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コロナ禍で焙り出された「不完全な社会」から「未来」を創造する - コロナ禍での制約で、さらなる顧客志向の「劇場経営」を考える。(承前)

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

「有事下の緊急時」こそ顧客志向に特化する劇場経営を。

劇場と文化芸術の危機管理について、私は1995年2月の世界劇場会議国際フォーラムで次のような体験をしています。1994年1月17日にロサンゼルスのノースリッジ地方を震源としたマグニチュード6.7の直下型地震が起きました。死者57名、負傷者約5400人にのぼる震災で、高速道路が崩壊するなどの被害があり、米国史上最も経済的損害の大きい地震と言われていました。そのまる1年後の95年1月17日に、阪神淡路大震災が起こることになるのですが、1か月後の2月11日、12日に開催された世界劇場会議国際フォーラムで基調講演に招かれていたのが、当時全米を代表する地域劇場であるバークレー・レパートリーシアター(BRT)の経営監督であったスーザン・メダックでした。基調講演の演題は「演劇鑑賞と観客開発」で、建物は次々に建設されていくものの顧客が存在しない、という当時の日本の「ホール建設ラッシュ」による公共文化施設のデカップリングの実情を如実に物語っているタイトルでした。

スーザンは1990年にBRTの経営監督に就任しています。当時、地域における劇場等の文化施設の在り方を研究していた私は、1950年代~60年代にかけて、演劇のブロードウェイ一極集中に異を唱えて若手演劇人やニューヨーク大学の学生たちを駆り立て、フォード財団が全面的に支援した「リージョナルシアター運動」に注目していました。そのプロセスで全米芸術基金等の個所で「Susan Medak」の固有名詞は散見することはありましたが、彼女を「それ」と認識し始めたのは米国西海岸で高水準の演劇をラインアップするBRTのスタッフ、しかも「経営監督」という要職に就いた時からでした。4年前に私の劇場経営の師であり、旧友であるマギー・サクソンを世界劇場会議国際フォーラムに招いた時、マギーとスーザンは交流があることを知りました。スーザンは、確かなことでは昨年もBRTで、その敏腕を振るっているようです。

95年の世界劇場会議の時に、私は阪神淡路大震災のボランティアとして神戸市に入っており、その1年後に立ち上げる「神戸シアターワークス」のオーガナイズをしていました。そこで、フロアにいた私はスーザンに「ロサンゼルス地震の時にBRTは何をしたのか、それは何故なのか」という質問をしました。帰ってきた彼女の答えは、「いつもと変わらず公演をすることが、市民に余分な動揺を与えないことです」というものでした。急性ストレス障害に悩まされる子供たちの「心のケア」と、孤立と孤独の状態にある仮設住宅の「コミュニティづくり」を企図して神戸シアターワークスを組成しようとしていた私の期待する答えではなかったのですが、「市民に余分な動揺を与えない」という普段と変わらず舞台を上演する事由に、私は納得した記憶があります。何としてでも舞台は上演するという芸術志向ではなく、普段と違う対応をすることで市民に心理的なプレッシャーを与えることを回避する「顧客志向」が、彼女の考えた危機管理だったと腑に落ちました。顧客である商圏の市民のこころに働きかける「危機管理の在り方」ではないでしょうか。

9月11日の新型コロナウイルス感染症対策分科会で演劇公演やコンサートの観客数の制限を、キャパシティの50%から緩和する措置が発出されるのではと仄聞します。諸手を挙げて歓迎するのですが、コロナ禍が顧客心理に与えた恐怖心がそれによって氷解するように癒えるわけではありません。飲食店や宿泊施設と同様に、すぐに客足が従前のように戻るとは思えません。「ソーシャル・ディスタンス」、「三密回避」、「徹底した行動変容」という言葉の刷り込みによって植え付けられたウイルスとそれを運ぶ他者に対する恐怖は、より具体的に、科学的に心に働きかける経営施策が必要となります。7月だけで家計の消費支出が「10.1%」も減少しているのです。心理的負担のみならず経済的負担なく、「安心安全」な場所として劇場音楽堂等を仕立て直すくらいのマインドで、商圏の市民と潜在顧客の立場に立って、あらゆる仕組みを見直さなければならないと思います。私は思いもよらなかったコロナ禍という危機下で、ソーシャル・ディスタンス、三密と、きわめて親和性の高い劇場経営というサービス業に携わる機会を得たという気持ちでいます。これをどのような経営手法で乗り越えるのか、私のラストランに課せられた宿題だと考えています。

「医療的検査」とは目的のまったく異なる社会的投資としての「社会的検査」を。

新型コロナウイルスの蔓延は、サービス業たる劇場にとってはお客様の命にかかわる、何としてでも解決しなければならない最優先の経営課題であることは言うまでもありません。「手指消毒」、「検温」、「マスクの着用」(マスクの予備は必須)は当然のことです。これだけで対策をしているとお客様は考えるでしょうか。可児市文化創造センターalaでは、3月に始まった大規模改修を経て、劇場部分以外の共有スペース、諸室が10月にはオープンします。その直前には、全職員、常駐する技術、警備、設備、清掃、受付等の委託業者社員のPCR検査と、その後の定期的な抗原検査を実施することを指示しました。PCR検査はその時点での未感染が判明するだけで、無症状者に大量の検査をするのは意味がない、との意見があります。大阪府庁で開かれた専門家会議で「ソーシャルディスタンスは不要」「映画館がなぜ自粛を。みんなで騒ぐ行為をやめさせることが重要」などと訴えた京都大学ウイルス・再生医科学の宮沢孝幸准教授をはじめ、関西の研究者、識者からは、ウイルス感染者を焙り出すPCRの「いつでも、どこでも、誰でも」のニューヨークモデルは「医療危機」を招くだけとの批判的言辞が繰り出されています。一聴に値する意見とは思います。「ソーシャルディスタンス不要論」などは、劇場人として、あるいはアウトリーチやワークショップといったコミュニティ・プログラムを年間500以上実施するアーラの館長としては同意したい誘惑に駆られます。その通りですが、これは無症状の感染患者を焙り出して医療崩壊を招く「医学的検査」とは違って、お客様や来館者が安心してアーラを訪ねる環境づくりとしての「社会的検査」をマーケティングの見地から主張するのです。経済活動や社会活動を動かすためには、対面する相手に安心感を与えることがどうしても必要と考えます。それらの活動の多くは、Face to Faceであることを求められるからです。PCR検査は、その時だけの非感染を証明するだけで、持続継続的な非感染を保証するものでないことは自明のことです。ただ、経済的対策と社会的対策を可能とするためには、向かい合う他者の「安心感」が必要です。それこそが「社会的検査」の重要な要素です。「誰かの安心のため」の検査であり、経済を円滑にまわして、「つながりの棄損」等の社会的損失を回避するための検査です。

そのためには、現在のPCR検査費用は高額に過ぎます。新型コロナウイルスを、現行の感染症法二類の分類のままでよいのか、季節性インフルエンザと同等の五類にすべきとの意見までが感染症専門家から出ています。二類のままだとPCR検査は行政検査で公費負担ですし、隔離等の感染拡大対策も義務づけられます。確かに現行のままでは医療機関と保健所の負担は重くなります。ただ、五類となると、感染力を持っている無症状者が野放しになってしまいます。劇場人の立場で言うことが許されるならば、五類だと劇場からの感染者の出るリスクをマネジメントすることが困難になります。ただ、二類相当ならば、PCRをはじめとする検査は保健医療行為となって、検査費用は公費で賄われます。私はどちらが良いということではなく、新型コロナウイルス自体が、従来から想定されていた「感染症分類」を無効にする性質を持ったものであり、従来の分類の枠組みに当て嵌めようとすることが出来ない、と我々の「常識」を試すものではないかと考えています。しかし、現在の状況下では、劇場音楽堂等は過重な出費はあったとしても、リスクマネジメントを施してコントロールできる選択肢をとるしかないでしょう。

緊急対策として新設された「文化芸術復興創造基金」に未執行予算の移管を。

劇場部分のリニューアル・オープン後の2021年1月から3月までの今年度事業と、来年度事業のPCR検査は、出演者、演奏者、同行する技術・制作スタッフのすべてに義務づけることを6月末の幹部会議で決定しています。国からの補助金採択を受けている芸術団体と劇場音楽堂等は、それぞれ6月3日と6月12日に、芸術文化振興基金から、緊急時対策として急遽コロナ予防対策費が対象費目に加えられ「PCR、抗原、抗体の各検査」も補助対象になるとの文書が発出されています。その額は、採択額の10%を上限とする、とされています。それ以上の負担は当該芸術団体、劇場音楽堂等に発生します。ただ、オーケストラに至っては、約80人~100人の演奏者とスタッフが検査対象となり、その負担ははなはだ過重なものとなります。財政法上は難しいのですが、当初予算、一次補正予算、二次補正予算の未執行が多く出ることが予想されています。おそらく数億はくだらない相当な額になります。どれだけ創造に関わる補助を追加して積み上げても、観客・聴衆が心理的な強迫によって来場しなければ、それは税金をドブに捨てるに等しいことになります。家族から劇場に出かけることを反対された、というエピソードがあります。あるいは、その余剰を創造費に追加補填するだけでは、アーチストの表現欲をただ充たすだけになります。未執行の残余予算を、コロナ禍対策として新設した「文化芸術復興創造基金」に移管することは出来ないものか。芸文振の運営委員会で先日提言しました。これを活用して「安心と安全」な顧客環境を整えることがコロナ禍における「文化振興の基本戦略」ではないかと、私は考えています。

その場合の「裏負担」は、舞台に心をほどいて、存分にパフォーマンスを満喫していただくための、見方を変えればコロナ禍での「創造費」に組み込まれるべき経費でもあると言えます。あるいは、ソーシャル・マーケティング経費とも言えるのではないでしょうか。最低3年間は続くと思われるWith Coronaの時間をどのように凌ぐかが有事における政治的・社会的な基本戦略なのではないでしょうか。それまでは、自主文化事業分野や商圏エリアの感染状況に注視しながら、手指消毒、マスク着用、検温はむろんのこと、顧客の皆様の立場に立ってご理解を得ながら、慎重に劇場経営を進めることが求められるでしょう。事業関係者はもちろんのこと、お客様にも「接触確認アプリCOCOA」のインストールをお願いすることも決定しています。

キャンセル制度の緊急時対策の拡張更新。

お客様はチケット購入時にどの席に座っていらっしゃるかを捕捉できるのですが、万が一の場合の濃厚接触者は、インターネット・チケッティング・システムできわめて短時間に特定できます。「体調不良」の方へ来場のご遠慮のお願いと、従来から設けてある2週間前までの「キャンセル・サービス」を拡張させて、当日でも対応できるように制度設計するようにと指示しています。従来は「2週間前まで80%バウチャーで返金」であるのを、「当日可100%バウチャーでの返金」にして、体調不良なのに無理して来場してしまうことを防ごうとしています。微熱程度でしたら、チケットを購入してあるのだからと無理してアーラに見えるのを防ぐために「キャンセル・サービスの緊急措置」としての拡張は大切なリスクマネジメントだと思います。大切なのは、これらの告知をすべて「チラシの表面」に表示します。デザイン的には見映えを相当に損ねてしまいますが、私は安心してご来場していただくための重要な「メッセージ」としてチラシとウェブサイトでの事業告知は有事下の緊急措置を付加すべきと媒体を位置づけています。さらにエアコンディショナー使用時の「換気能力」についても、「〇〇分ですべての空気が入れ替わります」という文言も、お客様や来館者に安心感をもたらすことになり媒体には明示する必要があるでしょう。

むろんアーラでは、個人事業主のアーチスト、スタッフが、創造事業のみならずコミュティ・プログラムやセミナーの多くを担ってくださっていますし、大型市民参加事業ともなれば、外部スタッフの数は40人前後にもなって、そのほとんどが可児市以外の地域、特に東京から短期・長期に滞在するスタッフとなります。彼らの検査もすべて、昨年度のPCR検査費用に公費を充当することはまさしく「市民のために費やす」のであってまったく問題はありません。しかし、財源には限りがあるので、その先は可児市役所と文化庁、芸術文化振興基金に緊急枠として予算の手当てを提案協議するしかないと考えています。

「制限撤廃」となっても、小劇場の換気能力には注意する。

今後最短でも3年程度はWith Corona下でのプロジェクト実施が、劇場音楽堂等でも芸術団体でも強いられるのですから、繰り返しますが、これは公的な支援で、私は「文化芸術復興創造基金」でなされるべきと考えます。ともかくもお客様と来館者とコミュニティ事業参加者の安全と安心が最優先案件ですので、これを抜きにコロナ禍での劇場経営は成立しません。文化庁、芸術文化振興基金には近々の運営委員会で発議するつもりです。私共のような劇場音楽堂等以上に、芸術団体は、たとえ対象経費として認められているとしても、50%自主財源からの拠出になっています。それが緩和されるという期待もあります。70%から80%という噂が耳に入ってきますし、全面的に制限撤廃という方向も考えられているようです。このパンデミックでの経験値から、演劇やクラシック音楽のような、舞台と観客が対面する環境では換気にさえ注意すれば、飛沫による感染は起きにくいというエビデンスが確認されていることからの「制限撤廃」なのでしょう。注意すべきは、小空間での催し物の際に、空調の換気機能の確認をして、換気機能が機器にないならば、休憩時間を20分程度に延長するなどの措置をとることでしよう。

客席稼働率の制限と「指定管理者制度」の揺らぎ。

いささか旧聞となりますが、5月4日に内閣官房コロナ対策室から発出されたガイドラインを読んで、私は目の眩む思いになりました。左右前後をソーシャル・ディスタンスに沿って1.5~2mを離す、という客席の配置が促されていました。これでは、最大キャパシティの最大20%、実際に客席を使って実証したところによると17%しか稼働できないことになります。無料での貸館貸室を6月1日から始めた名護市民会館のシュミレーションによれば、1054席の大ホールが140席までとする、とのこと。これでは13.28%でしかありません。内閣官房コロナ対策室のガイドラインで仮に公演を実施しても、チケット収入は満席でも50%の減収となり、仮に複数ステージを実施できても、地域劇場では、それに加えて滞在費が積み上がるので、カンパニー総員の宿泊費+日当分の支出が増えることになります。その後は東京都が先行して「キャパシティの50%」というガイドラインとなりましたが、とは言っても必ず大幅な減収となります。これは劇場音楽堂等も芸術団体も同様で、公演を打てば打つほど赤字が累積するという経営的には負のスパイラルに入ることになります。これによって、おそらく「指定管理者制度」の「制度自体」に一定の「揺らぎ」と「動揺」を与えることになる、と私は考えていました。

指定管理者への一種の制約となる自治体からの「仕様書」には、年間の事業数と内容があらかじめ協定で決められていることから、とりわけ劇場音楽堂等の民間指定管理者にとっては、客席稼働率の制限は、従来からもリスキーであって仮に「事業赤字」になれば管理費から補填するしかなかった自主文化事業、なかでも招聘型の鑑賞事業の収支の避けようのない悪化は、客席稼働率制限の解除がいつまで続くかによってですが、累積する事業赤字に耐えきれなくなるのではと予想できます。これでは、将来を見通した経営計画を立てるすべはありません。自治体系財団とは違い、「住民への公共的責務」として経営継続するモチベーションは、わずかな例外を除いては、民間には当然のことながらありません。民間指定管理者は収益をあげる「ビジネスチャンス」として参入しているのですから、なくて当然です。「客席稼働率」の制限継続の先行きの不透明感は、それによる赤字の累積が十分な撤退事由となります。ましてや先が全く見通せないコロナ禍では、指定管理業務継続の選択は期待できません。参入の出発点から見ても、それは至極適正であり、妥当な経営判断と考えられます。収益が見込めず、しかも赤字が累積するとなれば撤退が唯一の選択肢となるのは想像に難くありません。おそらく来年度以降の指定管理者制度の大きな地殻変動は免れないのではないでしょうか。

仮に制限の撤廃となっても、「第三波」が日本を襲うことになれば、再度キャパシティに対する制限は必ず設けられるのですから、経営の不安定感から逃れることは出来ない不透明感はつきまとうのです。

<追記>この原稿の推敲をしている段階で、キャパシティの50%制限が9月19日をもって撤廃される、というニュースが入ってきました。むろん、もろ手を挙げて歓迎することです。ただし、この措置はあくまでも「一時的」であることに留意しなければなりません。「第三波」が来れば、再度の制限が発出されることになります。そのあいだに「クラスター」を出すようなことがあれば、制限が厳しくなることも予想できます。また、大規模改修を経て、受け渡し後は「成人式」を催行して、1月下旬の「ニューイヤー・コンサート」から順次自主事業が再開します。キャパシティに順じて満席分のチケット販売が開始されるのですが、緩和措置が「一時的」であるということは、中途で制限が発出されることもありうるわけで、そうなると「払い戻し」のみならず、間隔をあけた配列席での再販事務もきわめて煩雑な作業となります。そのリスクは排除しきれませんが、出来るのは販売時期をどのように見極めるかではないでしょうか。

「顧客維持と関係強化」による地盤がためと「パレートの法則」。

前段の「顧客維持」での「20%の顧客が80%の利益をもたらす」という「パレートの法則」に沿った可児市文化創造センターの「ヘビーユーザー」の抽出には、2007年の非常勤での館長就任時に導入を決めたインターネット・チケッティング・システムによって構築されている顧客データベースの分析解析が強力な機能を発揮しました。まず、客席稼働率に制限があり、しかもコロナ感染という心理的な障壁もあわせてあり、従来からの顧客が動くかどうかはまったく不透明な時に、私たちが出来ることには限りがあります。客席制限に対応してチケット料金の値上げをする「積算型の価格政策」というのも選択肢のひとつですが、これは「ダイナミック・プライシング」に分類できる価格決定の考え方です。ダイナミック・プライシング(Dynamic Pricing)とは、商品やサービスの価格を需要と供給の状況に合わせて変動させる価格戦略で、「動的価格設定」「変動料金制」「価格変動制」とも言われていますが、私個人のマネジメント定見からは、これは「生産者主権」「主催者主権」の価格政策であり、「顧客志向」「市民主権」を基本とする私の地域劇場経営のスタンスからは最初から選択肢にはなく除外してあります。総務省の「家計調査」によれば、現下のコロナ禍で「趣味娯楽費」が4月段階で35%も低下しているのです。したがって、「いま」何を為すべきかをしっかり考える必要がある、と危機感を持って言わざるを得ません。

「価格弾力性」からWith Coronaでの企画の在り方を顧客分析で洞察する。

そこで、まず考えなればならないのは、文化芸術サービスの「価格弾力性」です。「価格弾力性」とは、ある製品・サービスの価格変化に対して需要や供給がどの程度の割合で増減するかを示す指標で、例えば、10%の値上げをすると需要が20%減るサービスがあれば、需要の価格弾力性は「2」となります。これでは値上げを断念するしかありません。劇場の文化芸術の鑑賞サービスには多様なジャンルがありますが、分かりやすく「クラシック」「演劇」と「ポップスコンサート」で考えてみると、前者はチケット価格を上げると需要は比例して少なくなる、いわば「価格弾力性の高い」サービスと言えます。一方の「ポップスコンサート」やタレントの出演している「ミュージカル」などは、熱烈なファンや追っかけファンによって支えられているケースが多いので、ある程度までの値上げは許容されて「価格弾力性の低い」サービスと言えます。

可児市文化創造センターの過去5年~6年の顧客データ分析をすると、上記の「価格弾力性」に類似する傾向が見えてきます。インターネット・チケッティングをする会員比率を抽出すると、地域拠点契約の文学座は86.3%~79.1%、新日本フィルの「サマー・コンサート」と「ニューイヤー・コンサート」を延べて80.5%~72%であり、データベースで管理されているので、前述の顧客維持を企図した「お元気ですかポストカード」でも「ヘビーユーザー」はきわめて短時間で容易に抽出できます。一方の「ポップスコンサート」では、過去5年の出演者は岩崎宏美、小椋佳、布施明、森山良子らで、アーラの鑑賞者年齢に合わせた企画なので、「熱烈なファンや追っかけのファン」という「価格弾力性」に影響を与えるという点では、いささか下駄を履かせないといけないですが、71.8%~54.6%で平均値は62%となります。その場合は「後援会・ファンクラブ」に割り当てられるチケットが約7割を占めるのが商慣行ですので、商圏の会員への配券はきわめて少なくなり、チケットの希少性が高くなります。あわせて、遠方からの観客比率が飛躍的に高くなって、満杯の客席にはなりますが「一過性の顧客」が大勢を占めますので、「ヘビーユーザー」としての歩留まりはほとんど見込めず、劇場自体のブランディング・マーケティングでは「うまみ」のない事業となります。したがって、出演者や演奏者のタレント性よりも、パフォーマンスの卓越性と費用対効果に対するシビアな姿勢と、それを見極めるために必要な相場観が厳しく求められます。

あわせて、インターネット・チケッティングを独自の仕組みを設計して運用している可児市文化創造センターでは、仮にコロナ感染者が出ても、どの席に座っていた方かが瞬時に判明して隣席の方の特定もすぐにできます。直近の3年間の分野別の会員比率は、新日本フィルコンサート(79.3%)、文学座(82.2%)、アーラコレクション・シリーズ(69.7%)、シリーズ恋文(81.5%)、ポップスコンサート(57.9%)となっており、域外からの入場者が膨れ上がるような企画はできる限り回避することと、仮に感染者の出た場合の危機管理として濃厚接触者の容易に特定できるシステムを設けることは必須と考えます。たびたび旅先で見かける、小都市での客席指定のない、あるいは入場無料の事業は危機管理の点で絶対に避けることが必要と考えます。顧客データの蓄積がないと、仮に万が一にも陽性反応者が出た時の危機管理上のミスと言えます。むろんこれは、貸館使用においても厳に慎重を期す必要があろうかと思います。貸館貸室事業は、言ってみれば「場所貸し」の不動産業に似ています。ここでは、感染対策は自主的な管理に委ねられます。アーラの貸館貸室の利用者は例年に比べて減少傾向にありますが、私はこの事業に対して非常に危機感を持っています。この「減少傾向」に対して、自治体が「利用料金収入」の補填をしているところもあります。全体の4分の1程度です。むろん、その裏には、当該自治体にある指定管理者の離脱という危機感があるのは疑いのないところです。

インターネット・チケッティングの顧客動向を見ると危機下における事業制度設計に、とても参考になる分かりやすいデータがあります。館長になって3年目にオリジナル企画として始めたリーディング公演の『シリーズ恋文』の顧客動向データがそれです。当時、初年度から立ち上げた滞在型演劇制作事業のアーラ・コレクション・シリーズでのキャスティング交渉が困難を極めていました。「可児って何処にあるの?」「そんな田舎で滞在型って出来るの?」という、基本的には俳優の事務所の意向で、さらに所属事務所はテレビ等の映像出演や雑誌マスコミ取材で露出することがその俳優のバリューをキープないしは高める手段を重視しますので、東京からおよそ3時間半の可児での滞在は現実的ではなかったのです。そこで稽古から照明の明かり合わせ、ゲネプロ、本番2回を計5日間の滞在で完遂する、俳優二人によるリーディング公演を企画して、演出家と出演者に「可児体験とアーラ体験」をしてもらってアーラ・コレクション・シリーズのキャスティングとスタッフィングをスムーズにさせようと考えました。その後続いている『シリーズ恋文』の企画にはそういう裏事情に対応した企図がありました。発想の原点は、可児のスーパーマーケットのバローで、プライベート商品(PB)が急速に増えたことでした。演出費、出演費という直接経費以外の経費を可能なかぎり削ぎ落すことで、費用対効果に有意なメリットのある自主製作創造事業になると閃いたのです。

地域の小都市のドラマリーディングが「クリティカル・マス」を実現する。

この企画で一気にサービスが定着する「クリティカル・マス」を実現する条件は、企画内容的には「共感と共鳴と同意」の形成企図です。それらが急速に客席に広がるもので、当時は演劇でさえ未見の市民が多かった可児市という地域で「ドラマリーディング」という上演形式が受け入れられるような出演者でなければならないと考えていました。クララ・シューマンとヨハネス・ブラームスの往復書簡や哲学者アベラールとのちに修道女となる17歳の少女エロイーズの往復書簡などにあたりましたが、「リーディング」に不慣れな市民の心を揺るがすものではないと判断しました。行き着いたのが秋田県二ツ井町(現能代市)で10年間開催していた全国公募の「恋文コンテスト」の入賞作でした。その入賞作をまとめた分冊から構成した、素人の書き手の普通の言葉で綴られた「手紙」を読む、というこれはまさに「天の配剤」でした。そして、ドラマリーディングですから、定型的な舞台を創ってしまえば、その後の舞台美術製作費は不要となり、俳優も台本を持って舞台に立ちますから台詞を憶える必要がなくなります。ですから、比較的ネームバリューのある俳優・タレントさんをキャスティングできる環境を整えての舞台製作となります。

この『シリーズ恋文』のチケット分析では、二回の転換点・分岐点が抽出されています。一つは、演劇を観たことのない市民がほとんどだった可児市で「ドラマ・リーディング」という上演形式をどうやって根付かせるか、に筋道が見えてきて一般売りのシングルチケットの割合が急速に下がって「まとめ買い」のパッケージ・チケットとビックコミュニケーション・チケットの比率が上がって課題解決をしたティッピング・ポイントでした。『シリーズ恋文』の第一回公演は西川信廣演出、松山政路・山本陽子出演でしたが、1年目ではさすがに一般の単券売りと招待の比率が圧倒的に高かったのですが、3年目にパッケージチケットでの会員の購入比率が急に高くなります。この3回目が最初のティッピング・ポイントとなりました。演出はマキノノゾミで、この年「マキノノゾミイヤー」として一年中の演劇舞台はすべて彼の作・演出によるものとした企画年度の『シリーズ恋文』で、特にこの年のアーラ・コレクション・シリーズの『高き彼物』は、可児公演だけで1765名という、いまだに破られていない記録的な客席稼働率を叩き出して評判となった作品でした。とてもヒューマンな、まさに「共感と共鳴」を通底音とする舞台でした。マキノ作品は前々年に『東京原子核クラブ』を、前年に『赤シャツ』をやっていて、マキノノゾミという作家が、可児市をはじめとする30万商圏で支持を受ける質を持っているという確信はありました。『東京原子核クラブ』の観客動員数はおよそ32%で、いわば「ガラガラ」だったのですが、休憩時間の喫煙所で観客の皆さんの会話を聞いていて、マキノノゾミとしいう作家と地域の「相性」が極めて良いことを確信したのです。

あわせて「恋文」の第三回公演は、出演者が佐藤B作さんと紺野美沙子さんであったこともあって、パッケージチケット、ビックコミュニケーションチケット等の購入者が想定外に急増したことで2回目のティッピング・ポイントが推察できました。さらに『シリーズ恋文』が、初期購入者であるイノベーター(2.5%)から拡大してアーリー・アダプター(13.5%)の購入者が開発され、アーリー・マジョリティー(34%)への展開となる境界線に、この公演がその時あったとも推察しています。この境界を越えて、普及率が急上昇して、一気にサービスが定着するという、経営学で言うエベレット・M・ロジャースの「イノべーター理論」に沿った「クリティカル・マス」の法則の実現が起きたと、今になると思えます。そして、アーラの「看板企画」となったのが5年目の出演渡辺徹、石川さゆり、演出東憲司の年です。前年のおよそ137%のパッケージチケット数増加、初年度の336%増にもなりました。この「クリティカル・マス」によって『シリーズ恋文』と「リーディングという形式」はすっかり可児に定着したのです。さらに、能代市二ツ井への「里帰り公演」、豊田市への地域公演と拡がったのです。

PCR検査は観客・聴衆が心から楽しめる「安心・安全」への投資。

さらに、With Corona下での企画には、劇場という場所が、繰り返しになりますが、「安全で安心」できる、「心がほどける時間と空間」を過ごせる環境をつくることが必須です。そして、「イノベーターからアーリーマジョリティ」に向かう、商圏内に一種の「熱狂」を起こす必要があります。経営学でいう「クリティカル・マス」です。そのためには企画内容と、そのマーケティング戦略に工夫が凝らされないといけないのですが、With Corona下でのプロジェクトの「クリティカル・マス」を実現するには、最低条件として事業に関わるカンパニー総員のPCR検査実施による「安全と安心」はおそらく大前提となるでしょう。今後どのような局面になるかは不透明ですが、現下ではPCR検査はあまりに高額です。ただし、検査経費の負担は非常に大きいので、全体のバランスを保って事業数を減数して実施するなどの経営的な配慮を施すことが肝要です。

また、繰り返しになりますが、観客・聴衆の濃厚接触者対策としては、個人情報の問題もあるのでお願いベースではありますが、事前にウェブサイトやチラシで新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA)のインストールをお勧めすることもあるのではと考えています。60%の普及率にならないと有効性はないと言われていますが、「コロナウイルス感染対策」に劇場が神経を配っているとのマーケティング・アピールになって、顧客の心理的な障壁に働きかけて「安心・安全」な環境でパフォーマンスに向き合えるのではないでしょうか。新宿・モリエールでの「舞台クラスター」がマスメディアで大きく取り上げられただけに、このようなアピールも心理的なハードルを下げるための一助となります。「カンパニー全員のPCR検査完了」とともに、ことある毎に「安全対策」をアピールすべきだと思います。地域の演劇鑑賞会への巡回公演をしているカンパニーから、地方の皆さんが「コロナ感染に非常に神経質」になっているという報告があります。また、可児地域でも、東京をはじめとする都市部の感染状況を「異境」と見る感覚は疑いなくあります。ですから、何回でもリピートして「安全な場所」の刷り込みをするくらいのマーケティング戦略を立てるべきでしょう。

客席稼働率への制限にどのように対処するか。

それでも、前述したようにソーシャル・ディスタンスによる客席稼働率の制限は緩和されましたが、だからと言ってただちに「経営困難」に直面することが回避できたということではありません。9ヶ月ものあいだ自粛を余儀なくされ、生活の制限を受けてきた人々にとって、制限緩和で直ちに心理的強迫から逃れられるものではありません。未対策のままでは、その内向的になっている顧客心理に手をこまねくだけであり、何らかの対策と手当ては不可避です。ここでも重視しなければならない対策の出発点は、市民と商圏顧客の「生の舞台」への訴求をいかにして充たすことが出来るかの「顧客志向」と「感染対策」による「安心安全」をどのように担保するかです。劇場経営の業態をサービス業と規定する以上は、お客様の欲求(ウォンツ)をいかに充足していただく環境を用意できるかを最優先に、劇場側と芸術団体側の利害調整を共調して進めるべきと考えます。可児市文化創造センターalaでは、客席稼働率の制限に対しては、公演回数を増やすことにする意思決定をしました。これには芸術団体との必要となる経費をめぐってのタフな折衝になることが必須となると、いまでも考えています。ともに出来るだけ「リスク回避」はしたいとの利害は共有しているのですから、ギリギリの協議となりますが、落しどころは必ずあります。

従来は、公演を言い値で買ってきた傾向の強い地域の劇場音楽堂等には新しい経験となりますが、それをスルーすることは絶対に出来ません。地域拠点契約を締結している新日本フィルは直近の「ニューイヤー・コンサート」(指揮上岡敏之)では、入場制限があるならば、「休憩なしの70分程度に演奏時間」を少し刈り込んで、通常1回公演を2回にすることを検討していました。そして3月に予定している同じく地域拠点契約を結んでいる文学座の『昭和虞美人草』(作マキノノゾミ 演出西川信廣)では、2幕仕立てのままにするか、ひと幕をもうひとつ割って3幕ものにするかにするかは演出と劇作家の判断に委ねます。通常、幕を割ることは観客の「劇的創造力」に深くかかわっており、全体の流れが劇的な「説得力」に微妙な変化をもたらして演劇的な成果を左右するので、これは劇場側の判断ではなく、あくまでも演出家と劇作家の専権事項です。しかし、通常の2回を3回公演にして、圏内の人々の生の舞台芸術へのウォンツに出来るだけ応えることを今年3月段階の会議で決めています。ともに地域拠点契約の2つの芸術団体は、それぞれカンパニー総員のPCR検査を行って可児に来てもらうことは自明のことです。

「無観客の映像配信」はどのように位置づけられるのか。

一方で、コロナ禍では「無観客」の映像を配信することが一種の流行りになっていますが、私はこのスキームには違和感を持っています。慎重になるべきとの態度です。私たちは「ライブ」であることで、舞台上と観客のあいだに起こる「想像力と創造力による共感と感動の化学反応」を「強みとして持っているのであり、それをやすやすと手放すべきではないと考えています。スポーツと舞台芸術での「無観客」には決定的な相違があります。スポーツの観客は勝ち負けを競うパフォーマンスに対して「第三者的な立場」でエキサイトして応援するのに対して、舞台芸術の観客は、舞台でのパフォーマンスに対しての「共同生産者」であるわけで、これは決定的な違いです。「やっぱり生がいい」の顧客感覚にはそれだけの重要な根拠があるのです。「共同生産者」ということは、舞台と観客のあいだには、不断の交流とやりとりというコミュニケーションが行われているのであり、その実態は「想像力と創造力」によって演劇や音楽を理解して、観客・聴衆は「わたしだけの物語」をつくる「主体」となっているのです。これは演劇でも音楽でもダンスでも、あるいは美術でも同様の化学反応です。コミュニタリアニズムを代表する政治哲学者アラスディア・マッキンタイアは、人間とは「物語」を紡ぐ存在であると言っています。「物語=ナラティブ」を紡ぐことで、人間は「何かを理解する」と規定しています。誰か「他者」を理解する時も、難解な芸術を理解する時も、現代美術を理解するときも、人間は「想像力と創造力」を働かせて「自分だけの物語」を紡ぐ存在であり、それは、「理解」を通した価値交換の相互関係であるとマッキンタイアは定義しています。

観たことのある歌舞伎狂言をもう一度テレビでの劇場中継で見ても何ら違和感を覚えないのに、特に「現代演劇」の劇場中継には記録的価値の以外には何もなく、何故まったく面白くないことを経験した方は少なくないと推察します。それには上記の構造が大きく、強く影響しているのです。劇場で生の舞台に接している時は、自身の意志で、視覚的にも聴覚的にも自主的に選択して、いわば「カット割り」をしているのに対して、劇場中継をはじめとする映像では、担当ディレクターの鑑賞経験を「追体験」しているのに過ぎないだけなので「面白くない」のです。映像での鑑賞には、鑑賞者が絶対に主体性を持ちえない断絶のコミュニケーション構造があるのです。その映像は「情報」であり「記録」でしかないのです。私たちが劇場やホールで鑑賞する演劇や音楽は決して「情報」ではありません。「交流」の生じる「ナマモノ」なのです。芸術団体が「ナマ」のパフォーマンスにこだわるのには、それだけ深く、重要な根拠があるのです。

そのような科学的根拠に対して、文化庁の一次補正の費目に「無観客配信の費用負担」が入る予定と仄聞して、私は激しく憤りました。しかも、当初案では「収支構造の改善」と明示していたのです。公募要領の事業の趣旨には「文化芸術団体等の事業構造の抜本的改革を促し、活動の持続可能性を高める」とあり、補助する事業名を堂々と「文化芸術収益力強化事業」としていたのです。文化芸術への当事者意識があるべき文化庁の政策立案者が、言うに事欠いて映像配信による「事業の収支構造の抜本的改善」などと発言してよいのか。心底、呆れ果てました。現場がライブ(生)に固執する意味を全く理解していないことに、失望しました。現場が何にこだわっているか、何を問題としているかに寄り添うことなしに、文化行政の政策立案と文化予算の制度設計及び執行は絵空事に等しい、画餅でしかないと私は考えます。

私がとりわけ社会包摂事業で主張しつづけて、渇望しているEBPM(Evidence-based Policy Making 根拠に基づいた政策立案)など到底覚束ないことは、これでは明々白々です。地理的距離や地政学的障害や経済的困難のために劇場音楽堂等にアクセスできないハンデキャップ解消のためにネット配信するのは財政的な余裕があれば是非とも導入すべき有力な経営の選択肢だと思うし、また心身の障害により劇場音楽堂等に来られない方々への「イコールアクセス」を実現のためにも、そしてより多くの人々のアクセス権を担保するためにもネット配信は大いに活用すべきですが、それを常態化して、しかも「収益構造を改善」するということは、「舞台芸術の最強の武器」を放棄することと同じ意味です。映像の創造発信に補助をするのなら、そのプラットホーム設置立ち上げの必要経費を含めての支援とすべきではないだろうか。また、「収支構造を変化させる」は、「強味を放棄せよ、さもなければ衰退産業化する」という文化庁の舞台芸術への現状認識を物語っているのであり、一種の強迫的な警告ではないか。そんな現場から乖離した立場で御託を並べる前に、パフォーマーとスタッフへのPCR検査をはじめ、すべきことは山ほどあるのではないか、と直言したい。現場を知ろうとする姿勢なしに、キャリア官僚の使命であるとされる政策立案など出来るはずもない。何よりも彼らに求められるのは、、文化芸術と劇場音楽堂等の「未来社会への期待投資」を立案して、そこへの誘導を促すような説得力のある政策であり、それを私は心から期待したいのです。

文化庁がコロナ禍を転換期と捉えれば「未来への投資」として予算配分すべき。

発足した「新型コロナウイルス感染症対策分科会」に医療専門家のほかに経済専門家、地方行政専門家である県知事が委員として入ったのは評価できます。今回委員となった小林慶一郎氏の以前からの発言内容は知見に富んでいて、バランス感覚のある彼の提言の多くを私は高く評価しています。ただ、ここまでお読みいただければお分かりと思いますが、日本の感染対策は「ソーシャル・ディスタンス」によって何が大きな棄損を受けて、どのような社会的損失を日本社会及び地域社会が被るのかに対する目配りには欠けているのではと、私は思っています。社会学者や社会心理学の研究者の知見に加わっていただかないと、経済活動と感染防止策のあいだで挟撃されて、社会関係資本(つながり資本)は委縮するばかりとなってしまいます。専門家会議時から、東京大医科学研究所公共政策研究分野教授の武藤香織さんは委員を委嘱されていましたが、私の提案する領域の知見に富んでいる社会学者及び社会心理学者とは専攻分野にいささかズレがあります。文化庁が本来提言すべきは、国民の生命を守るためには、医学的な知見も経済的な知見も必須だが、「生きる」ために「社会を棄損」しないように文化芸術の社会包摂機能をもってして、有事下の合理的配慮を施すことが肝要であり、「特に、今」は社会文化政策を事態に寄り添うように立案すべき、と私は強調したいのです。その社会的投資政策として、経験値の高いコミュニティ・アーツワーカーとリンクワーカーを育成すべきとも言うべきではないか、と思うのです。有事下での文化インフラの社会的有用性に向けて、コロナ禍のみならず多発する自然災害や社会的孤立から立ち直る回復力と復元力のある社会づくり(Social Resilience)向けて、実証性のある文化芸術の社会的機能を重要なインフラとして再構築する「コロナ禍を経て獲得したレガシー」として国民的合意と認知を進める、社会的投資としての文化予算の執行にシフトチェンジすべき時こそ、「いま」ではないでしょうか。

品格のある社会構築を視野に入れて。

現在、コロナ禍で雇止めや待機休職になって、しかも労働基準法に定められている給与の60%の休業手当も支給されていない労働者が数多く存在しています。完全失業者数は1ヶ月で19万人増加して197万人にもなっています。派遣会社から雇止めにあった派遣労働者が1ヶ月で住むところを失い、生活の成り立たない事態に追い込まれることが日々数えきれないほど起きています。社会福祉法人の経営する認定保育園の保育士が、行政府から人件費が支給されているにもかかわらず、日々雇用の扱いを受けて、休園中は日給の支給しか受けられないという労基法違反がまかり通っている事態、とりわけ非正規雇用が圧倒的に多い女性への不当な扱い、学校が休校となったために給食がなくなり、自分の食事を子供に与えて母親が1ヶ月で3キロも痩せてしまったというやりきれない現実。私たちは「いつのまにか」、いのちを蔑ろにする国に住んでいることを、そのような事実を「不正義」だとは感じ取れないウイルスに、私たちの心は感染して侵されてしまっていると、私は暗い気持ちになります。等価であるべき「いのち」が蔑ろになっている「いま」に私は失望しています。そのような現下のコロナ禍で日々、そのような「不正義」が堂々とまかり通ってしまう社会が「いま」であると知らされています。不可思議きわまりない「社会とは言えない社会」の実態が、次々に白日の下に暴かれています。まさしく前述したエマニエル・トッドの「「確かに被害は甚大でも、『突然に引き起こされた驚くべきこと』ではない」、「何か新しいことが起きたのではなく、すでに起きていた変化がより劇的に表れていると考えるべきでしょう」が、そのような私たちの生きている現実を言い当てています。「不完全な社会」は、半世紀前から用意されていたと考えるべきなのです。

日本という国は、「軍事的安全保障」と「経済的安全保障」には、制度整備を含めて予算を投入してきましたが、教育・福祉・保健医療・多文化共生等の「人間の安全保障」、「見えない社会保障」と言われるコミュニティ形成への政策の傾注は、先進諸国と比較しても、かなりおざなりにしてきたと言えます。削減に次ぐ削減で、コロナ禍で政権中枢が「医療崩壊」が現実になることを異様に怖れて、また「人間を稼ぐ道具」とみなしてきて、たとえ数百万人の雇用を創出したといっても、非正規雇用に対する根本的・抜本的な雇用対策をしてこなかったために失業者の200万人に迫ろうとしている日々の営みと、危惧される経済的死(自殺者)の急増を防ぐ二重三重のセーフティネットを設けようとする道は、もはや狭隘で限定的でしかありません。格差の小さい国の方がコロナによる犠牲者も少なく、当然ですが復元力の強いSocial Resilience(回復力に富んだ共生的なコミュニティのある社会)であろうと推察できます。アダム・スミスが『道徳感情論』で幸福を「自己利益を追求する人間からなる社会では、幸福と快適さは低下する」と看破したような、「欲望と不安」に支配されない国、「国を愛する」より先に「国民を愛する」ことに立ち帰る政治経済に貫かれる国のかたちと社会のかたち、すなわち「品格のある社会」を希求することは、ひとりの劇場人として不遜でしょうか。仮に「劇場人ごときが」と言われれば、しかし、私は劇場人である前に一人の人間でありたいと思ってきましたと答えます。

現在の世界のグローバル経済と新自由主義の歪んだ価値観は、ベルリンの壁の崩壊に象徴されるソビエト連邦の崩壊による東西対立がなくなって、「タガが外れて」急速に世界を席巻して加速したと私は考えています。11月の米国大統領選挙を控えた世論調査で、米国の「ミレニアム世代」とその下の「ゼロ世代」の70%が「社会主義を支持している」という結果が報道されていました。これには驚きました。バーニー・サンダースへのこれらの世代の支持が、その世論調査の結果を如実に物語っています。未来を担うこの世代の、米国社会への失望と絶望の深さを思います。この現状に対して危機感を持てない政治的・経済的指導者はリーダーとして失格です。いま急がなければならないのは、あらゆる手段と戦略で「不完全な社会」から飛翔するための、「未来」を創造する意志の結集と助走ではないでしょうか。その一端に、劇場における「社会的処方箋」政策を位置づけて、「安心できる他者」との出会いと、いのちの飢餓感から逃れて、誰にでも必要な「前を向く理由」が保障されるべき「人間の安全保障」(Human security)と「見えない社会保障」(Informal security)の張り巡らされた「国とまちの未来」を構築する、今が「その時」なのではないでしょうか。コロナ禍を通して私たちは何を学習しているのでしょうか。少なくとも「豊かさ」の本質を学び、その変化を日々、私は感じています。

7月に母子家庭対象にコロナ感染拡大に関わる調査をしたNPO法人によれば、「1日の食事の量が減った」14.8%、「1日の食事の回数が減った」18.2%、「お菓子やおやつを食事代わりにすることが増えた」20.1%、「炭水化物だけの食事が増えた」49.9%、「インスタント食品が増えた」54.0%。たとえコロナ禍であっても、これが「豊かな国」の実態なのか。酷暑が常態化するなかで、都市部での高齢者の熱中症による死者が増えています。生活保護費に「冷房器具」という項目が設けられたのは一昨年です。しかも、「熱中症予防が特に必要とされる者がいる場合」と条件付きで、上限は5万1000円です。この金額は毎年改定され、今年10月からは5万3000円になると仄聞します。「豊かさ」の意味するところを、私たちは根本的に考えてみなければならない、と心から思います。いのちを蔑ろにするところに「豊かさ」があるとは思えません。私が子供だった頃、明日は今日より良くなると信じていた「豊かな国」とはこれだったのかと失望せざる得ません。「豊かさ」を問い直さなければ、そして出来ることから行動に移さなければならないと痛感します。

最後に、「不完全な社会と劣化した日本人」を拡大再生産してきたGDP以外目に入らない者たちに、経済学の領域を広く社会科学として捉えようとした研究者ケネス・ボールディングの次の言葉を贈ろうと思います。「有限の世界で、幾何級数的な成長が永遠に続くと思っているのは、狂人かエコノミストのどちらかだ」。