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エッセイ

誰も置き去りにしない社会を文化政策のミッションに ― After2020レガシーとしての「社会的処方箋」を。

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督 衛 紀生

「創造的破壊」による「イノベーション」という経済成長と発展のための重要なキーワードの提唱者であったヨーゼフ・シュンペーターは、「資本主義はその成功がゆえに土台である社会制度を揺るがして自壊する」という予言めいた言説を遺しています。80年程前のこの言葉が、先進諸国の政治と経済の行き詰まりを前にしてひどくリアリティを持って重い響きを感じるのは私だけでしょうか。「利益率(r)> 成長率 (g)」という『21世紀の資本論』のトマ・ピケティ不等式は、資本からの利益率(r)と経済成長率(g)はともに資本主義下では成長していくものの、富を持っている者の所得は投資すればその分だけ利益率で富が増大するのに対して、賃金勤労者の所得はGDPと並行して伸びるために経済格差はどんどん拡大していくというロジックで成り立っている。したがって、経済格差は「資本の論理」そのものに起因しているという。このピケティの学績を信じるか否かは読者に委ねるにしても、経済成長が賃金勤労者の所得を引き上げて、社会的に解決しなければならないいくつか諸課題は、短期的にはその果実によって、環境汚染の問題等はあったものの、おのずと解決されてきました。そういった戦後日本の政策の軌跡が「事実」としてあります。しかし、そのロジックに任せるままにすればいつかは格差の拡大が「基本的人権の軽視」にまで侵食してしまい、人間として容認できない程に大きな溝と分断をつくり、様々な矛盾が噴出して不安と不信に覆われた社会が現出するのではないかと危惧せざるを得ません。

そうなってしまえば、最近になって厚労省や国交省が取り組もうとしている「地域共生社会の実現」、「コミュニティの再生と共助社会の構築」とは真逆の方向に社会全体の空気が振れてしまうのは当然の帰結です。資本主義経済の発展は当初は社会の不平等を広げるが、その差はやがて自然に縮小され不平等は是正されるとするサイモン・クズネッツの考えを、ピケティは、「冷戦時代に共産主義に対抗するために作られたものにすぎない」と述べています。それはあまりに穿った見方だと思いますが、ピケティの大恐慌から戦時期につながる一時的な特殊現象を一般化したにすぎないと批判したクズネッツ理論への反駁は、相当程度の説得力を持っていると評価しています。現に新自由主義経済思想を政治に持ち込んだサッチャリズムとレーガノミクスの80年代以降は、「不平等の是正」どころか、逆に経済格差は拡大を始めて、ピケティの危惧するような「民主主義の危機的状況」が先進各国で散見できるようになったのです。

クズネッツの主張は、だから社会の平等化のために必要なのは経済発展へのプライオリティを国是として、ともかくも「国を豊かにしていく」ことが最優先政策となり、それが国民に支持されて、政治のみならず経済成長こそがすべてという「国民の常識」となってきたのです。そして、GDPを伸ばせば国民全体の「幸福」に直結するという「常識」を生んでいったのです。そして、現に戦後すぐの国土と人心の荒廃していた地点よりは「よりましな社会」を実現してきたと評価できます。戦後生まれの私は、その実現のプロセスとともに生きてきましたし、その社会の変遷は身を持って実感しています。ピケティの「利益率(r)> 成長率 (g)」が正鵠を得たロジックか否かは経済学者でない私には正しく評価することは出来ませんが、その不等式の結果として「民主主義の危機的状況」が生まれるという問題提起は、世界の現実を前にして一聴に値すると思いますし、私の実感として正しいと強く感じています。

「民主主義の危機的状況」というちょっと堅苦しい言葉をひらけば、「人間の尊厳」を第一に考えない社会が私たちの身の回りに噴出し始めているという、私の身の震えるほどの危機感です。津久井やまゆり園での植松聖の「障害者は(不幸以外は何にも生み出せないから)生きる価値がない」という優生思想とそれに賛同・同意する意見で溢れたネット上での言説、秋葉原通り魔殺人の加藤智大と新幹線殺人事件の小島一朗の逮捕時の、罪悪感ばかりか、存在する価値を自分自身に感じていないような、その無表情から窺える「社会的相続」が家庭環境をはじめとする成育環境で機能不全になっていると想像できる鳥肌が立つような畏怖、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか」、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と「子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分」あると論じた政治家の発言は「植松聖」と論理の基底は同じであり、「人間の尊厳」を軽視するものと断じえません。まさに「民主主義の危機」の肌寒さは禁じ得ないものとなっており、これは「与党野党」という党派的な問題では断じてないのです。「人間としての矜持」の有無の問題です。私はこれらの社会の劣化を冒頭のシュンペーターの「資本主義はその成功がゆえに土台である社会制度を揺るがして自壊する」とどうしても重なり合わせてしまうのです。

私は18世紀のルソーやミルなどの啓蒙思想家が主張した、人間は生まれながらにして自由であり、平等であり、幸福追求の権利があるという「天賦人権説」は思弁的な言説であり、当時の社会環境からの限定的な視点と、そこからの理想的な発展思考を述べたものと私は捉えています。「人間は生まれながらにして自由であり、平等であり、幸福追求の権利がある」という「人間の尊厳」に関わる権利は、有史以来の数多の人々の闘いと犠牲によって人間自身が手に入れたものであり、あくまでもその中心は「人間」であり、権力者やその機関がそれを付与するものではないことは当然と申し添えておきます。「生まれながらの権利」というのは、当時の権力と社会構造のなかで社会的合意がそのように形成されてきたという歴史的経緯があるのであり、現代では人間が社会生活を営む上で「生まれながらの権利」として「常識」であると定着しているのです。

上記のLGBTに関する発言等があると、ほとんど反射的に「表現の自由」あるいは「報道の自由」、あるいは「多様な価値観の容認」を盾にして「何を言っても許される」というような言説があふれますが、これは多くの人々が社会を形成して命の営みを行ううえでの「常識」、すなわち倫理的・道徳的ないわば人倫を踏み外していないかぎりの「自由」なのであり「容認」されるので、断じて何を言っても「個人の自由」なのではないことはしっかりと踏まえなければなりません。ここを踏まえないと、有史以来の人間と社会が闘って勝ち取ってきた中心価値である「人間の尊厳」を遵守して民主的な社会を営む私たちの生存する権利にほころびを生じることになってしまいます。いわゆる「社会の分断化」です。「分断化」が社会の危機となっているのは、何もトランプによる米国だけに特異なことではありません。日本も様相は異なってはいても、「分断化」という民主主義社会の危機に晒され始めていると、90年代後半からの社会の激しい変容を前にして、私の心は鬱血したままです。

私は、そのような「分断する社会」が経済成長を専らとすることによって生じたのだから、したがってシュンペーターの「資本主義はその成功がゆえに土台である社会制度を揺るがして自壊する」で吟味すれば「経済成長重視は悪」となると言いたいわけでは決してありません。ただ、経済成長を一貫して追求してきたことで、また事実、その時々の社会課題がGDPの急伸とそれとシンクロしていた個人所得の増大によって解決してきたという「成功体験」、すなわち個人所得の増加が家庭を潤すことが家庭内での課題解決が容易であったことと、企業が終身雇用と社宅などの福利厚生での課題解決を容易にした、つまり「カテイとカイシャ」による「見えない社会保障による成功体験」が、この国のかたちをどうデザインするか、何を持って公平・公正な社会と言えるのか、の議論がなされなかったか、あるいは不十分だった理由なのではないだろうか。経済成長は企業努力の賜物であり、そのための環境制度整備は言うまでもなく政治の役割ですが、そのことに過依存し過ぎて「どのような社会をつくるのか」、「何を持って公平で公正な社会とするのか」という政治が主導しなければ進まない、戦後の民主的な社会を構想する国民的な議論が欠落していたのではないか、と私は考えています。

たとえば、戦後英国の初めての首相となったクレメント・アトリーは、ナチスドイツの空爆によって荒廃した国土と人心を回復に向かわせるために、「揺り籠から墓場まで」の社会福祉の柱と「すべての人に芸術へのアクセス権」を保障して、「それによって社会課題を解決させるように」との、のちの英国芸術評議会設立につながる「心の復興」を高らかに提起しています。これはまさしく「政治の機能」であり、「経済あるいは企業」が第一義的に負う機能ではありません。「何を持って公平・公正な民主的な社会と言えるのか」という「政治の機能」を十全に果たす議論がなされたのかははなはだ疑わしいと私は思っています。当時の革新勢力さえも、待ち望んでいた「民主主義」という「新しい看板」に幻惑されて、「総論賛成」の国民を巻き込んだ大きな渦を起こしていただけではないか。

政治の「国の在り方」を決める本来機能のひとつである所得再分配の議論も、私はまったく不十分だったと考えています。たとえば、バブル期前後から相次いだ税率のフラット化(税率構造の圧縮)による最高税率の引き下げ(75%→45%)や、富裕層に集中している株式譲渡益への課税が10?20%という低率な分離課税で推移してきたことなどで、財源調達機能や所得再分配機能の低下が著しいのも、この議論が不十分であったことと決して無縁ではないはずです。また、高額所得者が高い保険料を支払った見返りに高額の年金を受け取れるという制度を国が行うのも、その議論が不十分で「生存競争、適者生存、自然淘汰という進化論的なロジック」を国が率先して振りかざしているように私には思えます。高い年金支給を望むなら、民間の年金保険に別途任意で加入すればよいだけです。そもそも「生存競争、適者生存、自然淘汰という進化論的社会」と人間の尊厳を第一とする民主的な社会は相反する価値観の依って立っているのではないか。前段の政治の機能が充分に発揮されていたとは思えないという視点に立てば、「社会制度を変えても生きづらさが解消されるわけではない」という政治家の言葉と、その擁護者の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という考えは、政治と政治家の役割放棄と言って間違いありません。

「経済」が社会の牽引役であることに異論はありませんが、「政治」はその牽引車が軌道を外さないようにコントロールして、すべての、そしてより多くの人々に「幸福」である実感の持てる「あるべき社会」を実現する舵とりの役割を果たすのであり、政治家とはそれを国民から負託されている存在なのです。ノーベル医学生理学賞を受賞なさった本庶佑先生が癌治療に則して「幸福とは何かが充たされている状態ではなく、不満や不安がない状態」と述べていらっしゃるのは、私が劇場音楽堂等の社会的存立根拠として常々述べている英国の社会学者アンソニー・ギデンスの「積極的福祉」(Positive Welfare)についての「ウェルフェアとは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である。したがって、経済的給付や優遇措置だけではウェルフェアは達成できない」、「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」 とほぼ輪郭が符合します。日本の「経済的給付と優遇措置」にのみ偏ってきた福祉・教育・保健医療の財政的施策の在り方は、「経済成長偏重」という戦後の価値観のDNAによってなされた政策であり、「何を持って公平で公正な社会とするのか」という徹底した国民的議論の欠落の後遺症でもあります。社会保障費が今後20年でどの程度増大して、いくらの税収不足が生じる、したがって消費税は何%まで増税しなければならないという場当たり的で、小児病的、弥縫策的な論議の多くは、経済成長こそすべてという戦後の価値観と、それによる「成功体験」が密接に結びつていると私は見ています。

その頑陋な「常識」を「何を持ってブレークスルーするか」、それこそが「戦後の価値観からの脱却」であり、「経済成長」の源泉である需要・消費が飽和化してケインズ主義的な「総需要創出政策」が機能しにくくなった成熟社会にあって、その文脈を発見することが新しい価値観による社会構築への展望となるのではないでしょうか。ジョン・メイナード・ケインズは「人間にとって一番難しいのは新しい考えを受け入れることではなく、旧い考えを捨てることだ」と述べています。「成長こそがすべての源泉」という「常識」は、しかし本庶佑先生の言葉でも、アンソニー・ギデンスの「幸福」(Wellbeing)の定義でも、経済的利得よりも「生活の満足感とその心の状態」であると実に言葉が揃っています。私はそのための処方箋として「つながりの構築」、「つながりの再生」、「つながり貯蓄」という、いわゆる「見えない社会保障」(Informal Security)を社会全体に網羅するために投資的資金を導入して、そのインパクトである「変化」を生み出していくべきではないかと考えています。「つながりの構築」、「つながりの再生」、「つながり貯蓄」を地域社会に創出する施策の、可能なかぎりの早期の導入を企図すべきと思います。それによって、いまこそ「誰も置き去りにしない社会」を目指す時に至っていると私は考えています。いまこそ「時」なのです。

それはすなわち「豊かさ」を再定義することになります。「たすけてください」のダイニング・メッセージを遺した「船戸結愛ちゃん」、前述した加害者たちの虚ろな目と無表情が物語るもの、貧困によって夢と希望を語れない「夢格差・希望格差」の中に置き去りにされている多くの子供たち、「つながりの貧困」と「自己肯定感の貧困」と、そして年収186万円以下で日々の生活を営んでいる約930万人の「経済的貧困」という、いわゆる「相対的貧困」の三要素なかで苦悶している人々。私は経済的な豊かさを決して否定するものではありませんが、存在の豊かさこそが「幸福」の根底にあることを実感できる社会を創り出すために、文化芸術の所与の機能であり、日本では2011年の「第三次基本方針」までほとんど顧みられることのなかった、その文化芸術の「社会包摂機能」で国民全体を包み込むことは出来ないものかと、私は考えています。

先の本庶先生は受賞後初の愛知県・藤田保健衛生大学で、「驚異の免疫力」をテーマに受賞後初めて講演を行いました。そして、「これまで私たちは、完治したいなど、『欲求充足型』の医学的治療を行うことに努力してきたが、不安を和らげる、『不安除去型』の医療ということも人間を幸福にする医療としては、同じくらい重要だということを理解してほしい」と未来を担うであろう医学生たちに語りかけたそうです。文化芸術も同様に、音楽鑑賞や演劇鑑賞は確かに心に働きかけて「こころを癒す」とても強い機能を持っていますが、社会包摂型のコミュニティ・プログラムは「存在の飢餓感を癒し、前を向いて立ち上がる生きる意欲」に関わることをプロジェクト・ミッションとしています。すなわち、前述の「見えない社会保障」の創出です。それを勘違いしている劇場人やアーチストがいるのですが、音楽や演劇やダンスによって「存在が癒される」のではなく、それらアーツの相互性を触媒として参加者相互のあいだに「安心できる他者」との遭遇という化学反応を起こすことが肝要なのです。つまり、「必要とされる実感」と「誰かの役に立っているという実感」によって「承認欲求の充足」と「自己肯定感の醸成」、その化学反応の成果として「安心できる他者」に巡り合って「つながりの貧困」から離脱する契機を得ます。それが「存在の飢餓」の克服につながるのです。その「社会的包摂機能」をフル活用して社会にとって有益な「変化」という効用と教育・福祉・保健医療政策における「予算の抑制」をアウトカムしようとするのが、「社会的処方箋」(Social Prescribing)なのです。

英国のアーツコンサルトや劇場関係者によってプロジェクト開始年に誤差はあるのですが、英国芸術評議会と英国保健医療センター機構(National Health Service以下NHS)の協働によって展開されていることは間違いありません。このプロジェクトはNHSによる公的医療扶助の慢性的な赤字を抑制する目的でその協働は始められています。私が英国の「社会的処方箋」を知ったのは2014年の秋のことで、可児市文化創造センターalaの2008年から始めた「社会包摂型劇場経営」がようやく全国的に評価されて、人口10万人の小さなまちの劇場ながら「劇場音楽堂等活性化事業」という補助制度により全国で15館選定される「特別支援」にもなり、次のステージは何なのかを探っている頃でした。そして、地域社会に向かい合う「アーラまち元気プロジェクト」という社会包摂型のコミュニティ・プログラムの政策エビデンスを確立するために、それらの数値化を進めようと企図して「社会的インパクト投資」の一部である「社会的投資回収率」(Social Return on Investment以下SROI)を導入することを決意して、その研究者と実践者への接触を計った時期でもありました。

以下に、「社会的処方箋」という耳慣れない言葉に接した折、その頃に取り寄せた「社会的処方箋」の資料を、少し長くなりますが一部を引用します。多くの皆さんと情報を共有することが、この試みを出立させる最初の一歩であり、日本のすべての国民に向けた「幸福をもたらすための制度」が生まれる未来のための推進力になると固く信じます。

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一般診療における社会的処方箋:医療に意味を付け加えること
British Journal of General Practice, June2009

「自分の本当の望みが分かっていれば、あれやこれやとやたら欲しがる必要はなくなる。」フランソワ・ド・ラ・ロシュフコ― (フランスの文人 1613-1680)
社会的処方箋とは、一般診療医と患者とが、何らかの問題を解決しようとする際、取り得る対応の幅を広げておこうとする試みである。その問題が社会・経済的な貧困とか、長期にわたる心理社会的な問題に起因する場合には、患者も一般診療医も、つい恐れをなして、触らぬ神に祟りなし、という心境になりかねない。短期的な、当面の療法で現実的に対応したつもりでいても、やがて、口には出せない敗北感を、心の奥でかみしめることになりかねない。一般診療の貴重な時間に、もっとできること、いや、やっておくべきことがあるのではないだろうか。
心理社会的な問題が存在するとき、一般診療医たちは、それに対する社会的な解決法を提案しないわけではない。金銭問題なら市民相談窓口を、運動不足と孤独ならダンス教室を、という具合に。しかし、支援体制が確立していなければ、せっかくの行動も名ばかりに終わる。残念ながら、心理社会的な問題が診察室でほとんど取り上げられずに放置されているのは、社会悪に対して医学的に対応しようとしているからである。生活困窮者の悲惨さに抗鬱剤を使用したり、肥満症や二型糖尿病の患者に複雑な薬学的養生法を適用したりしているのである。こういった医学的対応は、当面の問題解決には(健康管理産業の仕事が経済効果をもたらすことも含めて)役立つかもしれないが、未来の我々の社会の持続可能性を保証するものではない。
この問題は、選択という観点から眺めることもできる。政府もお気に入りの、消費者保護運動家タイプの選択がもたらす対応策は、カナダの哲学者チャールズ・テイラーの定義に従えば、「弱い評価」に相当する。弱い評価とは、彼によれば、所与の選択から生まれる、概して短期の成果に対する功利的な比較考量のことである。
この種の選択は、第二義的な欲求に答えるものであって、気分がもっと晴れるとか、痛みが和らぐとか、入院生活を快適に過ごす、などということがこれに該当する。これらは医療〈行為〉の名に値せず、即効性に目を奪われた便宜的処置である。強い評価は、もっと根源的な価値に対応し、第一義的な欲求を扱う。先程の話の続きで言えば、難しい心理社会的な問題への取り組みは、強い評価の対象となるべきである。なぜなら、それは人生に意味を与え、人間としての潜在能力を高め、社会に寄与するという、第一義的な欲求にかかわるからである。この種の取り組みは、消費者保護運動家的なレベルの「比較考量」を要求してはいない。それよりも優先度の高い取り組みなのである。功利主義的で、弱い、消費者保護運動家的な選択だけを存立の基盤にしている社会は壊れやすく、生きる意味も、責任感も、助け合いの精神も、失われてゆく。自身のホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)体験を力強く語った精神科医のヴィクトル・フランクルは、「意味の探求が・・・人生の主要な動機である。」と話を締めくくる。彼によれば、意味の欠如はすなわち「生きる虚しさ」であって、しばしば退屈となって現れ、様々な神経障害や薬物依存に侵される。彼はニーチェを引用する。

「生きる理由をもっている者は、大抵の生業(なりわい)に耐えられる。」

社会的処方箋とは何か?
前述の如く、社会的処方箋の狙いは初期治療の選択肢を増やすことにある。増やされるべきなのは強い選択肢、人生に新しい可能性を開き、生きる意味を与えてくれる選択肢、すなわち、新しい人間関係の中におかれるとか、患者が自分の責任を果たし、創造性を発揮する機会の与えられるような選択肢である。通常、こういったことは、地域社会の中で、多くの場合、ボランティア活動の一環として、また社会事業(「第三セクター」)の中で、受けられるはずのサービスである。よく知られた例としては、ボランティア活動、継続教育、図書館、社交クラブもしくはランチクラブ、自助団体、友愛協会、趣味のクラブ、園芸、スポーツクラブ、自然保護活動、読書会、芸術教室、ダンス教室など、枚挙にいとまがない。
選択肢の多様性は、この試みの要となる挑戦の一つである。考え方は簡単明瞭だが、現実は複雑である。初期治療に当たる忙しい一般診療医、その他の者が、選択肢の存在をどうして知り得よう?それで何をどうすればよいのか?まさか国民健康保険の処方箋にそれを書くわけにもいくまい。その選択肢が効くという証拠はあるのか?どの患者がその恩恵を受けるのか?これは一般診療医に背負わされる、有難迷惑なもう一つの重荷なのか、それとも社会への医学的対応を離れた、歓迎すべき脇道なのか。

社会的処方箋はどのような手順で作成するのか?
社会的処方箋に実効性を確保するには、幾つかの課題を乗り越えなければならない。国民保健制度の活用状況をつぶさに調べるのは骨が折れる。コミュニティの様々なグループの消長は、制定法上のグループのそれを上回るほど短いサイクルで起こる。また、せっかく患者に話が伝えられても、そのまま手を打たないでいると、教えられた企画に手を出してもらえないかもしれない。
2002年にブロムリー一次医療トラストが主催したワークショップ(「社会的処方箋:ブロムリーの取り組み」)は、これらの課題に対する六通りの克服モデルを定義した。既存の取り組みの中で最も人気の高いものは、社会的な種々の機会を実際に活用する患者を個人的に支援する人(しばしばボランティア)を用意するとともに、「世話人」(または委託仲介人もしくは進路調整人)を活用する。世話人が雇われるのは、一次医療の専門家と多種多様な社会的機会(各種の活動や企画)との間の橋渡しの役を果たしてもらうためである。
それは難しい役割であって、聞き上手でなければならず、第三セクターの幅広く多様な人たち、それに紹介を受けた患者を、健康の専門家たちと出会わせて、霊感が鼓舞されるように、場を取り持たなければならない。社会的機会に関するデータベースは絶えず更新し、何時でも参照可能にしておかなければならない。
いずれにしても、社会的処方箋は、患者が自分の住む地域社会の中で利用できる様々なプログラムへの、正式な参加手段でなければならない。適切なプログラムが存在しない場所(とくに辺境の地域)では、社会的処方箋は、何かを発足させるための足がかりとなるはずである。一旦、世話人と支援ネットワークの配置が決まれば、「処方箋」の作成は迅速、かつ簡単に行われる。

社会的処方箋は効力を発揮するか?
社会的処方箋は人々に様々なプラスの効果をもたらすと言われている。例えば、自尊心の昂揚、気分の安定、社会接触の開始、自己効能の増大、種々の譲渡可能な技術の獲得、強化された自信、などがそれである。社会的処方箋はまた、処方された健康関連の活動、例えば体重の減少や運動のためのプログラム、などへの参加姿勢を向上させることも分かっている。しかしながら、効果の及ぶ範囲は、取り組みのプログラムが多岐にわたるのと同じくらいに広く、これほどの複雑な対応は、目に見える成果を出すことが求められる研究では、効果の検証は極めて困難である。一例を挙げれば、患者は、つぼを心得た世話人に出会うだけで、まだ他の誰にも接しないうちに、効果が顕れることもありうる。
 国民健康保険を利用しても、これといった効果がほとんどないか、またはまったくなく、これまで頻繁に保険を利用し、さんざんコストのかかっていた患者が、「別のところへ行って」くれると、国民健康保険としては助かるのである。ところが、「優良患者プログラム」(エキスパート・ペイシャント・プログラム)を調べた結果、短期で見れば、これらの患者の診療回数の減少は見られず、他方で、生活の質は向上し、体力も自己効果も増大していることが分かった。国民健康保険に長年依存してきた人の習慣は、すぐには変らないのだ。この中には、肉体化してしまった心理社会的な困難の表れとしての、おなじみの身体症状現象――ある種の身体化――も含まれる。国民健康保険担当スタッフによる、この種の身体化に対する、気味の悪いほどに穏やかな物言いに対して、患者がいつも見せてきた、おなじみの反応も、同様に根が深い。
国民健康保険の短期もしくは中期の費用対効果が、調査の結果、黒字ではなかったことも、驚くには当たらない。グラント他の研究で分かったことは、この種の取り組みは、不安、全般的な健康、生活の質などに良い効果を及ぼすが、受診回数やサービスへの要求を減少させず、一般医による通常の診療よりもコスト高であることである。このことによって、短期の黒字化を前提とする、診療所を拠点にした委託方式を策定することは困難になる。


社会的処方箋の恩恵を被るのはどのような患者か?
どんな対策でもそうだが、社会的処方箋はすべての人に適合するわけではない。ブランドリングとハウスは、ある予備的研究の中で、一般医から、社会的処方箋サービスと目されるところへ紹介された患者の特性を分析した。それによると、ほとんどの患者に精神疾患の病歴があり、頻繁に受診する患者が大多数を占めていた。他に共通していたのは、二つ以上の慢性疾患、社会的貧困(孤独、対人関係機能障害)、過敏性腸症候群診断、結合組織炎、慢性疲労症候群、女性、三回以上の前年度内二次医療歴(診断手順を含む)であった。共通しているのは、近代的医療技術の恩恵の少なさという点である。同じ傾向は他でも指摘されている。EPP(優良患者プログラム)の研究によれば、健康専門医との関係が良くなかった人たちは、EPP が介入することによって、これまでとは違う態度をとるようになる可能性が高い。一般的に言えば、EPP は自己効率を高め、健康に責任を持ちたいと願っている人たちに功を奏した。社会的処方箋方式に対する反応は、EPPに対する反応に似通ったものとなるのではないかと思われる。
一般医が社会的処方箋に期待の目を向けるのは、患者に対する別の解決法を見つけたいからだけではない。自分自身に対するいら立ちも手伝ってのことである。初期治療に足しげく通う患者に関する論文を調べてみると、社会的処方箋の特徴と重なる指標が幾つも指摘されているのである。

一般医および他の初期治療専門家たちの社会的処方箋への取り組み
試験的実施から分かったことは、大抵の一般医は社会的処方箋を書くべき患者の特定に手間取るということである。もっとも、以前に社会的処方箋に対応した経験のある一般医は、それが難なくできる。他の研究を見ても、社会的処方箋計画への参加者の募集の難しさが報告されている。社会的処方箋の適合性を示す指標(以前に列挙したもの)がありふれたものであるにもかかわらず、そうなのである。
 そこには複雑な事情が絡んでいる。この企画を心理社会的な領域に広げようとしても、冒頭に述べたごとく、様々な要因が邪魔をする。加えて、多くの組織は、一般医と医療看護師に独自の基準を求めている。政府にも同様の事情がある。診療には、こなすべき予定の手順が幾つもあるが、それらはほとんど医学的治療を一方的に想定している。この傾向は、医療・一般診療看護職への継続的専門職能開発が、疾患に対する生物心理社会的対応を犠牲にして、疾病管理に照準を合わせたものになっているため、変えようがないのである。もちろん、個々の保健専門医が医療型思考を離れて、もっと全体観的な治療を取り入れようとする度合いには、大きな個人差がある。それを難しく感じる医師には、社会的処方箋に適した指標を持つ患者の、コンピューター記録への注意を喚起するなら、必要な思考回路が動き出すかもしれない。

何故そうするのか?
世界の先進国の社会は、支払い可能な費用で国民皆保険制度を確立しようと懸命になっている。人口増大、ある人たちの平均寿命の伸長、医療技術費用の高騰、そして増大する患者の要求のために、いたるところで、この問題は深刻化すると予測されている。それと同時に、最近の世界保健機構の報告は、強力な社会的決定要素が、貧しい人たちの平均寿命をどれだけ縮めているかということを強調している。つまり、社会は、私たちの必要を満たしていないのである。最も必要なものは単純で、わずかな数だというのに(あるいはそれゆえに)。ペール・フゲリの言葉を借りるなら、

 「政治の病理は、我々の患者の肉体と魂に銘記されている。」

社会の問題を医療で解決しようとしても、事態の悪化を止めることはできない。社会的処方箋は、それで助かる人も確かにいるのであって、選択肢の一つとして取り上げるべきである。しかし、それは社会をも助けることになるのだろうか。明らかに、地域社会にテコ入れをして、幾つかの厄介な健康問題と取り組ませるのが一番だと思える。そして、このことは、健康と社会の両方にまたがる共同プロジェクトを含めて、公表された政府の政策にも合致している。社会的資本を蓄積し、地域社会の絆を太くしていけば、人々の健康は増進する。そしてそうなれば、良い循環が生まれる。私たちは社会をあたかも患者のように扱い、処方箋を出すことさえできるはずだ。このためには、医療文化を一変し、地域社会の市民・国民の健康にもっと寄り添う形にしていかなければならない。
 もし私たちの研究手法では、この方針転換の長期的効用を証明できないとすれば、自分たちの理想社会のヴィジョンによって、導かれるべきであろう。悪を生み出す社会に住み、医療の力に物を言わせて、その矯正を図るのか、それとも、社会資本と社会的責任を通して健康が生み出される社会に住むかという二者択一なら、選択に悩む者はいないであろう。これはチャールズ・テイラーの言う強い評価に属する問題であって、私たちはここで深刻に悩む必要はない。現在のような社会状況下でも、私たちがどうにか今の水準に留まり得ているのは驚嘆に値する。ミシェル・イグナチエフはこのことを上手に表現している。

「現代の精神的空白に唖然とするよりも、人々が、沈黙の時もおしゃべりのときも、それなりに意味と目的を見出していることに、驚嘆すべきである。」

・・・けれども、もちろん、私たちの間には、それが出来ていない者が多くいるのである。

     ※       ※       ※       ※

国民の健康促進のためにアートを。
ガーデアン紙 ピーター・バザゲット(英国芸術評議会議長)

NHS(英国健康増進局)が過去最大の負担を余儀なくされる中、アーツカウンシルと医療当局が連携し、国内各所でプロジェクトを行っている。

我が国の保健サービスは現在の仕組みは将来的に成り立たなくなるであろうという認識が徐々に強まっている。出生率の増加により需要が増えている中、技術・医療の進歩により、さらなる人口増加が予想される。高齢者人口も急速に増えており、緊急的なサービスや社会的ケアの必要性が高まっている。抗生剤や抗鬱剤を日常的に服用する必要のある患者の増加により、一般の病院や救急外来の受診者はこの10年で倍増している。

イングランドNHS(保健増進局)の新しい最高責任者、サイモン・スティーブンス氏は先月、現在の制度を維持するためだけに、どれだけの追加予算が必要かを発表した。また、注目すべき点として、肥満の予防よりも治療により多くの予算が使われていることを指摘した。その示唆するところは明白だ。我々はすぐにも、健康を促進するための新しい手段を模索しなくてはならないということだ。Faculty of public health(公衆衛生局)の長であるジョン・アシュトンは、アーツカウンシル発行「create」の最新刊に書いたエッセイでこのテーマを取り上げ、「病気を予防・改善するための活動や施設、公的環境に投資するよりも、すでに病気を患っている人のほうにはるかに多くの予算がかかっている」と述べている。一方、医師や介護者、健康当局、地方自治体等は、国民の健康を促進するための手段としてアートに静かに注目しつつあり、着実に効果を上げている。これは、治療というよりも予防的な活動であり、また、文化や芸術が今までもそうであったように、人生を豊かにするものでもある。

コーンウォールでは、ベアリング財団とアーツカウンシル・イングランドが、介護施設で行われる演劇から機織りまで、様々な活動に資金提供をしている。Arts for Health Cornwall(コーンウォール健康のためのアート)の代表Jayne Howardは「高齢者の方が創造的活動に関わることは、体を動かすこと、社会との交流、食欲増進、人生の豊かさにも大いにつながっている」と話す。

リバプールでは、地域の博物館が、認知症患者が過去を思い起こして味わう手助けをするためのヒストリープロジェクトHouse of Memories(記憶の家)を展開している。サウス・スタフォードシャー州・シュロップシャー州の共同NHS財団では、プロのアーチストによるアルツハイマー患者のための歌のプロジェクトを進めている。バーミンガム・ソーリハルの共同精神保健NHS財団は、バーミンガム・レパートリーシアターと手を組み、べドラム・アイディア・フェスティバルを作り、ここで精神的問題を抱える人々が演劇やコメディを行っている。ウォールソール協議会では地域のホスピスでの詩や写真の活動に資金提供をしている。ケントでは、シドニー・デ・ハーン芸術と文化リサーチセンターが、呼吸に問題がある人たちのための歌のレッスンを先駆的に開発し、その結果を示すデータを慎重に集めている。ロンドンでは、英国ナショナルバレエ団が専門家チームを作っていくつかのプログラムを行っている。その一つ、パーキンソン患者のためのダンスプロジェクトは、症状改善のための専門家の研究にも役立っている。筆者は、イプスウィッチのダンス・イーストが行う健康になりたい人たちのためのクラスと、チェスターで重度障害者のためのダンスと音楽のクラスを開催している団体、ダンス・チェシャーを訪ねたことがあるが、現場を見ると様子がよく分かる。
最近では、一部ではこうした取り組みを「social prescribing(社会的処方箋)」と呼んでいる。医療的なものに聞こえるかもしれないが、少し高尚な言い方をするならば、私たちは体と同じように精神もケアすべきであり、アートはその両方を可能にするということだ。先日、国内の保健関係機関の責任者たちと同席したが、今では彼らもこれをとても真剣に受け止めている。今後の保健政策にも盛り込まれるだろう。これが私たちの進むべき方向であり、また、社会的、経済的な面から見てもよい方向だからだ。もちろん従来通りセラピー治療も行っていくが、新しい点は、アートの専門家が保健当局との公的な契約によって幅広く関わっていることだ。

グロスターシャー州のArt-Liftという取り組みは、アーツカウンシルではなく地域のNHSから資金提供を受けている。一般病院の医師は、自分の病院に来る患者に対して演劇、音楽、絵を描くことなどを「処方」することができる。ある医者は、これはすでに「プロザック(抗鬱剤)」よりも有効性が高いことが実証されていると、苦笑いをしながら話してくれた。また、ケンブリッジシャー州でのArts & Mindsという取り組みでは、医療関係者が患者にアートワークショップを直接照会することができる。ロンドン大学ユニバーシティカレッジでは、その名もMuseum on Prescription(処方箋による博物館)という3年間のプロジェクトをイングランド南東部で実験的に行っている。孤立し、弱い立場にある高齢者と、地域の遺産=彼ら自身の文化とを結びつける試みだ。

また、Books on Prescription(処方箋による本)という新しい取り組みもイングランド全土で行われている。特定の症状の患者のサポートとして、医者や医療関係者が本を患者に推薦する。初年度は27万5000人に対して本の推薦を行い、多くの患者、特に精神的な問題を抱えている人たちに重要な支えを提供した。

社会的処方箋がさらに広く、体系的に取り入れられるためには、その効果を示す必要がある。一般の病院や救急外来の行列を減らし、精神衛生事業や社会的ケアが直面している苦しい状況を救うことができると証明しなくてはならない。医療関連の予算はすべて、厳しい実証実験にもとづいて公正に決められるからだ。しかし、ある推定によると、現在行われているいくつかのプロジェクトの効果により、NHSの支出だけを見ても、5億ポンド以上の支出削減になっているという。アーツカウンシル・イングランドは来年、アートと健康についての調査に対してさらなる資金提供を行う予定だ。また、必要な証拠を求めるさらなるプロジェクトを行うための新たな団体、Aesop(Arts Enterprise with a Social Purpose:社会的目的のためのアート組織)も立ち上げられた。この団体の初の取り組みは、ダンスのエクササイズを行うことが高齢者の転倒を減らす効果があるかを調査する事業である。創立者のティム・ジョスは重要な2つの点を強調している。それは、証拠は有効なものでなくてはならないということと、アートは質の高いものであるべきだということである。

今後、何が必要なのだろうか?次の選挙に向けてのNHSについての議論の中で、確実にアートと福祉についての実例がきちんと認識されるようにすべきである。アート関係団体と医療当局が同じ言語で話せるようになるために、やるべきことはたくさんある。そのために、National Council for Voluntary Organization(全国ボランティア団体協議会)はアーツカウンシルから資金提供を受けて、トレーニングやオンラインの情報提供などにより、アーチストが医療に関わる依頼を受けやすくするためのサポートを行っている。
薬は体のケアをするが、アートはその人自身をケアする。医療サービスにおいては、病気の予防に今より多くの資源を投入すべきであることは明白だ。そして、このアプローチはすべての分野にとって有益をもたらす。政府と地方自治体が文化芸術に使う支出は、NHSの支出のわずか50分の1ほどだ。しかし、とりわけ医療や福祉の分野においては、少ない額で高い効果を上げていると言えるだろう。

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私はこの英国で起こっている芸術と保健医療の協働による社会と向き合うプロジェクトを、「民主主義も危うくなってくるため、それを防ぐためには資本の論理に対抗する政策が必要だ」というピケティの主張を継承するものとして、教育政策、福祉政策、保健医療政策等のすべての日本の社会政策全般を包括的に対象とする「日本版社会的処方箋」を考えてきました。むろん、ビケティの提唱する国際累進資産税の導入も必要であると思いますが、これには気の遠くなるような時間と労力が必要となります。だとすれば、アンソニー・ギデンスの「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」 を実現可能な政策としてダウンロードして「誰も置き去りにしない」総合的な施策に位置づけることが出来ればと思っています。これは今日の社会現況を考えれば相当の緊急性の求められる施策です。「社会的インパクト投資」の観点から俯瞰すれば、公的資金の支出抑制に直結する施策であり、緊急を要する行財政改革にも関わる政策課題となります。当然ですが、全国2400館の劇場音楽堂等がその拠点施設の役割を担うべきですし、芸術団体は其処との提携によってコミュニティ・アーツワーカー(CAW)を派遣する人材供給機関としての公共的な役割を持つべきと思っています。そのことで、これまでは「娯楽」とか「趣味」とかに押し込まれていた文化芸術を、社会に必要な「公共財であるとの社会的合意」を形成したいと、私は遠い願望を持っています。

私の生涯最後の仕事は丸亀市での劇場計画で、愛好者と経済的・時間的余裕のある特権的な市民だけに受益のある施設ではなく、「劇場から、経済的にも社会的にも心理的にも、一番遠くにいる市民にこそ果実を」という取り組みで、今年5月から毎月5日間丸亀に滞在して、10人前後の市民との対話の場である「車座集会」に出掛けています。5年間で10000人の市民とお話しすることで、基本構想から実施設計まで学識経験者・有識者・文化関係者で組成する「委員会積み上げ方式」の従来の計画策定方式が、最終的には市民の夢や希望と乖離してしまい、「誰のための劇場ホールなのか」を当事者でさえ誰も答えられないほどの規模と予算になってしまうことへの私なりのアンチテーゼが最後の仕事と決めている「丸亀方式」なのです。「丸亀方式」による「みんなの劇場」(仮称)を実現させて、「可児モデル」の劇場経営を成立させることです。「社会的処方箋」は頑陋な国民の「常識」を変化させることですから、あと3、40年ほどはかかる遠大な計画です。これは丸亀のずっと先にある文化芸術による国のかたちというグランドデザインだからこそ、本当に「頭だし」だけでも遺しておきたいという切なる願望があるのです。(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_191.html)

むろん、これは政治だけに付託される施策ではありません。企業も相応の負担をして国民運動を支えてほしいと切に思います。ただ、断っておきますが、これは「文化支援」の枠で行うものではありません。また、「文化支援」での資金拠出であるメセナが株主資本主義の浸透によって株主総会に諮りづらい企業環境にある、とも仄聞しています。しかし、これは企業メセナではなく、純粋にフィランソロフィーであり、社会支援であり、成熟社会で噴出する社会の課題の解決と、同時に進捗させなければならない新しい社会構築への参画であり、企業の社会的責任(CSR)の一歩先に行くマイケル・ポーターの提唱する戦略的CSR 、すなわち国民や消費者との共創型マーケティングであるCSV(Creating Shared Value)への道を切り拓く戦略的投資に他ならないのです。CSRの「人間中心でも利益を上げることは可能だ」から、「人間中心でなければ利益を上げ続けることはできない」への転換を促して、従業員の「やる気と生きがい」を生み出す「モチベーション3.0」(ダニエル・ピンク)を起動させて従業員満足と会社へのロイヤルティ醸成という成果にもつながります。

ただ、近年の経済界の企業経営者の動きにはいささか失望しています。2015年10月に政府が呼びかけた「子供の未来応援国民運動」の一環として日本財団に設置された「子供の未来応援基金」への企業からの拠出金が5ヶ月で2000万円にも満たない1949万円であったというニュースは、私は深く失望させました。経団連側は当初、「政府が税金で取り組むべき問題だ」と寄付には消極的だったそうで、それは私も同感ですが、一方で10億単位の政治寄金を拠出している事実とのあまりのアンバランスに呆然となり、すぐに深い失望がやってきました。「渋沢栄一」や「松下幸之助」はいないのか、と思いました。巨額の内部留保の一部は、非正規労働者の所得が企業の利潤に移転したからではないのか、まっとうに働けば普通に生活を営める収入を得られる社会を暗転させたのは誰なのか、経済誌が「プロの経営者」と一時期盛んに持ち上げていたのは「ただのコストカッター」だったことに私は唖然となったことがあります。「強欲」であることが「プロ」であるなら、私は「プロ」でありたいとは思いません。あくまでも「人間」をど真ん中に据えた経営こそが、あらゆる不信感を拭い去って、必要とされる機関としての企業とその存続を担保するのではないでしょうか。私は、この「誰も置き去りにしない社会づくり」の国民運動に、政府自治体のみならず、企業も、団体も、そして個人も、積極的に参画してもらいたいと強く願っています。国民みんなが少しずつ優しくなるだけで、社会は大きく変わるのではないでしょうか。(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_189.html)

2019年度は大規模改修のため「世界劇場会議国際フォーラム」は開催することが出来ないかもしれませんが、2020年度以降には、英国の「社会的処方箋」に関わっている人々及び研究者を招いて事例報告とセッションを仕組み、「社会的処方箋」のキックオフ・ミーティングを実施しなければと考えています。「オプジーボ」は基礎研究の成果が製品化されて臨床で使用されるまでに四半世紀もの時間を要しています。「社会的処方箋」は国民の意識変革にまで関わる総合的な重要政策です。国と自治体の財政課題ともリンクしているアジェンダであり、永遠に経済成長することはありえませんし、またどこまでも増税し続けることも考えられないので、おそらくは今世紀半ばあたりに、その必要性への認識の共有が不可避的な事態となると考えられます。そのような緊急事態になる前に出来るだけ早期に制度導入に至ってほしいと、私はひたすら祈るばかりです。

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