エッセイ

「障害者」と書かないで。

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

2000年に香川県のフェスティバルで松田正隆の二作品を高松市に長期滞在して、西川信廣氏の演出で製作しました。その前年に、関連企画として春日保育園と西春日保育園の年長さん約40名と重度身体障害者授産施設朝日平成園の15名程とのコミュニケーション・ワークショップを2日間にわたってやったことがあります。ファシリテーターは劇場設備を付属させた富良野老人保健施設の作業療法士川口淳一さんとインプロ演劇の専門家の絹川由梨さん。絹川さんはその時が初めてのワークショップだったと記憶しています。ただ、彼女の存在が発するパワーは人を動かす力に満ちていて、経緯の詳細はおぼろげなのですが、彼女ならできると見込んでの依頼だったと思います。両保育園の園長さんは確か理事長でもあったのですが、彼女と朝日平成園の管理者とは何回も足を運んで「出来ること、必要なこと」を話し合って、春日保育園で園児と朝日平成園の通所者が出会うというかたちが整えられました。1日目は悲惨でした。障がいのある子供を普通学級から排除する「分離教育」によって何が失われるかをまざまざと見せつけられました。障がい者を生まれて初めて見る園児たちが固まってしまったのです。それはそうです。街中では障がい者と遭遇する機会が起こらないような施策が進められてきたからです。園児たちの表情には怯えや恐怖心さえありました。その日のうちに保育園内でプログラムの修正改変を行って2日目には園児と障がい者が頬をつけあってはしゃぎ合うような関係づくりに辿りつきました。

その時に、四肢障がいと若干言語にも障がいを持った、とても快活で、行動的なタッピーこと大内武志君と知り合い、その後年賀状のやりとりやメールの交信をしていました。香川県障害者スポーツ協会が主催するスポーツ大会で砲丸投げやソフトボール投げをしたりしている好漢で、「こんど東京の国立競技場に行く」と言っていました。全国大会ということでした。その意欲的な彼の生き方には本当に多くの事を教えられました。特別な訓練をしたパラアスリートとは違った、ほんとの意味の障がい者スポーツです。そんな彼はよく「僕たちは障がい者だから」を口にしていました。どうしてそういう言葉が枕詞のように使われるのか、いささか自虐的な物言いと私は感じていました。彼は忘れているかも知れませんが、ある時私は彼に「障害者って言われるのってどう?」と訊いたことがあります。親しくなったから訊けることなのですが、それでも幾分かの勇気を振り絞って訊きました。少し間があってから「あまり、好きじゃない」と返して来ましたが、私は彼の一瞬口をつぐんだことと、その口調から「抵抗感」とか「拒絶感」と同時に、一瞬の躊躇からは仕方がないという「諦観」に近いものを嗅ぎ取りました。

後年、私が可児市文化創造センターalaの館長に就任して「社会包摂型劇場経営」に踏み込むことになる伏線に、この高松での出会いと、その数年前の長崎の学習障がい児の「のこのこ劇団」の当時小学校四年生だったあゆみちゃんとの交流と、阪神淡路大震災の時の「神戸シアターワークス」での足かけ4年間にわたった活動がありました。その度々に、演劇の持つ潜在的な可能性と、本当に短時間で「変化」を起こす信じられないほどのコミュニティ形成の力を私は目撃して、その頃30数年演劇評論家として毎日のように私が観てきた演劇は、それが持つ潜在力と可能性の極々一部分でしかなかったと思い知らされました。そして、このような社会的課題を解決に向かわせる活動に国民的認知がなされれば、劇場とホールと芸術は本当の意味での「公共財」になると考えました。私が敬愛してやまない宇沢弘文先生の「社会的共通資本」として、すべての人々に幸福感のある生活を営む上で必要とされる財となるのではないかと、当時としてはほとんど「妄想」としか思えないことを考えていたのです。この考えは当時計画が進んでいて、私も主査として関わっていた北海道劇場計画に織り込んでいたのですが、計画が凍結されて私は県立宮城大学・大学院の教員を経ておよそ10年後に可児市に居を移して「新しい価値へ向かう社会包摂型劇場経営」に入ることになったのです。これは日本では「文化振興」と極めて抽象的で曖昧な概念で語られてしまって具体性に欠ける文化政策を、成熟社会の最重要政策に位置付けるための「負担と受益の圧倒的な不均衡」を是正するというデザインのための手段なのですが、その詳解は後日この欄に書きたいと思います。閑話休題。

さて、昨年末の12月27日に「文化芸術基本法」の改正に基づいて協議検討された「第一期文化芸術推進基本計画」が中間報告として発表されました。パブリックコメントの後に来年度早々に閣議決定されて以後、オリンピックをまたいで5年間の文化政策の根幹となるものです。「人間尊重の価値観に基づく人類の真の発展に貢献するもの」と文化芸術を規定した点は、人間の尊厳を遵守するという文化政策の礎となる理念を謳う決意表明と受け取れ、格調の高い書きだしであり、ここに軸足を置かないかぎり文化芸術と劇場音楽堂等は一部の愛好者と特権階級に受益者が偏在するものになってしまうことは自明の理です。また、それを補完するように「戦略4」に「文化芸術が一部の愛好者のためのものではなく、全ての国民のものであると認識されることを目指す」と、この10年間アーラで私が主張し続けてきたことが書き込まれて、全体としては概ね満足できる内容になっています。私は「変化」は急激に起きるものではなく、外部環境とのあいだに動揺を起こしながら漸進的に変わり、ある時点で加速度的に雪崩を打って激しく変化するティッピングポイントに至ると考えているので、今回の「第一期基本方針」にはそのプロセスとして評価して良いと考えています。

2011年2月に閣議決定された「第三次基本方針」で「文化芸術の社会包摂機能」、「社会的必要に基づく戦略的な投資」という目新しい考えを提示してから7年で「社会的価値」という新しい評価軸を設定したことにも高い評価を与えてよいと思います。ただ、残念なことに、いたるところで「障害者」という文言が使われています。これには強い違和感を覚えます。「障害者」という言葉から連想するのは身体的な障がいを持つ人です。英語で「disabled person」と言っても身体障がい者を指します。つまり特定の、きわめて限定的な障がいを指してしまうのです。一方で「第三次基本方針」で「子ども・若者や、高齢者、障害者、失業者、在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会的基盤となりうるものであり、昨今、そのような社会包摂の機能も注目されつつある」と書いているわけであり、「障がい者」という対象を著しく狭く限定する文言をあえて使っていることに、私は両者の間に相当な矛盾を感じます。「第三次基本方針」と今回の「第一期基本方針」は明らかに自己矛盾です。「障害者」や「障害者等」を慣用句的に使用しているのなら何をかいわんやです。

さらに、「社会包摂」という言葉が日本で最初に使われた公的文書である2000年12月の厚生省社会・擁護局による『社会的な擁護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会』の報告書においては、新たな福祉課題に対応するための方法を導く理念としてソーシャル・インクルージョン(社会包摂)が位置付けられているのですが、ここでは「問題把握の視点」として、(1)問題の背景 ・経済環境の変化 ・家族の縮小 ・都市(地域)の変化。 (2)問題の基本的性格 ・心身の障害や疾病 ・社会関係上の問題 ・貧困や低所得 (3)社会との関係における問題の深まり ・社会的排除 ・摩擦 ・社会的孤立、があげられており、「従来の社会福祉は主たる対象を『貧困』としてきたが、現代においては「心身の障がい・不安」(社会的ストレス問題、アルコール依存、等)、「社会的排除や摩擦」(路上死、中国残留孤児、外国人の排除や摩擦、等)、「社会的孤立や孤独」(孤独死、自殺、家庭内の虐待・暴力、等)と対象が広がっていることを示唆しています。文化庁の「第三次基本方針」と同じ2011年8月に厚労省社会保障審議会が出した「社会的包摂政策を進めるための考え方」においては、「社会的に孤立し生活困難に陥るリスク」という文言が使われており、「社会包摂」が単に「身体障がい者」を擁護する社会政策理念ではないことは明らかです。 

私は、身体的障がいを持っている方と同等に「生きづらさ」や「生きにくさ」、放置すれば「社会的に孤立し生活困難に陥るリスク」を抱えている人は、前世紀に比べて非常に多くなっていると思っています。「障害者」や「障害者等」では捉えきれないほどの、「文化芸術の社会包摂機能」を必要としている人々が、今この時も、あえぎあえぎ精神的な孤立と社会的な孤立を懼れながら生きているのです。劇場音楽堂等と文化芸術は彼らに経済的な給付をする能力は持ち合わせていませんが、アンソニー・ギデンスの語った「積極的福祉positive welfare」を実現させて、孤立をヘッジし、前を向いて立ち上がる契機を提供することはできます。

アンソニー・ギデンスはこう言っています。「ウェルフェアとは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である。したがって、経済的給付や優遇措置だけではウェルフェアは達成できない」、「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」 と。現代の貧困にはおよそ三つの要素が複合的に絡み合っていると私は思っています。一つは言うまでもなく経済的な貧困です。二つ目は「つながりの貧困・関係の貧困」、そして三つ目は「自尊感情の貧困・自己肯定感の貧困」で、一つ目以外の「貧困」には文化芸術の社会包摂機能が有効に働くと、現場での実感と社会的インパクト投資の観点から実証できます。つまり、文化芸術の社会包摂機能は、ギデンスの「満足すべき生活状態を表す心理的な概念」を成立させて孤立に瀕している状態から人々をテイクオフさせることが出来ると考えています。私は「生きづらさ」や「生きにくさ」、放置すれば「社会的に孤立し生活困難に陥るリスク」を抱えてしまう「障がい」には、「身体的障がい」の他に、精神的障がい、犯罪被害者、震災の被災者などのPTSDによる「心の障害」、貧困や差別や格差からくる「社会的障がい」の三つに大別できると考えてきました。

そして、それらを包括的に表現できる文言が、文化に関する公的文書には是非とも必要だと考えています。一国の文化政策は、国民の創造的感性と豊かな想像力を育むと同時に、その社会包摂機能を援用することで、教育政策、貧困対策、雇用政策、保健医療政策、福祉政策、差別と格差対策などの、あらゆる社会政策の課題解決に資することが重視されるべきです。現在、全国各地に2000席以上のホール設置計画と建設が進められていますが、文化芸術の享受を「鑑賞」に押し込め、受益者を「愛好者」に限定するような構造物が税金を費やして設置される時代は、すでに1990年代初頭には潰えていることを知るべきです。後ろ向きの劇場ホール設置にはすでに地域社会に貢献する未来も、可能性もないと知るべきです。それらの施設は竣工した時から、ただちに衰退がはじまり、近い将来に悔いる時を迎えるに違いありません。少なくとも、税金で設置し、運営される劇場音楽堂等は「興行場」という単一機能で成立させてはならないと、私は強く考えています。同時に、単に「障がい者」ではになく、「社会的に孤立し生活困難に陥るリスク」を抱えて「生きづらさ」や「生きにくさ」を感じている人々にとってこそ、必要な機能を発揮できる、彼らの「悲しみ」と「苦しさ」と「失望」、そして「喜び」をも分かち合える場所として、そして公共財として劇場音楽堂等を成立させなければならないと、私は強く思っています。

このページの上部へ