「創客の劇場経営 ― 人間を中心に据えるマーケティング」

第六章 「共有地」としての地域劇場は何処にあるのか。

公共性は、同一性によってではなく相互性によって媒介される「共同性」である。各人それぞれに現われるものが言葉において互いに交換されるかぎりで、この「共同性」(共通世界のリアリティ)は人びとの間に形成されるのであり、パースペクティヴの交換、意見の交換を離れたところに共同性が存在するわけではない。
(斎藤純一『公共性』)

「公共劇場とは何か」と考える。舞台芸術を鑑賞する「場」と考えるのが日本国民の一般的な見方であろう。専門的な職能の分化が起きた近代においては、そうまず考えるのが一般的だ。少なくとも日本の都市型劇場は、芸術創造の専門性を外部化して、おおむね鑑賞を専らする施設(ハコ)として発展してきたと言える。例外的には西武劇場(現パルコ劇場)のように舞台創造機能をともなう劇場もあったが、それはあくまでも例外であって、ほとんどは「鑑賞拠点」(ハコ)としてのみ機能してきたと言ってよいだろう。別の言い方をすれば「消費拠点」としての劇場である。一方で、「生産拠点」としての芸術創造団体は、別途に独自の発展を遂げてきた。芸術団体みずからがその両拠点を融合しようとする試みとして、自分たちの「劇場」を持とうとする動きがなかったわけではない。俳優座劇場、前進座劇場、三百人劇場はその代表的な事例であり、70代から80年代には小劇場演劇の劇団も、それぞれにアトリエを劇場化していく動きがあった。それらの小劇団の動きは、既成の劇場の制約から逃れるという意味を持ったものでもあったことは疑いない。みずからの表現の様式によって、テントという選択をした劇団あったし、地下劇場、倉庫劇場という選択肢もあった。

それらのアトリエ=創造集団による小劇場がほどなく潰えた背景には、三つの理由があるだろう。列挙すると、【1】劇作と演出を兼ねる一人の主宰者の求心力によって劇団が運営されていたため、創造性を代表する負担のみならず、経済的な過負担が主宰者に圧し掛かった。【2】年におよそ2回の公演とそれにともなう稽古、若干の貸稽古場利用ではアトリエ維持の経済的な負担が過重であった。それとも関連するが、【3】逃れようのない負担との日々の対応のために鑑賞者開発の仕組みを開発できず、手売りを専らする劇団経済から一歩も抜け出せなかった。

むろん、彼らが自分たちの専有できる空間を持ったことでメリットは確実にあった。時間的には自由奔放な使い方が許された。私が仙台で実際に体験した事例だが、劇団員は夕方に勤め先からアトリエに直行し、子どもをアトリエで寝かし付けてそのまま明け方まで稽古をしている、といった「奔放さ」が、自分たちのアトリエを持つことで許された。舞台装置を自分たちのアトリエで「叩く」という「小劇場経済」が成立していたことも、大きなメリットであっただろう。また、本番と同じサイズの舞台で長期間稽古をできたのは、演出的にも演技的にもメリットであった。しかし、劇団行政と劇場行政の双方が一人の主宰者の負担となることが、過重な経済的・精神的プレッシャーであったことは想像に難くない。「鑑賞者開発」の仕組み作りにまでは踏み込む余裕がなかった、というのが実情だっただろう。アーツマネジメントとアーツマーケティングの「不在」である。劇団制作者は存在したが、中堅俳優の兼務か、入団したての若い劇団員が担当した。中長期的な視点にたって、アトリエ=劇場を発展させる人材も能力は望むべくもなかったと言わざるを得ない。彼らにとってアトリエ=劇場は、自分たちの「芸術的野心を発露する場」としてのみ機能したのである。それはそれで「いさぎよい」劇場の形態であった。80年代初頭からは、シアターグリーン、ザ・スズナリ、旧真空艦などの小劇場演劇に見合ったサイズの貸劇場が現われて、「アトリエを持つ」という意味のひとつは次第に薄れていくことになる。

ここで着目しなければならないのは、アトリエ=劇場と劇団が一体化したことにより一定の成果はあったものの、やはり依然として「上演施設=芸術的野心を発表する場」からは一歩も出ていなかった点である。「劇場の公共性」とは何か、「公共的な劇場」とは何か、を考えていく上で、この点が重要となる。とりわけて、80年代から90年代にかけて造られた多くの公立の劇場・ホールは、この点を何ら検証せず、従来からの「消費拠点」であるハコとしての機能のみの在り方を踏襲したに過ぎなかった。それゆえに、ほぼ20年経過して、あらためて「劇場・ホールの公共性」という問題がクローズアップされてきているのだ。公共性を持つために、「上演施設」以外の機能が何なのかがいま探られているのではないかと、私は思っている。
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