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エッセイ

「社会包摂機能」は芸術の本来価値である ―  自己都合で解釈されている社会包摂への四つの誤解と強弁について。

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

「芸術の本来価値」という言葉を聞いて、我が意を得たりと満面の笑みを浮かべた東京の芸術団体統括組織の人物がいました。「芸術の本来価値」とはエクセレンス(卓越性)のみであると信じて疑わない考えの人物であり、2011年2月8日に閣議決定された「文化芸術振興に関する基本方針」(第三次基本方針)にはじめて書き込まれた「文化芸術の社会包摂機能」は、芸術の本来価値ではなく、あくまでも副次的な機能でしかないと思っていると、その人物のここ数年の言動から推察してはいましたが、このように考えている芸術関係者、文化研究者は 決して少なくはないのです。しかも、その多くが公職に就いていることに、私は驚きを禁じ得ません。つまり、公的資金によって禄を食み、その日常生活を成り立たせているにもかかわらず、「芸術のための芸術」を信奉して、芸術や劇場音楽堂等に税金が投入されることを無条件に所与のものとして至極当然と考えているのです。私は芸術的成果物や劇場音楽堂等を無条件に「劇場法 前文」にある「公共財」であるとは考えていません。これらをすべて「公共財」として政府自治体が義務的な経済支援をすべきなどと不遜な考えは持ち合わせていません。彼らは「文化芸術の社会包摂機能」を近年になって「芸術の本来価値」に追加的に付与されたもの程度の認識なのではないでしょうか。

しかし、歴史を俯瞰してみれば、その考えがいかに日本の特殊な芸術環境によって醸成された、偏狭な考えかが理解できるでしょう。たとえば、第二次世界大戦後の英国で荒廃した国土と国民の精神を健全化に向かわせ、すべての国民の「Well Being」(幸福・福利)のためにクレメント・アトリー政権が打ち出した二大政策のひとつに、有名な「揺り籠から墓場まで」と後世言われるようになる社会福祉政策があります。これが英国の保健医療機関であるナショナル・ヘルスサービスの設立へとつながるのですが、いまひとつは、のちの英国芸術評議会の設立を準備する「多くの人々が参加できるように文化芸術の幅(対象)を拡げること」と「社会の問題解決のための文化芸術の社会的役割を果たすこと」の2つの文化政策のパラダイムがあります。前者が一部の特権階級や愛好者の独占物にしないことが公的資金導入の条件であり、しかも社会的・階級的矛盾によって生じる社会課題を解決に向かわせるために文化芸術及び文化施設を活用する文化芸術による積極的福祉政策の展開を想定したものと言えます。

アトリーは、公的資金による文化支援が国民的合意を形成し、可能となるための条件を明確に提示したのです。英国芸術評議会というと初代議長である経済学者ジョン・メイナード・ケインズによる、ナチス・ドイツによる芸術の政治的利用への反省を踏まえて政府から一定の距離を置く「アームズ・レンクスの法則」の提唱にフォーカスされることが多いのですが、アトリーの2つの提言こそが、のちの英国芸術評議会の活動と芸術と社会の幸せな関係を準備することとなった、と私は考えています。ここに至って、芸術団体や劇場ホールなどの文化施設への公的支援を初めて「投資」と言い切ることが出来るのです。 「コストからインベストメントへ(負担から投資へ)」という考え方は是非とも記憶にとどめてください。劇場経営や芸術経営と公的資金の関係を解き明かすうえで重要な言葉となります。一部の芸術愛好者や特権階層にのみを文化サービスの対象者として想定する「常識」によって削減の一途の文化予算や指定管理料に歯止めをかけ、教育・福祉・保健医療分野との協働を可能とし、従来の縦割り行政の横串として、文化行政の存在価値を高度化するために「投資」は重要な戦略的タームとなります。そして、この公的資金による「投資」という考え方が成立するスキームこそが、あらゆる社会的分断を回避、あるいは修復させる「文化芸術の社会包摂機能」であり、その機能もまた言うまでもなく「芸術の本来価値」なのです。

古代ギリシャの都市国家における市民の紐帯を強める機能を果たしたギリシャ劇は、他の都市国家からの侵略を防ぐための共同体幻想による強固な結束を図るとともに、結果としてその強固なコミュニティの紐帯が社会的弱者である高齢者、障がい者、児童のより良き生存を可能にしたことは想像に難くありません。日本の村落共同体での祭祀やそこで演ぜられる芸能も同様の機能を果たしていたと思われます。百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励されたのが郡上踊りの嚆矢とされていますが、90年代に取材で訪れた八幡町役場(2004年から郡上市)の職員から「盆踊りによってコミュニティの結束が図られて、知的障がい者もこのまちだからこそ普通に生活できるのです」という自信に満ちた話を聞いたことがあります。郡上踊りの嚆矢が四民融和という社会包摂を目的としたものであり、その後現代にあっても社会的弱者を柔らかく包む、強かなコミュニティ形成を変わることなく促しているのだと深く感心した記憶があります。

つまり、「文化芸術の社会包摂機能」は、歴史を俯瞰すれば一貫して「芸術の本来価値」であったのであり、2011年以降に突如として付加されたものでは決してないのです。日本の芸術関係者や文化研究者が「芸術的エクセレンス」を唯一無二の最上の「芸術の本来価値」と思い込んでいるのには、日本の、とりわけ舞台芸術の日本独自の変則的な環境から生じた特殊事情があると言えます。日本の舞台芸術の発展は、芸術的使命によって結成された演劇団体、音楽団体が、劇場ホールを一定期間借り受けてその成果を発表することで進化を遂げてきました。ほんの15年前まではそれが通常の社会的慣用であり、そこは上演場所であり興行場としての劇場ホールの鑑賞機能さえ満足できれば他の機能を要求されることはなかったのです。したがって、現在でも東京の多くの劇場ホールは官民を問わず、チケットを購入した者のみに開放されている場所です。当然、それ以外の、人間が集ったり、語らったり、知り合ったりする社会的機能は求められていない場であり、結果としてそのための機能が欠落した場であったのです。

80年代から90年代にかけて建設された公立ホールを訪ねると、その設計が、エントランスを入るとすぐにホールの入り口があって、鑑賞以外の機能は持ち合わせていないところが多々見受けられます。チケットの購入者にしか劇場ホールは開かれていないのです。そのような設計の理由はまさに前述の日本に特殊な環境にあるのです。その劇場ホールを一時的に専有して芸術的成果の評価を社会に問うというのが、日本の舞台芸術の一般的な発展形態だったわけです。ということは、舞台の芸術的評価と観客動員数とチケット発券数による経済的評価のみに特化していたわけで、設計的にも機能的にも「社会包摂機能」の起動する余地はまったくなかったと言えます。したがって、東京でのみ文化芸術を研究対象にしている、あるいは劇場というものの機能を考えている者にとって「芸術の本来機能」とは「芸術的エクセレンス」でしかなかったのだと言えます。

私は、97年に上梓した『芸術文化行政と地域社会―レジデントシアターへのデザイン』に収録した書き下ろし部分に「ところで、行政が芸術文化にかかわる根拠はおよそ次の二点においてである。より広範に供給される市場形成のための『環境整備』がその根拠のひとつであり、いまひとつは、健全な地域社会を形成するために、その行政目的の達成を芸術家をパートナーとしておこなう、いわば《社会政策的文化行政》においてである」、「演劇は私的な欲求を充足させる財であると同時に、福祉、教育、保健医療、保育などの地域社会が抱える諸問題にかかわり、その解決のための媒介的役割を果たす社会的価値財でもあるとの認知を促して地域社会と行政に意識の転換を求めることであり」、「舞台という成果への『芸術的価値』のみを絶対的な価値として、それ以外のたとえばアウトリーチ活動にかかわる『社会的価値』を軽視しがちな従来の演劇の在り方に変革を迫るものである。いわば、芸術を聖域化する偏狭な考えからの、アーチスト自身の解放と言える」(「演劇・そのもうひとつの社会的使命」)と書いています。これは、長崎の自閉症児をはじめとする学習障がい児の「のこのこ劇団」の活動に触れ、彼らとの交流を通して得た考えであり、その直後に起こった阪神淡路大震災で「神戸シアターワークス」を組成して4年間神戸で活動した経験から導かれた考え方です。長い引用となりましたが、日本における「片肺飛行の芸術の本来価値」は、偏狭な視野によって生まれた日本の特殊事情によるものであることは自明なのではないでしょうか。それが「社会包摂への誤解」の一点目です。

誤解の二点目は、今年1月に「館長エッセイ」でアップした『「社会包摂」は社会的弱者への『ほどこし』では決してない』(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_183.html)で明らかにしたようなエリート意識による似非社会包摂です。昨年3月にアップした「『社会包摂は流行り言葉』という不見識」(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_174.html)も根っ子は同じで、選民意識の紛々とする社会と人間への姿勢がその裏にはあると思っています。「社会包摂が文化政策の重要なイシューになったから、そろそろ事業化して補助金を取りに行こう」と言っていると仄聞する大型文化施設の職員の発言にも、私は同じ腐臭を感じます。

そのような意識の下で行われるワークショップやアウトリーチは、何ひとつ解決できないばかりか、参加者にスティグマをさらに捺し付けるだけで、激しく心を傷つけてしまうと私は危惧します。事態を一層悪化させるだけです。関西の自治体の施設でのセミナーで、就学援助と児童扶養手当の受給児童とそのご家族をアーラの自主事業に招待する『私のあしながおじさんプロジェクトfor Family』を紹介したところ、「そのような貧しい人たちが何年かたってチケットを購入するようになるのでしょうか」という若いホール職員からの質問がありました。これも「社会包摂」の意味をまったく理解せず、鑑賞者開発に直接つながる愛好者開発を劇場ホールの唯一無二の使命と思い込んでいる発言であり、「常識」をいとも簡単にブレイク・スルーするのが若者の特権であると思っている私にとって、あまりに保守的な質問に呆然としました。

「いったい、お前は何者なんだ」と糾弾したい気分になります。これらの誤解と甚だしい勘違いは、劇場関係者の社会意識の欠如をあからさまに物語っているとしか私には思えません。いまこそ劇場の外に視線を移すべきではないか。いま社会にどのような「変化」が起きているのか、どのような分断が生じているのか、如何なる社会的矛盾がどのように人間の尊厳を毀損しているのか、私たちは真昼の空に星座を見出だす目を持たなければならないし、生きづらさから漏らす微かな苦呻を聴き取る耳を持たなければならないのです。「助けて」と言えない社会、「助けて」を誰にも受け止めてもらえない社会の中で、「文化芸術の社会包摂機能」を手にしている私たちの職業的使命のひとつが、まさにここにあることは言を待ちません。

三つ目の誤解、というか我田引水・牽強付会の曲解は、「社会包摂」が政策的にクローズアップされる前から実施していた劇場課題を解決するための鑑賞者開発と愛好者開発の「普及啓発」のためのワークショップ、アウトリーチを、社会課題の解決に向かわせる社会包摂プログラムだと、ある日突然強弁するようになった劇場ホールの存在です。これは「社会包摂」の考え方を根本的に捻じ曲げてしまうことで、将来に禍根を残す見逃すことのできない所業です。それも許されないのですが、中小規模館ならまだしも、全国ブランドになっている有名大型館や特別支援枠になっている劇場ホールまでもが確信犯的に「看板の掛け替え」をしているのです。

今年度の講演依頼と視察には際立った特徴があります。基礎自治体の議会研修や議会からの議員視察が非常に多くなっています。このことは、「館長VS局長」に先日アップしたばかりの「『可児モデル』をスケールアウトするために」(http://www.kpac.or.jp/column/kan71.html)にも書きました。昨日も姫路市議会の議員視察があり、姫路市に建設される2000席の大ホール、800席の中ホール、150席の小ホールはどのように運営・経営されるべきかの劇場経営とマーケティングに関する調査視察で、来年2月に議員研修を含めて対象を拡大した講演も予定されています。先日は岩倉市議会研修に向けての打ち合わせがあり、これも2月の議員・自治体研修が決まりました。今日は市川市議会からの来年2月の視察要請がありました。自治体議会の社会包摂型劇場経営への関心が高まり、理解が進むことで、「ハコモノ」化を回避して劇場ホールがすべての市民にとっての「新しい広場」になるのなら、と私のアーラでの使命に「社会包摂」の正しい理解を促進するために議会関係での講演や視察対応を丁寧に進めることを加えることにしました。

当然のことですが、自治体の議会関係者がこれだけ可児にいらっしゃるのは、建設計画のある施設の運営に関して可児の包摂型劇場経営のマネジメント及びマーケティング、創客経営のノウハウを導入したいとのお考えがあることと察しますが、現在稼働している劇場音楽堂等を「ハコモノ」から脱して教育・福祉・保健医療・まちづくりの「サービス給付」の拠点施設に転換できないかとの意向があるのだと感じています。むろん現在アーラで動いている「社会包摂プログラム」の成立過程や、その社会的投資によるインパクト効果の実証性を確認したいとの強い思いもあるに違いないと考えています。別の視角からみれば、とりわけ教育、福祉、保健医療にかかわる今後の財政負担の過重化をいかに軽減するかが自治体経営の重点施策になっているわけで、そのようなニーズに劇場音楽堂等の経営における発想のコペルニクス的転換がどのように機能するかに強い関心があるのだと推察しています。

前掲した『芸術文化行政と地域社会―レジデントシアターへのデザイン』で私は、「たとえば、福祉、教育、保健、保育、環境などの分野で、地方自治体に付託される役割は今後増大の一途をたどることは明白であり、同時に自治体の抱える財政事情は悪化する一方である。しかも、それらの住民ニーズが従来の政策的パラダイムで解決できるものでないことは火を見るよりも明らかだ。公共サービスのすべてを行政の供給に期待する時代は終わりつつある」と書きました。バブル崩壊後の新自由主義経済思想による苛烈なサバイブの時代が始まり、さらに97年から始まる自殺者急増の「前夜」に書いた文章であり、現在はさらに状況は悪化していると言えます。だからこそ、時代の要請として「文化芸術の社会包摂機能」がクローズアップされているのです。

四つ目の誤解は、二つ目と関連するのですが、 「文化芸術の社会包摂機能」が目指すのは「生きにくさ」や「生きづらさ」を抱え込んでいる人々を、一時的に慰撫して、一時的な安寧の心理状態にすることではないということです。「生きづらさ」や「生きにくさ」は精神的・社会的孤立によって生じる社会課題です。私は現代に特注的な社会的病理だと考えています。一般的に人間にとって孤立感を深める原因の大きな部分は、「必要とされない」、「自分の存在が誰の役にも立っていない」という、誰とも繋がっていないことによって生じるネガティブな心理状態にあると思っています。むろんその状態になる原因には障がいや貧困や疾病などによる「生きる意欲の喪失」があり、欠乏動機としての「承認欲求」への希求があります。そのことから派生するネガティブな「自己否定感」に囚われてしまうことが、社会からの孤立と脱落と、さらには社会への激しい憎悪を生むのです。秋葉原の通り魔大量殺人事件などがその例です。「文化芸術の社会包摂機能」には、その原因を根本的に除去する力はもとよりありません。

しかし、必要としてくれる「誰か」を発見する機会や、自分の存在が「誰か」の役に立っている実感を持てる機会を「助けて」と呟いている人に提供することは出来ます。マズローの「五段階欲求説」に沿って言えば、「所属と愛の欲求」と「承認欲求」の充足です。これらは「欠乏動機」であり、この欲求が充たされていないと人間には不安と緊張を感じて、安定した社会生活を送れなくなります。その欲求の充足により自己肯定感、自尊感情を持って「生きる意欲」を取り戻すことをサポートすることは文化芸術には出来るのです。文化芸術を媒介とするその機能は優れて突出していると言われています。「自立」というのは誰に頼ることなく一人で生きることではなく、より多くの頼れる人間関係を持っているということです。阪神淡路大震災の折に避難所で元気だったのは、「金持ち」より「人持ち」だった経験から、私はそう断言できます。

したがって、「社会包摂」は、あらゆる人々のポテンシャルに応じた自己実現の権利の保障と承認欲求の充足という生活重視のユニバーサル・デザインによる「全員参加のコミュニティづくり」の考え方であり、経済発展に寄与しないからと重度の障がい者を「経済的価値」のない存在として殺戮した津久井やまゆり園の確信犯のもつ社会的排除の思想とは真反対の、アンソニー・ギデンスの提唱した「積極的福祉」に隣接した考え方です。その社会思想の先には、「経済成長重視社会」から包摂的経済成長による、宇沢弘文先生や神野直彦先生の提唱する「生活重視社会」への転換が想定されるのではないでしょうか。「社会包摂」という考え方は、個のポテンシャルを、その人なりの環境に応じて発揮してもらって全員参加の新しい社会構築へ向かうものであることを、私たちはしっかりと意識し認識しなければならないのです。そのような社会構築に果たす文化芸術の社会的役割は決して小さくはないのです。

たとえば、子どもの貧困を事例として考えてみます。私が可児に非常勤で館長として赴任した2007年の可児市の生活保護世帯の保護率は、全国平均が11.7%だったのに比べて、わずかに0.13%でした。それが一昨年度には0.5%になっています。就学援助の受給世帯もたった2世帯だったのが、「私のあしながおじさんプロジェクトfor Family」で市学校教育課から求められた通知書に同封するチラシは200枚を超えています。児童扶養手当の受給児童は700人を超えています。わずか10年のあいだに、人口10万人の小さな地方都市でさえ貧困と社会的排除はただならぬ事態となっています。「6人に1人」は子供の貧困による人口に膾炙された数値になりましたが、「7人に1人」と「8人に1人」は知っていますか?「7人に1人」は就学援助を受給している子どもの数であり、「8人に1人」は基礎学力の不足で将来的に満足な所得を得られないとされる子どもの数です。

アーラは文学座の協力を得て、県立東濃高校の毎年40名前後で推移していた中途退学者を3年間で9人に減少することができました。それは社会的インパクト投資に用いられる社会的投資収益率の計算式を援用すると、概算で48億円の経済的損失をまぬがれたことになり、自治体の税収を12億8320億円、社会保障負担を8億5440万円押し上げたことになります。日本財団の『子どもの貧困の社会的損失推計レポート』によれば、学歴別の40歳時点の就業率を輪切りにしてみると、男性の中学卒の就業率は76.6%なのに対して高校卒になると89.9%になります。高校を中退してしまうと、4人に1人が無業者になり社会保障の受給者になってしまうというのです。高校を卒業するだけで、それが10人に1人になります。レポートでは、子供の貧困による社会的損失を定量化すると42兆9000億円と試算されており、そのうち高校中退によるものが10兆7000億円とされています。

東濃高校の先生から「この子たちを心の底から叱ってやれない、それはこの子自身よりも家庭に原因があるから」という呟きを耳にして、アーラは先の「私のあしながおじさんプロジェクトfor Family」を、会話のない家庭の真ん中に演劇や音楽という樹を一本植えて、それを見上げながら家族のコミュニケーションを取り戻そうと創設しました。失われつつある「家族の機能」を回復に向かわせようとする企図があります。コミュニケーションの集積がコミュニティであり、思い出の共有こそが家族の紐帯を再生して、「居場所としての家族」を形成すると考えたからです。さらには、可児市母子寡婦福祉連合会と提携して、ひとり親家庭の孤立を防ぐワークショップを開催しました。難しいワークショップですので、東濃高校を担当してもらった文学座の西川信廣氏と子育てママの2名の女優をサポートスタッフとして招いて、1時間程度のワークショップのあとに食事をしながら参加者と女優との語らいの時間を設けました。今年度はトライアウトとの位置づけで1回だけの開催でしたが、来年度からは年複数回、再来年度からは日本劇団協議会との共催で母子寡婦福祉連合会の協力を得て年4回程度の開催にとの計画があります。

なぜ、このようなワークショップが「必要とされる実感」や「存在が役に立っているという実感」
により、「他者の発見」を通して自己肯定感・自尊感情を醸成するのかと言えば、最近のトピックで言えば心理学者のアンジェラ・ダックワースが提唱している「グリット」(Grit)、すなわち共感指数(EQ)を含めた「やり抜く力」、「情熱の持続力」が他者と関わる過程で育まれるのだと私は考えています。この「Grit」は、前述した「所属と愛の欲求」と「承認欲求」という欠乏動機が充たされてはじめて獲得できる資質です。東濃高校の事例のみならず、フリースクール、支援学級等のワークショップの成果を検証すると、その個の潜在力が引き出され、「他者の発見」によって相乗的に有意に関係づくりがなされているのだと思えるのです。関係づくりのワークショップは3歳から5歳にかけて培われるとされるIQ(知能指数)は開発しませんが、よりよく生きるために必要な「Grit」という人間力は確実に底上げするのです。

この「Grit」は従来から家庭生活の中で醸成されると言われていましたが、昨今の社会の激変により「家族の機能不全」があらわになって、脳科学的に言えば前頭連合野の働きにより機能する社会性が育たないまま放置され社会の劣化を結果としてまねくことになっていると思われます。また、「Grit」は他者を介して開発される「やり抜く力」、「情熱の持続」、「共感する力」を喚起させる能力であり、競争至上主義によって不信感が社会を覆うようになると「個」が「孤」となり自己の能力を開発する契機が希薄になるのです。いわば「文化芸術の社会包摂機能」は他者を介して「自己治癒力」を充分に発揮して、自らのポテンシャルによって社会に参加する意欲を形成するという構造なのです。したがって、「社会包摂」は、ピーター・ドラッカーが『ポスト資本主義社会』の中で看破した「地縁・血縁」に変わるものとしての「知縁」による新しい社会と価値観への変化を生じさせる「処方箋」なのです。

すなわち、「社会包摂」という考え方は、もともとは障がいを持った人間は健常者と異なる存在とされ社会から完全に排除されていて、障がい児の教育も隔離された施設での「分離教育」がなされていたが、それへの批判としての障がい児へのノーマライゼーション教育から発展した概念であり、ノーマライゼーションの特徴の一つである「全ての人が共に生活できるように社会のあり方を変革する」という考え方が発展したものと考えられます。また、これらの社会政策的文化行政に投資される予算は、20世紀の政府機能の最大の発見である分断化を防いで民主的な社会を担保する「所得の再分配機能」として捉えられるべきだと、私は強調したいのです。公立の劇場音楽堂等は入場料や使用料は税金によって「プリペイド」されているわけで、社会包摂型のワークショップやアウトリーチに関わる参加費もまた、自治体から社会政策に関わる費用として「プリペイド」されているのです。すなわち、劇場音楽堂等は住民のウエルフェア=ウエルビーイングのための公的な投資のための「所得再分配」の装置であると私は考えています。

カジノ法案が衆院を通過した日に、日本財団主催の「第1回ソーシャル・イノベーション・フォーラム」でも討議されていた「休眠預金活用法」が成立されました。年間500億円から600億円が、子どもや若者の貧困による社会課題や日常生活に困難を抱えている人々や地域活性化の分野への投資的資金として交付されることになります。資金分配団体と指定活用団体の選定など制度の建付けはこれからですが、想定される指定活用団体の範囲に文化芸術団体や劇場音楽堂等が入っていないことに私は困惑を感じています。私たちの仕事は、新しい社会構築のためのものとしては「市民権」を得ていないのです。そのことに私は強い不満を感じています。(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_189.html)

しかし、その事実は文化芸術団体や劇場音楽堂等が、みずから持っている社会包摂という社会的機能に無関心であったということを如実に物語っているのです。それだけに前述した誤解と曲解と強弁はただちに改めなければなりません。来年度の概算要求で文化庁が示した「文化芸術創造活用プラットフォーム形成事業」(45.5 億円 ※前年度27.9億円)には「芸・産学官により持続的な地域経済の発展や社会的包摂の取組を牽引する地方自治体の総合的な取組を先進的文化芸術創造拠点として支援」という文言が書き込まれています。私は激変する社会にあって「社会的ニーズとしての文化芸術の社会包摂機能」が新しい社会構築のために要請されていると思っています。それだけに「社会包摂」に対する曖昧な定義と態度は即刻みずから改めなければならないと強く考えています。また、それが「一部の愛好者と特権階級のための施設という常識」をブレーク・スルーして「ハコモノからの脱却」を実現できると思っています。

私は「劇場音楽堂等活性化事業」の活動別支援にある「普及啓発事業」を「社会包摂事業」と表記すべきと提案しています。私たちに求められているのは、上から目線の「教育普及」でも「普及啓発」でもなく、まぎれもなく「社会包摂」であるという認識を共有しなければならない地点に立っていることを知らなければならないと考えます。むろん、コミュニティ・アーツワーカーはアーチストなら誰でもできるものではないし、誰もがやらなければならない仕事であるとは思いません。しかし、そのようなスキルを持っていることはアーチストとして誇るべきだし、そのような機能を期待されていることを劇場音楽堂等で働く私たちは強い使命感を持つべきだと思うのです。

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