最終章 公共文化施設の未来をデザインする。(1)

2009年4月1日

公共劇場・ホールや美術館、スポーツ施設などは、あくまでも政策目的を達成するための「手段」であって、むろん設置自体が政策目的では決してありません。そうあってはいけないと思います。地域の社会福祉政策目的、コミュニティの問題解決のための「政策手段」として設置されるべきだと思っています。文化政策はむろんのことですが、それだけではなく、教育政策や福祉政策、医療政策などの、いわば社会福祉政策の「手段」としての公共劇場であり、公共ホールであるべきだと考えるのです。

(館長エッセイ2008.8.8『公共文化施設は社会政策を実現するための手段でなければ』)

指定管理者制度の陥穽を検証する。

2003年6月に地方自治法の一部改正がおこなわれ、「公の施設」の管理・運営について、これまでの「管理委託制度」に代わり「指定管理者制度」という新しい制度が導入されたことは衆知のことである。これは、いわゆる小泉改革の一環で、「民にできることは民に」、「官から民へ」の掛け声で導入された制度である。民間企業の「公の施設」への参入を可能にしたことに大きな特徴のある制度であり、「民がになう公共」という理念に裏打ちされて、「効率的な施設運営」と「住民サービスの質的向上」を企図してはいるが、自治体財政の逼迫を背景に、前者のみがブロウ・アップされているのが現状である。「住民サービスの質的向上」は、置き去りにされている感は否めない。

 むろん、従前の公共文化施設の運営が、多くの場合に非効率であったことを否定するものではない。「経営=アーツマネジメント」という概念がまったくない施設がほとんどであった。毎年、全国公立文化施設協議会による「アートマネジメント研修会」が開催されてはいるが、カリキュラム的にも疑問点があり、実効性はきわめて薄いと言って差し支えないだろう。「ハコモノ」と言われても致し方ないと思わせる実態だったことは認めざるを得ない。したがって、筆者としては、制度自体は必ずしも改悪ではないと考えてはいる。公共文化施設が「経営感覚」を持つためのインセンティブにはなる、と考えている。

 だが、だからと言って、指定管理者制度の根幹にある精神が現状では健全に機能しているとも言い難い。前述したように、「効率的な施設運営=予算の大幅削減」が制度導入の前提のように認識され、また「原則公募」という虚構がまかり通ることによって、従来からの財団法人が萎縮してしまい「住民サービスの質的向上」どころではないという事態を惹き起こしている。これでは「民間ノウハウの導入」など単なる画餅であり、それにより現在するはずだった「住民サービスの質的向上」は巧妙に仕組まれたレトリックにすぎなくなっている。

「原則公募」の言説の根拠となっているのは、総務省自治行政局長の「地方自治法の一部を改正する法律の公布について」(通知 平成15年7月17日総行行第87号) である。前記したが再度一部引用して確認したい。

今般の改正は、多様化する住民ニーズにより効果的、効率的に対応するため、公の施設の管理に民間の活力を活用しつつ、住民サービスの向上を図るとともに、経費の削減等を図ることを目的とするものであり、下記の点に留意の上、公の施設の適正な管理に努められたいこと。

「民間の活力を活用しつつ、住民サービスの向上を図るとともに、経費の削減等を図ることを目的とするもの」のくだりに、「官から民へ」や「民が優れて官は非効率」のバイアスがかかっていることは明白である。

また、指定管理者制度の研究者でさえ「原則公募」と公言しているが、「通知」には「複数の申請者に事業計画を提出させること」が「望ましい」と書いてあるに過ぎない。さらに既述したように、2000年の地方分権一括法によって、地方自治法の第150条と151条が削除されて中央政府の包括的な指揮監督権は廃止されている。「<地方分権一括法>の施行により、中央省庁からの<通達>を根拠にした統制はなくなり、地方自治体の主体的な判断が尊重されるようになった」のである。以上のように2000年の「地方分権一括法」で、「通達」による行政指導は効力を持たないことが確認されているにもかかわらず、自治体側が、上記の総務省自治行政局長の「通知」を地域分権一括法以前の指揮監督権の効力を持った「通達」として誤解しているのである。

 「公募」、「非公募」についてはひとまずおいて、ここでは公共文化施設と場所貸しを専らとする駐車場などを包括する地方自治法第244条「公の施設」に一括して指定管理者制度を被せることの是非を問いたい。

 公共文化施設は、言うまでもなく、人間の関係の集積や経年による経験集積や技術集積が重要な経営資源である。すなわち関係資本(無形資産)を抜いては健全な経営は考えられない類の施設である。関係資本の存在しない公共文化施設は単なるハコでしかない。健全な経営とは、当該地域の住民の「文化権」を担保し、広義の福祉に寄与するサービスの質を高度化することを企図できる、ということにほかならない。「経営」という概念を持っていない施設は論外であるが、本来の地域における公共文化施設は前記のような使命を果たすべき社会的存在でなければならない。つまり、私の持論である「社会機関としての公共文化施設」であるべきと考える。ミッションはそこから導かれる、地域社会の存在価値の明文化でなければならない。「経営」とは、ミッションによって導かれる「新しい価値」を創出するための資源配分の手法である。

組織のリセットよりも、幹部の「更迭」の方が住民にやさしい改革。

 公共文化施設を「公の施設」に準じて指定管理者制度に組み入れるということは、経済的な効率性とともに、施設を運営するための経営資源を数年に一度見直すということになる。一時期、「ハードウェアはあるのにソフトウェアがないハコモノ」というような言辞が盛んに言われたことがある。これは実態を映しているとは言い難い。公共文化施設、とりわけ地域に立地しているそれにあっては、行政や住民との関係づくりがプライオリティの高い仕事となる。ソーシャル・マーケティングであり、コミュニティ・マーケティングである。地域社会に分け入って、その潜在的なニーズを嗅ぎ分け、事業を組み立てて、住民の抱える問題解決を図る。また、日常業務の中で蓄積される住民との関係性が大切な成果となる。そこで生じる多種多様な人間関係や組織との関係が、公共文化施設にとって大きな経営資源となる。実態に即して言えば、このような仕事を進めて「資源形成」を寄与する「ヒューマン・ウェア」が欠落しているということになる。公共文化施設にとって、ヒューマン・ウェアこそが重要な経営資源なのである

 であるのに、である。これを数年ごとに指定管理者を見直すということは、集積された経験値を評価したうえで、場合によってはリセットしてしまうということになる。果たしてそれで、住民サービスの質を担保することができるのだろうか。さらなる「ハコモノ化」を推し進めてしまうことになる。

文化施設という造営物が「地域文化振興」や「地域活性化」や「地域社会の福祉増進」の拠点機能を持つわけではない。それは「手段」の設置にすぎない。そこに配置されているヒューマン・ウェアの品質がセンター機能の優劣を決定することは自明である。「良質な住民サービス」の提供が自治体の使命であるとするなら、指定管理者の選定には当然であるが説明責任はあるだろう。ましてや、それを指定管理料の多寡だけで決定しているのだとしたら、それで自治体による「良質な住民サービス」がどのように実現可能なのかを、競合他社との比較で相対的な評価についての説明責任は果たさなければおかしい。むろん、指定管理料の多寡は住民負担の軽減化を意味するわけであるから、それも品質との比較評価になるだろうことは否めない。ただ、そうであれば、なおさら「良質な住民サービス」を基軸とした説明責任は果たされなければならない。

 私は必ずしも非公募の特命指定が唯一無二の最善策と言いたいわけではない。従前からの行政出資型財団法人から民間企業に指定管理者が変わっても、代わり映えしない事例は枚挙に暇がない。それは民間が民間のノウハウをもって賢明な経営をしているからではなく、従前の財団法人が何もやってこなかったから変わらないだけである。それまで運営してきた組織が、集積された経験値や関係資本とされるような人材の経営資源化に無関心であったことの証左である。それなら指定管理料の多寡で選定されても致し方ない。従前の財団法人の「高かろう、悪かろう」から民間企業の「安かろう、悪かろう」になるのなら、経費の削減という基準のみを適用すれば、その選定は当然すぎるほど当然の帰結である。したがって、民間になっても代わり映えしないような経営しかしてこなかった従来の公共文化施設の方が問題なのである。ならば指定管理者制度の下で評価されて、欠格とされても致し方ない、というのが私の考えである。

 ただ、そうでない公共文化施設については、「公の施設」に一括するのは大いに疑問を持っている。集積されてきた経営資源を瞬時にリセットするのは、地域経営の上では絶対的な損失でしかないと思うのである。

 私は、運営経費の費用対効果をも含めて思わしくない評価がされたならば、経営のトップクラスの更迭をするのが正しいと思う。組織を丸ごと変えてしまうことによる損失は大きすぎるのではないか。リスク・マネジメントの観点からみても、それが無謀な仕組みであるのは言うまでもない。文化施設の経営(アーツマネジメント)の失敗である。エグゼクティブ・クラスには経営責任があるのだから、彼らの「更迭」というだけなら組織の経験値や無形資産は失われることはない。そうであるなら、まま見受けられる経営に無頓着な芸術監督の放埒な劇場運営のリスクヘッジ(歯止め)にもなる。劇場の経営は、エグゼクティブ・クラスの、とりわけ経営トップの考えひとつで右にも左にも動くものだ。だとするならば、組織のリセットではなく、エグゼクティブの「更迭」のほうが、最終受益者である住民にとっては「やさしい改革」である

予算削減がもたらすもの。「負担を先送りしない」という財政論理は正しいか。

 大阪府の橋下知事が、文化予算、教育予算、福祉予算の大幅削減を断行している。ここで錦の御旗のように言われるのが「孫の世代に負担を先送りしない」というフレーズである。基礎的財政収支の均衡を最重要施策であり国是とする人々も、このフレーズを多用する。が、果たしてそれは正しいのか。

 むろん、基礎的財政収支(プライマリーバランス)を確実に黒字化するとし、財政均衡を目指す姿勢を間違っているというのではない。それはあくまでも追求しなければならないが、数値だけのバランスを取り戻すだけで事足りるとは考えられないのである。コミュニティにとって大切なものが失われてしまうのではないかと危惧するのである。

文化予算、教育予算、福祉予算を毎年マイナス・シーリングで大幅削減して最短期間で基礎的財政収支が数値的には均衡しても、各予算の削減がコミュニティを荒廃させてしまったらどうするのか、という疑問が私にはある。経済的な優勝劣敗だけでなく、社会的弱者を社会の隅に追いやったり、社会不安が人々の心を萎縮させたりと、コミュニティが荒廃してしまったら、それを再生するのにどれだけの予算と時間が必要になるのかを考えてみなければならない。私たちは数字の面だけではなく、その意味においても「孫の世代に負担を先送りしない」と考えなければならない。

かつて私は、人間的な共感をベースにしたサービスが21世紀には重要になる、と何回も書いたことがある。文化、教育、福祉、医療など、これらのサービスが十全になされることで、社会は健全に機能し、そこで生活する人々は本当の意味で豊かさを実感すると思うのである。基礎的財政収支の均衡を遮二無二政策目的とするにはいささかの錯誤があると私は考えている。基礎的財政収支の均衡はあくまでも何かを実現するための手段であり、そのことでどのような社会をつくろうとするのかがまったく語られていない。おかしくはないか。ドラスティックに財政の縮小をすることで、本来の目的である健全な社会形成そのものが歪み、人心が荒廃してしまっては政治の責任を果たしていないということになる。無駄は盛大に削るべきである。それにはまったく異論はない。しかし、健全な社会形成を担保する予算はむしろ積み増すべき時代状況にある、と思うのである。

 そもそも、現在の予算のあり方は社会の構造的な変化とともに組み替えるべきであり、ゼロベースで予算の枠組みを考え直さなければならない時期に来ているのではないか。文化、教育、福祉、医療に重点を置いた予算にしなければならない構造的な変化が社会に起こっていることに、私たちは着目しなければならない。戦後復興期、その後に来た高度成長期のパラダイムのままマイナス・シーリングだけで財政均衡を取り戻そうとする作業仮説自体がそもそも間違っているのではないか。「孫の世代に負担を先送りしない」ために、予算総体のゼロベースでの見直しが必要な変化の時代に来ていると私は考える。

【次回】最終章 公共文化施設の未来をデザインする。(2)