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「創客の劇場経営 ― 人間を中心に据えるマーケティング」

第一章 エスキモーは氷を買うか。

「何処かにたどり着きたいなら、今いるところに留まらないことを決心することだ」(J.P.モルガン)

「あなたは、バスケットボールの試合のチケットは、バスケットボールの試合のチケットでしかないと思うかもしれない。その考えはあまりに狭すぎる」(ジョン・スポールストラ)

県立宮城大学・大学院研究科でアーツマネジメント、アーツマーケティング、文化政策を教えていたのはいまから五年も前のことになる。学部の三年生と四年生、大学院と三つのゼミを持っていたが、学部三年生の「文化事業」の講義の前期試験は、毎年、ジョン・スポールストラの『エスキモーに氷を売る』か、あるいは続編の『エスキモーが氷を買うとき』を精読してレポートを提出することを課題としていた。むろん、その授業にはゼミ生が入っていたことは言うまでもない。

ジョン・スポールストラは、NBA(全米バスケットボール協会)で5年連続最下位か、せいぜいそのひとつ上にしかランクされていなかったチーム、ニュージャージー・ネッツのCEOに91年に就任することになる。そして、戦績ばかりか、観客動員数も全米最下位だったチームだったニュージャージー・ネッツのチケット収入伸び率を、僅かな期間で全米1位に導くことになる。それも最弱のチームのままで高収益を達成する。当時ネッツの経営環境は最低だった。近隣には、ハドソン川を渡ればニューヨーク・ニックスという当時は常に優勝争いをしていた人気チームがあり、ニュージャージーのバスケットポール・ファンはネッツよりもマジソン・スクウェア・ガーデンを本拠としていたニックスにロイヤルティを感じていた。つまり、ニュージャージーの住民は、自分の住んでいる土地のチームにはアイデンティティを感じず、近隣のニューヨークに意識が向いていたと言える。

彼の経営戦略のキーワードは「ジャンプ・スタート・マーケティング」である。平たく言えば「常識破りのマーケティング」。つまり、私たちが持っている「常識」を一度リセットすることから始まるマーケティングを、彼はニュージャージー・ネッツで行ったのである。チームが弱いまま業績を上げる、というのは私の志向とは外れているが、それだからこその「ジャンプ・スタート・マーケティング」と言えるのだろう。

なぜ、私が三年生の最初の「文化事業」の授業で『エスキモーに氷を売る』か、あるいは続編の『エスキモーが氷を買うとき』を購入して、前期のレポートの課題と予告し、前期を通して全員に読ませようとしたのか。理由は至極簡単明瞭である。日本で文化芸術を仕事とする以上は、エスキモーに氷を売るような、まずとてつもなく高い障壁と向かい合うことが課せられるからだ。この障壁を越えて顧客価値の高度化を図れた事例は、日本では皆無に近い。ここを越えないかぎり、アーツマネジメントも、アーツマーケティングも、文化政策も、すべて画餅となってしまう。象牙の塔の中での「学問としての芸術経営」ならまだしも、現場で通用するものにはならない。私が学生に与えた課題は、「アーツはさして生活するのには必要はない」とする日本人のメンタリティと正面から向かい合って、自分も持っているだろう「常識」をこなごなに粉砕することからしか現場に即したアーツマネジメントも、アーツマーケティングも、文化政策も、踏み出せないということだった。


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