劇場・ホール及び芸術団体が、文化芸術振興基本法第32条の「学校、文化施設、社会教育施設、福祉施設、医療機関等と協力して、地域の人々が文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造する機会を提供する」という文言を担保するような活動をするのも、いわばCRMに区分できる。ただ、残念ながら、ここにはソーシャル・インクルージョンの理念が盛り込まれていない。「文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造する機会を提供する」ことが芸術や文化に親しむためだとしたら、木を見て森を見ないたぐいの成果しか生まれないのではないか。「手段」としては述べられているが、「目的」が明確に規定されていない、と私には思えてならない。芸術文化のもつ社会的機能を過小評価してはいないか。
行動に変化をもたらすマーケティングと行財政改革の行方。
可児市文化創造センターのウェブサイト内に連載している「館長エッセイ」で私は次のように「文化的である」ことを書いている。
「文化的であること」とは、何も音楽や演劇や美術に造詣が深かったり、好きであることでは決してないと思っています。心が健やかで、人間が好きで、自然に心遣る気持ちがある、つまり豊かな人間性を備えていることこそが「文化的である」ことの基本的な姿であると私は思っています。そのような心をはぐくみ、コミュニティを健やかに生きる場所にするための拠点が地域劇場や美術館であり、施設の社会的な役割であり、公共が設置する根拠であると、私は地域に出て仕事をするようになって二十数年のあいだずっと思い続けてきました。
前述したMarketing through the artsである。ここでいうマーケティングは、コトラーの「人々の社会的・文化的福祉の改善という責任も果たさなければならない」意味でのソーシャル・マーケティングだ。繰り返しになるが、アーツはソーシャル・マーケティングを推し進めるための手段となる幅広い機能を内包している。90年代英国の労働党政権が着目したのはその点である。アーツという表現の基盤は他者への信頼に他ならない。他者への認知や信頼や関わりあおうとする意識がなくては、アーツは決して成立しない。あらゆる表現はそういう関係性を前提とした基盤によって成立している。
公共文化施設は、そのように人々の行動律に関わるマーケティングを芸術文化によって行う責務がある、と私は思っている。「公共」である根拠である。福祉政策・教育政策・コミュニティ政策、あるいは「創造都市」を視野に入れるならば、さらに経済政策、産業政策、雇用政策の拠点施設であるべきなのだ。地域社会の将来的な不安に対処する施策としての事業の設計、実施が、地域の公共文化施設の責務のひとつであり、それが地域の公共文化施設にとっての社会的責任経営(Corporate Social Responsibility)であり、社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing)だと考えるのだ。むろん、公共文化施設のみならず、芸術団体も社会的な機関としてその責務は負っているし、その社会的役割を果たすべきであろう。むろん、芸術創造を行うこともCSRとCRMという役割を果たすことである。ただし、良質であり、高品質であることが必定の条件とはなるが。
将来世代に負担を残さない施策としての文化政策の展開を。
前述したように、Marketing through the artsは、公共文化施設にとっての社会的責任経営(Corporate Social Responsibility)であり、社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing)であり、ブレア政権が選択した社会政策でもある。コミュニティの崩壊やコミュニケーション能力の劣化が言われている今日、劇場・ホールや美術館などの文化施設に期待される役割は小さくない。なのに、である。基礎的財政収支の均衡化を企図する行財政改革や指定管理者制度の施行によって、それらの施設の外部環境は悪化の一途をたどっている。指定管理者制度も行財政改革の産物であるから、すべては「基礎的財政収支の均衡化」によると言っても良いだろう。ただ、ここには解決しなければならない将来的な課題がある。基礎的財政収支の均衡がまったく意味がないとは思わないが、あまりにドラスティックにそこへ突き進むことには危惧を感じる。「後の世代に負担を残さない」とは、行財政改革を語るときの枕詞であるが、基礎的財政収支を均衡化することで「後の世代」への負担が本当になくなるのだろうか。大阪を例示するまでもないが、教育、福祉、文化、医療という21世紀にその重要さを増すだろうと前世紀末に予測されていた、人間の共感をベースとした公共サービスの予算に大鉈を振るうことが、果たして本当に後から来る世代の負担を軽減することになるのだろうか。
その結果、コミュニティが崩壊し、人心が荒廃したらどうするのか。道徳的・倫理的荒廃が社会に蔓延したら一体どのように手当てをするというのか。治安の悪化や教育の格差ばかりか、いのちの格差さえ当たり前になって生じる社会不安をどうするのか。財政収支は均衡したが、肝心の人々の心や社会が荒廃してしまったら、どのように手当てをするというのか。それをもう一度回復させるためには、膨大な予算と長大な時間が必要となる。結局は、後から来る世代に大きな負担と生命の危険を残すことになりやしないか。
教育、福祉、文化、医療という人間的な共感をベースとした公共的なサービスは、急進的に予算削減すべきではないし、そういう種類のものでもない。これらは社会の健全性を担保するのに不可欠なサービスなのである。 この分野をソフトランディングさせないと、削減した予算の何倍もの経費と長大な時間が浪費されることになる。むろん一方で、社会的機関とはなりえていない公共文化施設は、経営能力のある指定管理者に特命指定するか、廃館にすべきだろう。日本版ソーシャル・インクルージョンを視野に入れていない、あるいはその能力のない地域の文化施設や指定管理者は公共であることから「退場」しなければならない。憲法十三条の「幸福追求権」を担保できない施設は存続させる意味さえないのである。「幸福追求権」とは、まさしく21世紀の市民社会で等しく社会的価値をもつ「福祉権的文化権」であるからだ。




