的・時間的な制約があっても容易には手放さない、というのは行動経済学の知見である。パッケージチケット購入のお客さまに自筆の「特別な手紙」をお送りして、継続年を伸ばすごとにさらに5%の値引きをしてステータスを高め、特別扱いをする「顧客の差別化」である。今後は離脱率をいかに減少させて継続購入を促せるかが大きな課題である。

 このパッケージチケットというミニ・サブスクライブが、スタグフレーションという深刻な経済不況と余暇時間の減少からの影響を受ける可能性はきわめて高いと考えている。そのために打てる手は、舞台の品質をいかに高度なもの保てるかであり、劇場をライフスタイルに組み込むことをいかに提案できるかにかかっている、と思っている。ここに、『Standing Room Only』に紹介されているダラス・シンフォニーの興味深い事例がある。

1980年代中頃、テキサスは特に深刻な不況の打撃を受けていた。長年ダラス・シンフォニーの忠節なサブスクライバーであり、熱心な寄付者だった約400人の人々も、サブスクリプションを止めなければならなくなった。シンフォニーのマーケティング・ディレクターには、この選択が必要に迫られた仕方のないことだとわかっていた。そこで彼女はこうした人々全員に個人的な電話をかけ、これまでの長いサポートに感謝すると共に次のシーズンの無料サブスクリプション提供を申し出た。そして全員が喜んで申し出を受けたのである。()シンフォニーは、熱心な得意客に毎年のサブスクリプションや寄付を頼るだけでなく、特別な必要がある場合にはお返しに、得意客に対する忠節や感謝を示すことができる。この特別な待遇を受けた人々のほとんど全員が、翌年にサブスクライブを再開した。

一方、DAN-DANチケットは舞台芸術に対する顧客の「価格弾力性」に配慮したチケッティングである。価格弾力性のない顧客とは、どのような価格でも購入する、パフォーマンスやアーチストに対して強いインセンティブを持っているお客さまで、価格弾力性があるということはある程度の価格なら購入しても良いと考えるお客さまのことである。廉価なら客席に身をおきたい、と思っている潜在顧客に対するシステムは、公演2週間前になると15%OFFになり、公演当日午前0時からはハーフプライスになる段階的なディスカウント制を設計した。ただし、アーラフレンドシップ会員がウェブで購入するときのみのサービスとなっている。

経済学では価格を下げれば需要は上がる、という基本命題があるが、実際はそうは単純ではないことは行動経済学の知見で証明されている。所得変数は大きく影響するだろうが、それ以外にも代替性の有無と代替品との交叉弾力性の影響、売出価格のアンカリング効果による利得相乗性、割引価格による不確実性の減少と期待効用拡大の合理性、尊敬や社会的評価への損失回避性などの変数が絡んで、ディスカウントによる需要曲線は必ずしも右肩上がりにはならない。当然、価格から品質を推定する顧客も存在する。実績としては、新国立劇場の『屋上庭園』と『動員挿話』の際に行ったトライアルでは、総客席稼動数の10.98%が当日ハーフプライス・チケットの利用者であった。現在では7%強から12%前後がこの制度を利用する観客・聴衆として推移している。

舞台芸術の客席は、開演と同時に「腐敗」してしまう。したがって、このチケッティング設計によって、客席一席あたりの絶対的損失を免れようという経済的な側面は否定されるものではない。スポーツ観戦には、途中から入場するトワイライト・チケットという北海道・ホワイトドームのバーゲニング・チケット制度や、東北楽天イーグルスが導入する、対戦相手、気候などによって価格を変動させるフレックス・チケット制度があるが、劇場・ホールの客席は、開演するとともに絶対的な損失となる。これを回避する目的もあるが、主たる目的は別にある。可児文化創造センターの「DAN-DANチケット」は、価格弾力性に配慮していると同時に、主たる目的は、前述したが、より多くの客席を埋めることで顧客の経験価値を高度化しようとするものである。DAN-DANチケットは、価格弾力性のある顧客に配慮しつつ、正規の価格で購入したお客さまの鑑賞体験を向上させようという二つのフェイズを充足させるためのシステムである。

【次回】第四章 戦略的アーツマーケティングと顧客志向経営の実践-alaを事例として(3)