Message & Profile 衛 紀生メッセージ&プロフィール

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シニアアドバイザー 衛 紀生

  • 2007-2020年
  • 可児市文化創造センター館長兼劇場総監督

早稲田大学中退後、虫プロダクション企画演出課に勤務。ほぼ同時に演劇批評家として雑誌「新劇」等に連載を始める。70年代後半、山崎哲、渡辺えり子、北村 想、竹内銃一郎らをいち早く評価して「第三世代」のネーミングマスターとなる。80年代後半からBSエンターテイメント・ニュースの演劇キャスターを務め、93年に地域演劇の振興と演劇環境の整備を目的に舞台芸術環境フォーラムを設立。早稲田大学文学部講師。県立宮城大学事業構想学部・大学院事業構想学研究科客員教授を経て、可児市文化創造センター館長兼劇場総監督(2007年非常勤、2008年-2020年常勤)。2021年4月より可児市文化創造センター シニアアドバイザーに就任。
また、芸術文化振興基金運営委員会委員 地域文化・文化団体活動部会 部会長、長岡芸術文化振興財団アドバイザーのほか、十数地域の自治体文化行政にかかわる一方で、文化庁、財団法人地域創造などの委員を務め、あわせて日本照明家協会賞舞台部門、ニッセイバックステージ賞等の審査委員を務める。平成28年度 芸術選奨文部科学大臣賞受賞(芸術振興部門)

衛紀生館長 退任のご挨拶

2021.03.31 舞台を換えて。

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

3月31日をもってアーラの館長兼劇場総監督を辞することになった。むろん、財団職員ではなくなって、業務委託契約によるかたちで可児に月に2回程度一泊二日で訪れることになります。7年前に軽い脳梗塞を患い、その原因が心臓からの血栓が脳に飛んだとの診断で、毎日胸にニトログリセリンのテープを貼るようにと処方されて、3年後の退任を決めました。還暦の齢に、県立宮城大学・大学院研究科の教員との兼務というかたちで可児市に居を構えて、率先垂範で可児市文化創造センターalaを牽引してきましたが、その先頭を切って走るという経営姿勢が難しくなると判断したのです。「3年後退任」の決意を固めた頃に、信頼する人物に相談をして、また職員が私の掲げた「社会包摂型劇場経営」のDNAをしっかりと引き継いでくれているので、あとは心配することはないと自分に言い聞かせての決心でした。

可児市に移り住んで14年、館長に財団専務理事として正式に就任して13年が経ちました。ともかくも、可児市から日本で本当に必要とされる「体温のある劇場」のモデルを発信しなければ、との強い使命感をもっての出発でした。あまり知名度の高くないまちであるし、人口もおよそ10万という小さなまちではありますが、非常勤での1年目にまずやったことは、可児というまちの「強み」(Strength)と「弱み」(Weakness)と「機会」(Opportunity)と「脅威」(Threat)を分析して戦略を立てることでした。経営学でいう「SWOT分析」です。小さいことと知名度の低いことは、逆に強い発信力さえあればインパクトは反比例して強くなる。そのような経営が出来れば、との条件付きで、可児の「弱み」から「強み」に転換できる、と確信して経営戦略の柱に据えました。新日本フィル、劇団文学座との地域拠点契約締結、インターネットでのチケッティングシステム導入、パッケージチケット、当日ハーフプライス等のチケット制度の改革、東京の「ショーウインド機能」を活用した滞在型創造発信事業アーラ・コレクション・シリーズによる「シティプロモーション」、誰も置き去りにしない地域社会づくりを目指しての「アーラまち元気プロジェクト」等は、この「SWOT分析」を基にした経営戦略に紐づけて組み立てられました。

従来からの劇場に対する一般的な「常識」に囚われない経営諸施策だったため、その後5年間にわたって現在のアーラの基礎づくりを共にした、当時の篭橋事務局長には市役所との調整等で過大な苦労を掛けたと思っています。これらの、私も含めて囚われている日本における劇場に対する「常識」は、文化芸術の様々な機能を狭いところに閉じ込めているばかりではなく、それを一部の愛好者の独占物にしてしまっていて、新しい劇場ホールの建設の際には「ハコモノ批判」と「税金の無駄遣い」がつきまとう批判が起こり、劇場音楽堂等の地域での存在に結果として翳を落としてしまっていました。その大本の原因は、「負担と受益の圧倒的な不均衡」です。

そのような劇場をめぐる外部環境は、私が97年に上梓した『芸術文化行政と地域社会』で構想した教育・福祉・保健医療と劇場及びレジデントシアターとの連携による「住みやすいまちづくり」に資する在り方とは真逆の事実でしたし、その1年後に出会うことになり、多くのことを学び、日本での私の考えへの猛烈な逆風に対して風除けの衝立の役割を果たしてくれた、英国・リーズ市のウエストヨークシャー・プレイハウスのコミュニティとの親和的な在り方とも、およそ信じがたいほど真反対の在り方でした。あれから四半世紀、アーラの館長になって前例のない「社会包摂型劇場経営」に踏み込んでから14年、劇場業界、芸術業界には「変化」の兆しがようやく出て来つつありますが、 国民市民に劇場音楽堂等が生きるためのよりどころになる、という合意はまだまだ形成されてはいません。ですから、コロナ禍で「不要不急」と言われるのです。むろん、政府自治体は、劇場音楽堂等と文化芸術の社会的役割への気付きは、実感としてはまだまだ政策化するまでは至っていないというところです。

そのような「常識」の繭玉を内側から打ち破って「新しい価値」をつくる仕事には、終わりはありません。コロナ禍となって、国民市民の皆さんから必要とされる「つながり」を醸成する劇場の役割は、より社会的ニーズの高いものとなりました。「置き去りにされている人々」、「孤立と孤独に苛まれている人々」が、コロナ禍によって焙り出されて可視化されるようになったからです。そのような時機に私が自身の、たとえ身体的な事情であっても退くことは後ろ髪をひかれる思いですが、今度は東京を主舞台にして、日本における劇場の、興行場に過ぎないという「常識」を突き崩す仕事をしていこうと考えています。つまり、アーラや可児市の外側に立って、アーラをはじめとする税金で設置運営している公立劇場の社会的公共的役割が十全に発揮できる環境づくりと、劇場音楽堂等を拠点とした「住みたいまちづくり」を外から応援するスタンスをとることになります。職員たちはアーラの経営方針のDNAをしっかりと引き継いで、それを個々の文脈の中でさらに発展させる能力を備えています。そのような揺るぎない内部環境に、新たに5名のプロパー職員が加わって、より高いアーラの使命を実現する化学反応が起きる、と私は信じて疑いません。そのためにも、私のアーラでの最後の仕事は、組織運営のかなめである「言葉を揃える」ための学習の機会での貢献しかないと思っています。そうすれば、私が退いた来年度から始まる劇場経営のステップアップによって、新しい「社会的処方箋活動の拠点施設」の担い手として、彼らは、きっと新しい景色を見ることになるでしょう。

人生の終わりに近づいて、可児という町に出会い、可児の人々に出会い、辞めていった職員も含めて前例のない劇場経営についてきてくれた職員たちと一緒に仕事ができて、心から感謝しています。長い間、有難うございました。