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コロナ禍で焙り出された「不完全な社会」から「未来」を創造する ― 文化芸術と劇場音楽堂等の諸機能を「いのちのルネサンス」へ向かわせる。(中)

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

「信頼」でつながる不断の努力は「民主主義のコスト」という認識を。

さて、私たちが直面しているコロナ禍に立ち向かう科学である「公衆衛生」の基本は「信頼」です。これがなくては何事も進みません。そのあたりは、経営組織におけるヒューマンリソース・マネジメントとまったく同じです。ましてや、「ソーシャル・ディステンス」は日々の暮らしや私権に強い制限を設けるのですから、「信頼」なくしては成立しないのは当然と言えば当然です。あわせて政治も経済も、国民の「信頼」があってこそ正しく機能するものです。同時になさなければならないのは、行政と国民のあいだにある「情報の非対称性」をあたうかぎり回避するための政治の側の努力です。危機的状況で司令塔たる政治の果たさなければならないこの責務は、国民からの強い信頼を得るための当然なコストであり、そうなって初めて国民と一体感のある危機管理は健全に、そして充分に機能するものです。5月初旬に専門家会議の議事録を作成していない、という問題が浮上しました。菅官房長官は「政策の決定を伴わない会議であり、議事概要作成にとどめた」と抗弁しましたが、とんでもないことです。西村担当大臣は、言うに事欠いて「自由闊達な意見を述べていただくため」に発言者を特定できないよう議事概要の公表にとどめたと、公文書の後世の同様の危機に備えるための「国民遺産」としての役割に無頓着な発言をしています。フランスの経済学者・思想家のジャック・アタリは、リーマンショック後に著した『危機とサバイバル』と『金融危機後の世界』の中で、今後は壊滅的なパンデミックが繰り返し世界を襲うと記しています。現下のパンデミックは一過性のものでは決してないのです。「今だけ」を凌げばよいというものでは決してないのです。私たちは、後からくる世代の、多くの人々の未来に引き継ぐべき「遺産」を送るといういのちの役割を持っているのです。

専門家会議の方々には科学者であることに私たちは当然のことながら強いリスペクトと信頼を寄せるべきです。彼ら自身の信じる科学的な根拠を曲げるような、あるいは権力者に忖度する発言をするとは、私には到底思えません。科学的エビデンスを曲げてまで政治に対して「忖度」や「遠慮」をするとは、道を究めようとする同じ人間としては到底考えられません。そこを信頼しなければ、専門家会議自体の設置根拠はなくなります。それに、「専門家会議」は本当に「政策決定を伴わない会議」なのでしょうか。感染初期の「クラスター対策に特化した対応」も「37度5分4日間」も「PCR検査の些少化」も「ソーシャル・ディスタンスによる国民への行動制限」も、すべて専門家会議の提言がそのまま国の方針となったではないか、という疑問を国民の多くは持っています。しかも、日々医療崩壊の現場と向き合っていた臨床医の中には、多くの研究医で組成された専門家会議の方針提起に苛立ちを隠さない者も少なくなかったのも事実です。あるいは、店じまいさえ少なくなかった小規模飲食店の店主にとって、専門家会議は「政治の衣をまとった」医学者の会議とさえ思えたのではあるまいか。崩壊に瀕した医療の現場で薬石効なく亡くなった方々の生命と多くの零細の飲食店主たちの艱難という「多大なコスト=犠牲と損失」が支払われたのですから。

したがって、なぜそのような政策に向かったのかのエビデンスと政策評価を後世に残さないのは、あるいは世界各国の保健機関と共有しないのは、コロナ禍によってもたらされた多くの「死と断念」を足蹴にするに等しい所業としか思えません。前述したように、公衆衛生の基本は「信頼」です。その「信頼」は「行政と国民のあいだにある情報の非対称性をあたうかぎり回避するための努力」によって成立するのであり、「民主主義」とはあたう限りの「情報の対称性」を基本とするのではないでしょうか。この政府には、心底体温がないと感じます。「由らしむべし知らしむべからず」(人民大衆というものは、政府の政策に盲目的に従わせておけばよいので、彼らには何も知らせてはならないとの意)は、「民主主義」の対極にある属人的な封建制度、独裁政治の考え方でしかありません。西村担当大臣は、発言者名を明記したうえでの議事録を公開すると後日弁明しましたが、民主主義国家の政治家なら至極当然な発言です。大規模な森林開発や地球温暖化の気候変動による永久凍土の消失によって、未知のウイルスが地球規模で拡散する危機はジャック・アタリが記しているように迫っているのです。シベリアの永久凍土から「スペイン風邪」のウイルスが発見されたというニュースはまだ耳新しいことです。

さて、2ヶ月に及んだ東京での社会観察で強く思ったのは、新型コロナウイルスはまったく未知のウイルスであり、同時にきわめて強い感染力を持っているために、きわめて短期間にフェイズが急転して、それに連れて感染拡大防止対策も新たなフェイズに入ることが求められていたことです。と同時に、フェイズ転換の度に「不完全な社会」の歪みを覆っていた不透明なベールが次々に剥がされていったのです。発出する施策が常に後追いになる「政治の失敗」と、僅か数週間間隔で変化するフェイズの転換によって、次々に新たな克服すべき課題が露呈し続けたことに私は驚愕しました。「真の改革は危機的状況によってのみ可能となる」は、新自由主義経済思想の提唱者ミルトン・フリードマンですが、このナオミ・クラインが新自由主義への嫌悪感を持って名付けた「ショック・ドクトリン」の逆説的環境が、現下のコロナ禍で整いつつあると私は感じています。フェイズ転換の際の政策立案の遅滞がたびたび問題視されていました。その結果として、国民の多くは、社会生活のあらゆる場面で不安と危機感を抱えながら社会の「機能不全」を実感し、痛感していました。これはジャック・アタリの未来予測のひとつである「社会に蔓延する憤懣は激怒に変わる」、つまりコロナ禍を契機としたショックドクトリンが社会の激変をもたらす可能性がある、ということです。

5月22日付の東京新聞経済面に、重要性から言えば扱いがやや埋め草的で「小さな記事」ではあったのですが、「IMF専務理事『銀行配当中止を』の見出しで「企業の資金繰り支援」とのサブリードに目が行きました。国際通貨基金(IMF)のゲオルギエワ専務理事が英紙フィナンシャル・タイムズに「大手銀行に配当の支払いや自社株買い」といった株主還元を中止する経営から撤退するように求める寄稿をした、との内容です。IMFの試算では、世界30の大手銀行は昨年、2500億ドル(約27兆円)を配当や自社株買いに投じており、「今後のコロナ禍による経済の急激な収縮」に向かって銀行は資本基盤の強化に取り組むべきで、それが最終的にすべて利害関係者の利益となる、という内容です。つまり、偏った株主還元ではなく、自己資本の強化を図らなければ、現下のコロナによる経済危機は終には「金融危機」と「大恐慌」にまで至る可能性が高まるとの警告です。

人間のウェルビーイング(幸福と健康)の持続継続性を担保する制度として長年かかって改良改善されて開発された資本主義の仕組みが70年代に改竄されて、「富の偏在」は正当化され、大多数の国民はそれを「常識」と受け容れてしまっている現状で、弱い立場の層に多くの死者が偏り、雇止めや失業によって経済的に追い詰められての経済的死の2009年水準までの急増が予期されて、パンデミックは先の「常識」に激しく揺らぎを与えています。私たちが日々の営みで遣り過ごしていた社会が尋常ではないことが白日に晒されています。「マーケティングの巨人」フリップ・コトラーは、コロナ禍を体験することで「ニューノーマル」に向かうべきと唱えて次のように言葉の穂を継いでいます。「世界中のほとんどの人々は、新型コロナウイルスの感染拡大を前にして『自分たちの元の生活に戻りたい』と思っている。しかし、振り返ってみれば多くの人々にとって、その生活がそれほど良いものだったかといえば、実は必ずしもそうではなかった。多くの人々は貧しかったし、おなかをすかせていたし、そして何よりも働きすぎていた」と。私たちがいま目撃している、そして体験している「不完全な社会」はどのような処方箋によってウェルビーイングが担保された社会を回復するのだろうか。

何がコロナ危機を招いたかに「一級の経済人」は気付いている。

前掲の国際通貨基金(IMF)の勧告の記事を読んだときに、私が真っ先に感じたのは、「一級の経済人は気付き始めている」というある種の希望でした。この20数年間、マスメディアに露出している日本の経済評論家やエコノミストたち、さらにコメンテーターたちは、政権に忖度して、現在の社会の劣化と不健全さと人間の尊厳さえ軽視される現実を見て見ぬふりをして、現行の資本主義の在り方を追認するばかりでした。そして、同時に私の脳裏を過ったのは、昨年8月19日に米国のトップ企業経営者181人の連名で、ビジネス・ラウンドテーブルから発せられた『Statement on Corporate Governance』(企業統治に対する宣言)と題された声明文でした。1980年前後から、ながらく企業経営の原則とされてきた「株主資本主義」の世界観を破棄して、顧客・従業員・取引相手・地域社会・株主に等しく利益を配分して説明責任を果たすことの方が、中長期的には社会に安定をもたらし、企業に持続継続的な利益をもたらす、とした歴史的な意味を持つコミットメントです。

巷間で「ステークホルダー資本主義宣言」と言われていますが、本来のあるべき資本主義とは、そのような経済の好循環をもたらして、社会を発展・進展させる仕組みとして大成功したのであって、ミルトン・フリードマンの1970年の論文『The Social Responsibility of Business is to Increase its Profits』(企業の社会的な責任は利益の創出である)によって提唱された「企業の第一の目的は所有者(株主)に対する経済的な利益の創出にある」とする「株主資本主義」は、富の偏在・独占と格差の拡大によって社会それ自体を劣化に陥れ、機能不全をもたらして大きく歪ませてしまった、というのがビジネス・ラウンドテーブルの声明の骨子です。ここでは「株主の利益」を否定しているわけではないことが大切で、利益の「偏り過ぎた配分」が企業の持続継続性の阻害要因と社会の不健全な歪みとなる、と「気付いた」のです。

昨今、投資家や投資機関も、短期的な利益よりも、中長期的な企業の持続継続性を重視し始めています。日本のある上場企業経営者の「四半期決算経営なんてやめた方がいい。ああいうものがあるから、数カ月間の利益が上がったり下がったりしたことで、エコノミストやマスコミに評価される。それを気にするから、数カ月以内で利益を上げなければならない。そのような短期で物事を見るのではなく、もっと中期的に見るべきだ」との述懐と見事に符合します。短期的な利潤を重視して、いまだに化石燃料による発電で地球温暖化を深刻化させ、巨大外資系資本による熱帯雨林や森林伐採の乱開発を放置することにより、野生動物を宿主とする未知の微生物がヒトに感染する「人獣共通感染症」の多発をもたらしている現実。ジャック・アタリの「今後もパンデミックは繰り返される」はこの事実を指摘しているのです。

いまや「人獣共通感染症」は150種を超えています。かつては風土病として地域村落に限定的に発生していた疾病のウイルスが変異して、都市部の人間を宿主とし始めているのです。チンパンジーやゴリラ、コウモリなど、アフリカの熱帯雨林に生息している西アフリカ地域の野生動物を宿主としていたとされ、一村落を全滅させたとも伝えられる「エボラ出血熱」も、コンゴ近くのカメルーン南西部に生息していたチンパンジーを宿主とされている「ヒト免疫不全ウイルス(エイズ)」も、ともに限定的なエリアの風土病であったものが、乱開発とヒト・モノがグローバルに移動する時代に地球規模に拡散した新世紀の感染症です。「欲望を制度化した資本主義」ではあるものの、欲望のままに経済成長を求めて自由放任になって歪んだしまったその制度は、短期的な利益を競うあまり企業の中長期的な持続継続性という時間軸を喪失して、その企業基盤である社会をも脆弱なものに劣化させてしまうのです。イノベーションの父と言われるヨーゼフ・シュンペーターの「資本主義はその成功がゆえに土台であるし社会制度を揺さぶり自壊する」という警句を私たちは真摯に受け止めなければならない時代を生きているのです。投資家の意識の変化は、まさに「いまだけ、金だけ、自分だけ」では、中長期的な展望を持てなくなるという危機感なのです。

「公益資本主義」(Public Interest Capitalism)や「理性的資本主義」(Conscious Capitalism)という考え方がありますが、資本主義は前述したように、長い歴史の中でその非民主的な側面や人間を「道具」とみなす非人間的側面、「弱肉強食」が露わになる「欲望の優位性」等に少しずつ修正が加えられて、ジョン・メイナード・ケインズが1936年に著した古典的名著『雇用・利子および貨幣の一般理論』で用いた「アニマル・スピリット」を克服して、社会全体へ奉仕する「公益性」の要素が組み込まれた経済思想となったのであり、ミルトン・フリードマンは、アダム・スミスが『国富論』に記述した、個人の利益追求は社会に何の利益ももたらさないように見えるが、個々人が利益を合理的に追求することにより、社会全体の利益となる、という点のみを過大に評価しブロウアップして、社会全体の望ましい状態は、あらゆる事象が「市場原理」に従うことにより「神の見えざる手」(『国富論』には「神の」の記述はない)によってもっとも効率的、合理的な経済成長を実現して至上の資本主義経済となるとしました。

ケインズの言う「アニマル・スピリット」とは、欲望をむき出しにした利己的・野心的・非合理的・非倫理的・非理性的な動機や、それに衝き動かされる行動のことで、「動物的な衝動」と訳されます。フリードマンは、その「アニマル・スピリット」による衝動的、感情的動機に身をゆだねる経済行為こそが「社会的善」と規定して、さらには「経済はすべて市場に任せるべきだ」、「すべてを市場原理に任せておけば社会はおのずと豊かになる」として、アニマル・スピリットに規制をかける政治を悪として、そのため政府は種々の規制を緩和して、その結果形成される新しい市場にも一切介入させず、民間でできるものは民営化して競争原理によって(神の見えざる手に)より多くの富が社会にもたらされると、「競い合い・奪い合う」欲望の市場原理にあらゆるものを委ねること、すなわち「新自由主義経済」を提唱したのです。長い時間かかって克服した、資本主義経済において不安定性が顕現する原理である「アニマル・スピリット」を、ミルトン・フリードマンは容認したのです。

それがやがて社会に大きな「富」をもたらし、その結果として「富」が下に下にと滴り落ちて、おのずとすべての国民が豊かになるとする「トリクルダウン」という、所得再配分制度が機能していた高度成長期まではあり得た社会経済理論ですが、現在の社会の仕組みでは絶対に起こりえない「幻想」が90年代後半から政治的・経済的意図をもって盛んにプロパガンダされました。当時の政権中枢が盛んに喧伝していた画餅に等しい「トリクルダウン」も、当時の小泉首相の「今の痛みに耐えて明日を良くしようという米百俵の精神」、「聖域なき構造改革」も、バブル崩壊後の、未来に希望を見いだせない国民への巧みに仕組まれたプロパガンダと言えます。「起こりもしないトリクルダウン」と書きましたが、所得再配分政策が適正に施された環境下では、という限定的な条件で、戦後日本の高度経済成長期のようにすべての人々に富が滴り落ちたことがありました。所得再配分機能の働いた高成長期では、サラリーマンの給与が前年比10数%も上昇するということが確かに起きたのです。そこでは、社会福祉学のエスピン・アンデルセンが指摘するように、「明日は今日より良くなる」と社員に信じさせる所得上昇が約束され、社宅、保養施設等の社員に対する福利厚生にも利潤が配分されて、高齢者や障がい者の介護や子育て等の福祉・教育は、アンペイド・ワーカーである専業主婦によって自己完結する「日本型家族福祉社会」が成立していたのです。

「資本主義の成功」は、あらゆるステークホルダー(株主、従業員、取引先、地域社会)にとっての幸福を、具体的には経済、知性、健康、物質、環境、社会、文化、情緒、道徳など、あらゆる種類の「社会的共通資本」における価値創造を使命として、進化し続けるパラダイムを現出させることで達成した20世紀における大発明を意味します。言葉を変えれば、「健全な資本主義」とは、自社及び団体の存在目的、世界への影響、顧客を始め様々なステークホルダーの幸福と健康をより意識した、人と地球に優しい、高邁な使命に衝き動かされる資本主義であると規定できます。文化芸術及び劇場音楽堂等もまた、同じ目的と使命を実現するための、「社会的共通資本」として人間の尊厳が通低音であるヒューマン・ビーイングの社会的充足を目指すと規定できます。

「成長の限界」から逃れて「手段としての経済成長」から「目的としての経済成長」へ。

「経済成長」と「GDP」への日本国民への妄信とも言える無条件追従の姿勢は、前述した高度成長期の「日本型家族福祉社会」の時代に発しています。その歴史的事実による「お上への信頼」と前掲の「プロパガンダ」が、日本を現在の歪んだ「弱肉強食」の社会に引きずりこんで、「トリクルダウン」という詐術がまかり通り、「痛みに耐えて我慢していれば」、いずれは「今日よりは明日がよくなる」が現実になると国民の大多数に信じ込ませたのです。しかし、新自由主義経済思想には、経済成長によってもたらされた「富の再配分」の優先順位は、経済成長が国と国民の生活をうるおすという経済学の社会的使命からは遠くにあります。そもそも「連帯」とか「つながり」とかの概念は、その経済思想の信奉者にとっては唾棄すべきことですし、ということは「トリクルダウン」を生む前提それ自体がないのです。その「競い合いと奪い合い」が市場を広げて「経済成長」を実現するという原理に従って、教育、保健医療、福祉、交通通信等々の数理的・物理的な功利主義では計り切れないパブリックサービスまでもが、経済効率性や経済合理性という市場原理に晒されることになりました。つまり、「福祉国家」の財政的負担に耐え切れなくなって、先進諸国での新自由主義の唱える「小さな政府」への急速な傾斜が70年代半ばから起こったのです。

その背景には1971年の「ニクソンショック」(ブレトンウッズ体制見直しによるドルの金兌換性の崩壊)、翌々年の「第一次オイルショック」を通して翳りの見えてきた経済成長社会と、それに追い打ちをかけるように公表されたローマ会議から『成長の限界』( Limitation of Growth)という報告が突き付けられます。先進各国の政府には激しい動揺が起きました。当時の通産省からも、この「成長の限界」を克服しよとする政策が発出されたほどです。この時代背景を嚆矢として、各国は国自体が大きな役割を持っていた「福祉国家=大きな政府」から、先行きの不安から逃れるように新自由主義の「小さな政府」へと80年代に雪崩を打つように傾斜し始めます。英国のサッチャリズム、米国のレーガノミックス、日本では中曽根政権による国鉄民営化や専売公社民営化がそれです。

企業も、消費者の物質的欲求の一定の飽和化にともなって、従来からの「大衆」をよりどころとした大量生産・大量消費時代からの転換を求められていました。多様なウォンツとニーズを満たすことで「顧客満足」を求めるカスタマイズ化を進めなければならない経営思想のイノベーションが生き残りをかけて必須となりました。85年に博報堂生活総合研究所が、「分衆の誕生」と大衆社会からの時代的移行を定義して、企業経営も試行の時期に入ります。「成長の限界」が体感されるようになり、先行き不透明な一種のカオス状態に陥ります。「分衆」は当時、私が学んでいたの「マーケティング」の重要なキーワードでした。「大衆」から「分衆」へ、サービスと製品のカスタマイズ化ということが盛んに言われるようになったのもこの頃です。マスメディアによる「欲望の操作」、「欲望の模倣」という衝撃的なガルブレイスの大量消費社会における消費者概念が失速し始めたのもこの時期でした。

「Japan as Number 1」の時代ではあったものの、プラザ合意による急激な円高の進行で輸出が鈍り、景気の後退が起きました。80年代は企業経営にとっても内憂外患の厳しい時代でした。コロナ禍の所得補償で話題になっている「雇用調整助成金」は、そのような時代環境のもと80年代半ばに整備された制度で、もともとは景気後退により正規社員の解雇に向かわざるを得ない企業環境を支援して雇用を守るために成立した経緯があります。事程左様に、企業経営も大きな曲がり角にあり、政府はその対応策として、国内需要の拡大充実、公共投資の拡大などの「積極的財政政策」をとり、日本銀行は公定歩合の引き下げを行い、金融緩和という「金融政策」を実施しました。その影響で株式市場や不動産市場にジャブジャブになった資金が流れ、これがいわゆる「バブル景気」へと繋がることになります。

企業はこの時期、本業のもうけである「営業利益」よりも、株式投資や不動産投資による「経常利益」の向上に走ります。動機は違っていますが、世界的な量的金融緩和でジャブジャブになった投資資金を梃子にして利益を生む今日的なレバレッジ経営同様、金融の過剰な緩和を梃子にして借り入れによる「自社株買い」に走っている現在の状況とどこか似通っています。また、コロナ禍で各産業とも史上最悪と言われる大打撃を受けているのに、直近の株式市場が一本やりで上げ相場になっていることへの私の「違和感」と株式市場の実体経済との大きな乖離は、株価がとても未来を予想する経済指標とはなりえなくなっているという実感が私にはあります。コロナ禍で好材料もない中も、株価が大きく上がる不自然な値動きと、そのあと「利益確保」で急落し、また下がったところを安値で買い戻すというマーケットの乱高下からは、私は「価値を創造して富を得る社会」ではなく、「カネがカネを生む社会」になっていると実感せざるを得ません。ジャブジャブになったマネーが行き所を失って安い借入利率を追い風にして株への「投機資金」に向かっているからです。

70年代後半、政治も企業経営も成長社会の限界と終焉を目前にして、縋るように新自由主義思想にシフトしたのだろうし、国民は高度成長期の「明日は今日より良くなる」という過去の記憶に、その後も数十年ものあいだ囚われてきたと言えます。「幻想の囚人」だったわけです。「国民一人当たりのGDP」という経済指標にもならない幻想のような数値によって、その「記憶」を上書き保存してきたのが、とりわけ90年代後半からの国民の実像だったのではないでしょうか。「ITバブル」、「聖域なき構造改革」による戦後最長と言われる「いざなぎ超えの経済成長」が「実感なき経済成長」と言われたのは、GDPと家計が著しく乖離している実像を物語っています。「国民一人当たりのGDP」がいかにまやかしで詐術であるかは、ジョセフ・スティグリッツ、アマルティア・セン、ジェイムス・ヘックマンというノーベル経済学賞を受賞した知見をはじめ米、英、仏、印の専門家25名の世界に冠たる経済学の専門家を結集して、2008年に仏・サルコジ大統領が組成した「経済パフォーマンスと社会プログレスの測定に関する委員会」、通称「スティグリッツ委員会」が報告書にまとめています。GDPは生産の指数であり国民の家計支出とはまったく関連しない別の経済指標であり、完全なミスマッチであると報告されています。「国民一人当たりのGDP」と言い「トリクルダウン」と言い、御用エコノミストたちは舌先三寸で国民を欺き続けてきたし、現在もその姿勢を崩していません。