
公共性は、同一性によってではなく相互性によって媒介される「共同性」である。各人それぞれに現われるものが言葉において互いに交換されるかぎりで、この「共同性」(共通世界のリアリティ)は人びとの間に形成されるのであり、パースペクティヴの交換、意見の交換を離れたところに共同性が存在するわけではない。
(斎藤純一『公共性』)
それらのアトリエ=創造集団による小劇場がほどなく潰えた背景には、三つの理由があるだろう。列挙すると、【1】劇作と演出を兼ねる一人の主宰者の求心力によって劇団が運営されていたため、創造性を代表する負担のみならず、経済的な過負担が主宰者に圧し掛かった。【2】年におよそ2回の公演とそれにともなう稽古、若干の貸稽古場利用ではアトリエ維持の経済的な負担が過重であった。それとも関連するが、【3】逃れようのない負担との日々の対応のために鑑賞者開発の仕組みを開発できず、手売りを専らする劇団経済から一歩も抜け出せなかった。
むろん、彼らが自分たちの専有できる空間を持ったことでメリットは確実にあった。時間的には自由奔放な使い方が許された。私が仙台で実際に体験した事例だが、劇団員は夕方に勤め先からアトリエに直行し、子どもをアトリエで寝かし付けてそのまま明け方まで稽古をしている、といった「奔放さ」が、自分たちのアトリエを持つことで許された。舞台装置を自分たちのアトリエで「叩く」という「小劇場経済」が成立していたことも、大きなメリットであっただろう。また、本番と同じサイズの舞台で長期間稽古をできたのは、演出的にも演技的にもメリットであった。しかし、劇団行政と劇場行政の双方が一人の主宰者の負担となることが、過重な経済的・精神的プレッシャーであったことは想像に難くない。「鑑賞者開発」の仕組み作りにまでは踏み込む余裕がなかった、というのが実情だっただろう。アーツマネジメントとアーツマーケティングの「不在」である。劇団制作者は存在したが、中堅俳優の兼務か、入団したての若い劇団員が担当した。中長期的な視点にたって、アトリエ=劇場を発展させる人材も能力は望むべくもなかったと言わざるを得ない。彼らにとってアトリエ=劇場は、自分たちの「芸術的野心を発露する場」としてのみ機能したのである。それはそれで「いさぎよい」劇場の形態であった。80年代初頭からは、シアターグリーン、ザ・スズナリ、旧真空艦などの小劇場演劇に見合ったサイズの貸劇場が現われて、「アトリエを持つ」という意味のひとつは次第に薄れていくことになる。