第一章いまこそアーツマーケティングの導入を/創客へシフトせよ 2

2008年6月8日

公共ホールの多くには割引を主体とした会員制度が存在する。しかし、固定費比率の高い舞台芸術においては観客数の確保にはなったとしても利益を確保することは難しい。

固定費比率を下げ利益を確保するために、装置型産業である舞台芸術においてはチケットの値段を割り引くことで集客する代わりに、顧客との間に関係資産(ロイヤルティ)を築くという発想が必要だ。ブランド・ロイヤルティの高い顧客は経済的な優遇をする必要はなく、人間的な共感をベースとしたサービスを如何に提供できるかが肝要となる。

経営環境における脅威とディスカウント型「会員制」の矛盾。

たとえば、オーケストラ、劇団、さらに公共ホールの多くは「会員制度」を持っている。固定顧客を確保し、シーズン当初にある程度の収入が見込める点で、芸術団体や劇場・ホールにとっては営業の中核としたい仕組みである。

公文協の実施した「友の会調査」でも、「会員数をもっと増やしたい」と答えている公共ホールが77%と多い。「文化芸術の普及」を目的としているホールが35.8%あるが、公共ホールの設置目的から言えば当然の回答ではある。ただ、「会員制度」を一概に「文化芸術の普及」に押し込めてしまうのはいかがなものかと思う。文化政策は「文化芸術の普及」を使命とするだろうが、劇場・ホールの社会的役割は市民の豊かなライフデザインに寄与することであるはずだ。むしろ、「主催公演の集客」をあげた館が55.8%あり、こちらの方が本音ではないか。

ここで、「会員制度」は芸術団体や劇場・ホールの側の都合によって作られた集客の仕組みではないか、と疑ってみる必要はある。生産者主権の制度構築ではなかったか。顧客囲い込みの一方策にすぎないのではないか。多くの場合はチケット料金の10%OFF、優先予約、ニュースレターの送付などが特典であるが、なかには会員には最大50%OFFでチケットを販売している芸術団体さえ見受けられる。

固定費比率の高い舞台芸術にあって50%OFFという価格政策は、ともかく客数だけは確保するというもので、明らかに「動員」や「集客」に類するシステムである。ましてや日本の芸術団体が抱える外部環境は、劇場・ホールを一定期間借り受けて公演をするという世界的にみて特殊な形態にあり、劇場費や稽古場費がかさんで固定費比率が90%を軽く超える高止まりが一般的である。

利益を上げるのには三つのシナリオがある。そのひとつに固定費比率を下げるというのがある。仮に売上高と限界利益率を維持できていれば固定費比率を下げれば損益分岐点も下がり、それだけ利益は増加する。損益分岐点比率は低ければ低いほど収益性が高く、かつ売上減少に耐える力が強いことを意味して経営が安定していると判断される。固定費比率が高止まっていること、劇場・ホールを借り受けて公演することで劇場費がかさみ一席あたりの限界利益率が低いことを考えると、50%OFFという価格政策はとりあえず集客のみにフォーカスした目先の思いつきのたぐいであり、無謀としか思えない価格政策と言えるのではないだろうか。

芸術団体は自分たちの内部環境と外部環境を「強み(strength)」、「弱み(weakness)」、「機会(opportunity)」、「脅威(treat)」に分析して経営戦略を編み出すSWOT分析(後述)をすれば、公演をする劇場・ホールを自らが所有していないという事実は「脅威(treat)」の第一にあげられるであろう。ということは、損益分岐点分析をして客席一席あたりの分岐点をなるべく低くすることにまず尽力するのが、公演場所を借り受けて公演をするという特殊性をもっている日本における舞台芸術マネジメントの基本的な考え方となる。

かりに400人キャパシティの劇場の一日の借料を40万円とすると、4000円の入場料なら100席分の売り上げは劇場費に消えてしまうことになる。たとえ満席であっても通常料金でさえなんと収入の25%が劇場費となるのである。あとの300席からの売り上げで舞台費や出演料や広報宣伝費、稽古場借料及び経常経費などを賄わなければならないことになる。そのうえチケット代金を50%OFFにすれば、200席分の収入が一日の劇場借料に消えるわけだ。たとえあとの200席をソウルド・アウトしても、その200席分の売り上げですべてを賄わなければならないというおよそ不可能な計算式の前で頭を抱えなければならなくなる。日本の舞台芸術の経営の構造的な脆弱性がここにある。

ましてや舞台芸術は装置型産業でもあり、評判を取ったからといって劇場の借り上げ期間を延長して売り上げを無限大に伸ばすことはできない。日本における舞台芸術の公演日程は、およそ一年前から二年前には動かしがたく決められてしまっている。客席数と公演回数によってあらかじめ限界売上が決まっているのだ。したがって、ロイヤルティが高いと思われる顧客=会員に対して大幅の割引をするというのはアーツマネジメントやマーケティングの立場にたてば逆立ちした考え方である。

ブランド・ロイヤルティの高い顧客をつくり、組織することは重大事だが、その顧客を経済的に優遇する必要はない。別のかたちでの差別化によって優遇すべきである。何しろ彼らのブランド・ロイヤルティは高いのである。

舞台芸術をビジネスにする。

仮に会員を対象に大幅割引する代わりに、多数の見込み客を掘り起こすバイラル・マーケティング(viral marketing ウィルスに感染するように拡がることを企図するマーケティング)のスターターになってもらえるとかの代償が見込めれば問題解消の糸口はつかめるが、現行の仕組みをいちいち検証すると、そのうえに会報やニュースレターの印刷実費と郵送費、公演毎に贈呈されるパンフレットまでが芸術団体の負担となっているケースが見受けられる。ボウモルとボウエンの『舞台芸術/芸術と経済のジレンマ』の吟味を待つまでもなく、ただでさえ成立基盤に桎梏があるというのに、この発想では舞台芸術は到底まともなビジネスにはならない。

それでも客席が観客で埋まれば芸術的な達成感はあるだろう。それだけでもやってはいけるかも知れない。ただ、仮に芸術的な使命のみでしばらくはやれたとしても、そのままでは早晩経済的に行き詰ってしまう。活動の継続性は担保できない。

ならば何が必要なのだろうか。私はアーツマーケティングにおける創客の発想と仕組みを芸術団体、劇場・ホールの経営システムと組織風土に一刻も早く導入すべきだと思う。

顧客とのあいだに切り結ばれる「関係資産=ロイヤルティ」(無形資産)に着目すべきなのだ。そのことによってロイヤルティの高い(バイラル・マーケティングやバズ・マーケティングのスターターとなってくれる)固定顧客を作り出す仕組みと、ブランディングによって認識の困難性を軽減して顧客リスクをマネジメントすることを急ぐべきではないかと考える。関係資産は帳簿に計上されないことから簿外資産ともいわれる。顧客とのコミュニケーションの集積によって形成される資産である。資産である以上、思い遣り、心を配ることで大きく育つものであるのは言うまでもない。

「創客」とはその「関係資産」に着目して、それを芸術経営の中心にすえてマネジメントを実行することだ。その実効性を高めるために、関係資産を大きく育てる双方向性のあるコミュニケーションの仕組みをつくらなければならない。関係資産は重要な経営資源である。人間的な共感をベースとしたサービスを生業とする芸術文化産業にとって根幹となる経営資源といえる。顧客は事業収入となる入場料金を支払ってくれるだけの存在ではない。将来にわたって多くの利得を生んでくれ、事業体の未来を創りだしてくれる経営資源である。資源だからこそ、関わり合い、心を配り、気を遣わせるほど大きくなり、進化する。そのためにも組織のIT化を進めて、いますぐ顧客の顔の見える関係づくりをし、顧客維持と進化を図るべきではないかと考えるのだ。

これまでも芸術団体や劇場・ホールと「関係資産」が無縁であったわけではない。その形成と進化を経営戦略に組み込んで意識的にマネジメントを行ってこなかったのだ。あるいは「関係資産」を経営資源として正当に評価してこなかった、という方が適切かもしれない。でなければ、インターネットによるチケッティング・サービスへのチケット委託にもう少し慎重になっているはずである。これについては後述するが、逆に言えば、当面の集客だけが問題だったと考えられる。「会員制度」は、確かにさまざまな特典で顧客に気を配ってはいるが、経営資源としては実際のところほとんど評価していないし、機能もしていない。観客基数を確保するという機能しか果たしていないばかりか、ディスカウント制によって健全経営の足かせにもなってしまっている。ディスカウントによってロイヤルティの高い会員の満足度は本当に保障されるのだろうか。

「ブーム」の実態は「欲望の模倣」。

ある準大手の新劇団の制作者と俳優座劇場での休憩時間に話す機会があった。「2000枚売るのが難しい時代になった」と彼はしみじみと話していた。また別の機会に話をした小劇場演劇の制作者も、観客が集まらなくなっている現実を前にして「次の一手」を探しあぐねている様子だった。

20年前の「小劇場ブーム」の頃は、まず1000人動員を目指し、比較的簡単にそれをクリアすると次に3000人を目標にする。それが達成できれば社会的認知の獲得を意味していた。さらに5000人超になれば少額でも出演料が支払えるようになる。多くの若手の小劇団がこのハードルをやすやすと越えて、わずかな期間で紀伊国屋ホールや本多劇場というブランド力のある劇場での公演を実現していた。

制作者との話は「劇団が多すぎるんですよね。以前と違って小さなパイを取り合っているのだから」という愚痴になる。大手の新劇団から小劇場演劇の小劇団まで、観客数の減少に頭を悩ましているようだ。

一方では、巨額の予算を投入した劇場製作の舞台が数日で完売になる。その観客の偏在をみていると劇場に通う人間が必ずしも少なくなっているわけではないと思う。絶望的になるほどの状況ではない。パイは思うほどには小さくなってはいないのだ。スターやタレントのブランド力を活用している付加価値(ブランド力)をもった舞台に顧客が偏在する傾向にある、というだけのことだ。

私は「ブームの再来」を期待してはない。当時は、あまり質の高くない集団までが「新奇なことだけが価値」と思い込んでいる不見識きわまりない演劇ライターに取り上げられて、不釣合いな仕立てのスーツを着せられ、それに扇動された観客が劇場に押し寄せているという構図であった。

私が地域に出たのはそんな演劇に立ち会いたくないと思ったのが直接の動機である。観客を劇場の座席に押し込めて、一方向的に舞台から情報を押し付ける非演劇的な舞台に私は辟易とした。寺山修司のひそみにならえば、演劇は舞台が半分つくり、観客がもう半分をつくる、のである。その楽しみを取り上げられたら、何がおもしろくて劇場に来ているのか分からなくなる。

あの頃の客席には、ブームに乗り遅れまいとする同伴者気分や、ガルブレイスのいう「欲望の模倣」による消費行動が溢れていた。

自律的に創客の地平へ。

「ブーム」の否定的な側面ばかりを指摘したが、別の視点からみればでは「ブーム」は芸術団体にとっては「機会」であった。新しい顧客を獲得して、ロイヤルティのある固定顧客を創出し、さらに進化させる、いわば経営的な「機会」であった。あの頃の「ブーム」の渦中でそう捉えて行動を起こした劇団主宰者や制作者がどれだけいたのかは、はなはだ疑問である。世に出る「機会」と捉えた人間は山ほどいただろうが、マーケティング展開の絶好の「機会」と捉えた舞台関係者はほとんどいなかったのではないか。現況をみればそのことは容易に察しがつく。

むろん、小劇場演劇や新劇団の行き詰った現況をつくりだしている要因はそれだけではない。前述した外部環境は抜き差しならないかたちである。あわせてこれも外部環境のひとつであり、非常に残念なことであるが、一緒に走ろうとする影響力のある評論家や演劇記者がほとんどいないことも大きい。現在のジャーナリズムは評価の定まっている大型プロジェクトばかりを取り上げる傾向にある。評論家やジャーナリストに「質のよい舞台と才能を世に出して多くの人たちに観てもらいたい」という気分はなくなっている。そのような気持ちでこまめに劇場に出かけることが、将来の演劇の顧客創造や演劇芸術の社会的認知につながるのにそれがなくなっている。演劇ジャーナリストや演劇評論家はみずからの「使命」を放棄しているとさえ感じる。その意味では、いまの小劇場演劇や新劇団の関係者に対して同情を禁じえない。

きわめて良質な舞台に遭遇することがあっても、新聞劇評はおろか、それが演劇賞にノミネートもされることもなくなってしまった。大型プロジェクトばかりが取り上げられるような環境になってしまった。新しい才能や優れた才能に伴走する者が不在なのである。だからこそ他律的な機会に依拠することなく、いまこそマーケティング・スキルを構築して、自律的に創客の地平に踏み込むべきではないかと考えるのである。

【次回】第一章いまこそアーツマーケティングの導入を/創客へシフトせよ (3)