「創客の劇場経営 ― 人間を中心に据えるマーケティング」

第四章 どんな鳥だって、想像力よりは高く飛べない。

「マーケティングは、長いあいだ、人々の物質的福祉の向上をそのねらいとしてきました。しかし、今日では、人々の社会的・文化的福祉の改善という責任も果たさなければならないのです。大変皮肉なことには、物質的進歩の増大がかえって、様々な社会問題を生み出し、かつ悪化させてきたようです」
(フィリップ・コトラー『ソーシャル・マーケティング 行動変革のための戦略』日本語版序文)

「芸術機関は活動それ自体に着目する以上に、活動の結果、何が起こったのかに注意を向けるべきである」
(ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ教授ジェラルド・リドストーン)

芸術は社会との関わりなしには成立しない

どのような「芸術」であろうとも、社会から超然たるものとしては存在しえない。当然である。同様に、劇場・ホールをはじめとする芸術機関も、芸術団体も、社会から超然として存在しえない。この当然の理は、理解されているようで、時に何とも心許ない発言に出会うことがある。芸術それ自体が先験的に公共性を持っているかの如くの発言や、何者にも侵犯されない聖域がごとくの振る舞いとか、「専門はアーツマーケティングです」の私の発言に、「私たちがやっているのは芸術ですから」という理解に苦しむ反応が返ってくることがある。このようなアーチストの発言は確かに間違いではないのだが、「マーケティング」をアーツに導入しなければならないという今日的な課題と意図を正しく汲んでいないという点で、はなはだ誤解に満ちており、不十分なものと言わなければならない。このような態度に遭遇すると、私は古色蒼然たる「化石」を見ているような気分になる。

いかなる芸術であっても、「価値の交換」という経済原理からは逃れることはできない。これもまた、当然の理である。また、芸術とマーケティングを対立する概念と考える前世紀的思考で創造活動をしているのでは、何を、どのように聴衆や観客に届けようとしているのか、私にはとうてい理解できない。「彼ら」にとって観客や聴衆はどのような存在として捉えられているのか、はなはだ訝しい。芸術を「聖域」とする考えは「メルヘン」ではあるが、ほとんど「漫画的」でさえある。たとえ芸術の創造的行為であっても、社会との関わりなしには成立しようもないのだから。

「芸術性の高さ」の前にやるべきこと

可児市で今年立て続けに「いじめ」が表面化した。警察沙汰にもなった。警察沙汰になったから、マスコミがこぞって取り上げていた。全国ニュースにもなっていた。私は、いじめられた子ばかりではなく、いじめた子にも、思いをはせた。双方に深い心の傷を残してしまったことをやり切れない、と思った。この不幸な出来事は、教育現場の問題と言うよりも、社会全体の「歪み」が背景にあると考える。同時に、可児の子どもたちの、すれ違いざまの大きな声での挨拶や明るい笑顔に好感を持っていただけに、軽い失望を感じた。

「アーラが出来ることは何か」と、いささか深刻に考えた。しばらくは忸怩たる思いの中にいた。アーツマネジメントやアーツマーケティングは、人間に関わる、なかんずくその「生活」に関わる仕事である。「人間」と、その「生活」に向かい合う、そして関わり合う仕事である。したがって、子どもたちの「いじめ」が私たちの仕事と無関係であるはずがない。とりわけ公共的な地域劇場・ホールは、地域住民の生活や生き方に深く関わることを重要なミッションとしている。私が大学に入学した頃、『飢えた子どもの前で文学は可能か』という単行本があったことを思い出した。J・P・サルトルがフランスの文学者にそう問いかけ、それに応じて寄稿された小論をまとめたものだった。そして私は、「きしむ社会の前で劇場は可能か」と、自身を問い詰めることを繰り返した。

「何処にだっていじめはあるものだ」と遣り過ごすことが「大人の対応」かもしれないが、劇場で働く人間にとっては真摯な態度ではない。私たちと市民とのあいだの強い信頼関係を形成するのは、必ずしも事業の「芸術性の高さ」ではない。その前にやるべきことがある。顧客である市民や地域社会の抱えているさまざまな問題・課題を解決することと、そのような社会貢献活動によって機関が評価される時代に私たちの社会が至っていることを、私たちは知らなければならない。社会的責任経営(CSR)である。私たちの仕事の「事業定義」を、その経営思想に沿って変化させることが社会から求められていることに、私たちは気付かなければならない。社会は大きく変化したのである。年に数回、福祉配給的に自主事業を実施して存在証明としているような「おおらかな」時代ではないのである。舞台芸術の水準だけで公共的な劇場・ホールの社会的価値を測る時代では「もはや」ない。

文化芸術への公的資金投入=社会的諸問題の解決に関わる必要がある

成熟化した社会にあって、社会全体で解決しなければならない全く未知の課題に、いま公共劇場・ホールは直面しているのである。したがって、私たちは、私たち自身を大きく変化させることを求められている。文化芸術は、社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)を実現するための梃子として、露わになってきている社会的諸問題に、ただちに関わることが求められているのではないか。文化芸術への公的資金の出動には、そういう要請も含まれていることを、私たちは承知しなければならない。そのような時代環境になっていると私は考えている。自己資金で芸術行為に勤しんでいた「のどかな時代」とは違うのである。1990年に芸術文化振興基金が設立されて、公的資金が文化芸術に投入されてから20年も経っているのである。芸術創造行為や劇場・ホールに公的資金が投入されれば、どのような時代でも、どのような国でも、新しい経営哲学(マネジメント・フィロソフィー)が登場するのは必定なのである。

たとえば米国において「アーツマネジメント」という学際的な新しい経営学分野が生まれた背景には、ボーモルとボウエンによる大著『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』の公的支援論が端緒となり、その後に設立された全米芸術基金(NEA)の存在があった。その経緯からいって「アーツマネジメント」には当初から、非営利組織や公共機関による社会公共志向のマーケティング(ソーシャル・マーケティング)を敷衍性として内包していたと言える。事業者の社会的責任経営(CSR)である。米国各州にある芸術支援担当部局(State Arts Agency)の連合体である全米芸術支援会議の業績評価指標に、「少年犯罪における芸術参加の効果」、「危険行動(薬物使用等)に関する芸術参加の影響」などが定性評価指標としてあるのをみても、それが了解できる。どうもそのあたりが日本では曖昧なままにされて論議されていない。「社会との出会いをアレンジ」して、チケットを売れるようにすると自分の都合のよいように解釈されているようである。私が93年前後から言い続けている「創客」も同様にいささか誤解されて伝播されているようである。アーツマネジメントも、アーツマーケティングも、チケットを売り捌くための技術ではない。社会に向かって芸術を開いていくための経営哲学である。百歩譲っても、「完売することを目指すための環境づくり」の作法である。

このページの上部へ