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エッセイ

いまこそ「舞台芸術拠点による社会包摂推進法」の制定を ― 劇場経営から見るソーシャル・プログラムの効用。

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

「劇場法」(仮称)の論議が高まっていた時期の3月11日、東日本大震災が起こりました。18日に文化庁で予定されていた「劇場・音楽堂等の制度的な在り方に関する検討会」の第6回会合も急遽中止されました。有志館が集まって協議をしていた演劇部会、音楽部会も、しばらく開催していません。私個人の考えでは、いまこそ協議をすべき時ではないかと思っているのですが。「劇場法」(仮称)に深くかかわってきた者たちは、いま自分たちの思考を試されている、と私は考えています。「創造型劇場」、「鑑賞型劇場」、「交流型施設」という分類が、本当に社会を豊かにするのだろうか、と。そのように従来から考えられてきた「芸団協案」も「平田オリザ案」も、実は業界内改革に過ぎなく、本来、劇場・音楽堂が持っている社会との相互性を勘案している提案ではない、と私は思っています。

「業界内改革」はむろん間違ってはいません。それはそれで進めなければならない重い課題です。90年代の、後年度負担を顧みない、さらには設置後のマネジメントまでも無視したホール建設ラッシュの「ツケ」は、何時か、誰かが払わなければならないのは確かです。それは、当然、返り血を浴びるような改革になると思っています。しかし、私たち公立の文化施設関係者が、いま現実社会から突き付けられているのは、ドラッカーの吟味を待つまでもなく、「社会」、「コミュニティ」、「個人」と公立劇場・ホールの相互関連性です。今回の震災が私たちに突きつけたのは、「税金で設置し、税金で運営されている公立劇場・ホールが被災者を前にして無力なのは何故なのか」という、私たち劇場・ホール関係者への社会性と公益性に関する鋭い疑義の投げかけです。実はこれは、阪神淡路大震災でも、文化芸術の側の人間に投げかけられた課題でもあるのです。

被災した公立劇場・ホールが舞台設備面での総点検が迫られているのは理解します。当然です。万全な点検整備なしに舞台を使用することは危険極まりないことです。ならば、まちに出れば良いのではないでしようか。舞台が使えなければ身動きが取れない、という「事実」こそが、現在の日本の公立劇場・ホールの置かれている紛れもない「現実」なのです。舞台が使用できないと身動きが取れないなら、それは「興行会社」でしかないと思います。私たちは「興行師」ではありません。文化芸術は「人々の生活を豊かなものにする」と、アーチストをはじめ公立施設関係者、研究者は言い続けてきました。だから公的な支援を増額すべきと主張してきました。ならば、その「豊かさ」は何だったのでしよう。経済的な「豊かさ」でないのは言うまでもありません。「豊かさ」は、「心の健全さ」を指していたのではないでしょうか。ならば、「心」に深い傷を負った被災者を前にして、その「心の傷」に何ら働きかけのできない公立の劇場・ホールとは何なのか、と考えるのは私ばかりではないでしょう。

企業をはじめ、組織、団体は、すべて社会の機関である、とは現代経営学では常識的な知見です。ならば、公立の劇場・ホールもまた、社会機関であり、社会から超然たる存在であるはずはありません。社会への便益や効用が、その反作用として、企業・組織・団体の存在価値を生むのです。すなわち、その社会的便益と効用によって、社会からその存在を許されているのが、企業・組織・団体なのです。その便益や効用が社会の健全化を実現できてはじめて、それを供給する企業・組織・団体の経営の健全化が実現するのです。「超然と存在しない」ということは、そのことを指しているのです。

創造型事業、鑑賞型事業、コミュニティ・プログラム(アウトリーチ、ワークショップ、講座型事業)のすべてが、社会、コミュニティ、個人への便益であり、効用となっているかが、ここでは問われます。その前提に立脚すれば、公立の劇場・ホールもまた、社会やコミュニティや個人に文化サービスを供給して、その健全化や文化化を推し進めることで、相対的に劇場経営が健全化するという相互性のもとに存在を許されているのだと言えます。断っておかなければなりませんが、ここで言うところの「文化化」とは、音楽好きや演劇好きという意味ではありません。他者を思いやりと、自己肯定的な心を持ち、健全なコミュニケーションを交わせる自立したコミュニティという意味での「文化的社会」のことです。

だとするならば、社会・コミュニティ・個人の健全化や文化化に寄与していない公立劇場・ホールはどうなのか、ということになります。それこそが問題なのです。厳しいようですが、そのような施設は淘汰されてしかるべき施設だ、と私は考えます。「公」であることを放棄して、自治体からの資金を食い潰しているだけの施設だからです。社会・コミュニティ・市民から存在することを到底許されているとは思えないのです。論議されている「劇場法」(仮称)でやるべきは、このような公立劇場・ホールを俎上に乗せることです。「貴方達はこれまで何をしてきたか、そして、これから何をしようとするのか」を迫る法律であるべきです。公立劇場・ホールに社会の機関たることを求める法律であるべきです。

従来から論議されていた「劇場法」(仮称)が、創造型・鑑賞型・交流型への補助金額の多寡で格差をつける法律であったのに対して、私の考える法律は、極論すれば「存在に値しない劇場・ホールを淘汰する」ものとも言えるでしょう。各地域の特殊性に依拠する「使命」はそのままで、公立の劇場・ホールの普遍的な「使命」、存在意義を規定する法律であり、それを選択するか否かを各館に迫る法律であって良い、と私は考えています。そのような劇場・ホールは、国や国の機関からはもちろんのこと、都道府県からの補助も受けられない、きわめて「プライベートな施設」となります。成立させようとする法律は、「ハコモノ」であることを止める、と公立劇場・ホールがみずから意志表示をする内容であるべきと考えます。公共事業として無暗に建設されてしまい、マネジメントの責任を放棄している劇場・ホールを清算する法律です。「失われた30年」を取り戻すための法律と言っても良いでしょう。社会に便益も効用ももたらせないで大きな負債を背負った企業が市場から「退場」を命じられるように、地域社会に何の便益も効用ももたらさない劇場・ホールに、自治体行政からの「退場」を迫るわけです。これは決して理不尽なことではありません。地域経営に役に立たないばかりか、費用負担のみを与えて、コミュニティの健全化の投資とならない施設の「退場」は、当然過ぎる結果です。

ならば、法律で規定する普遍的な「使命」とはどのようなものなのか。社会・コミュニティ・個人の健全化とはどのようなことを指すのか。それは、「いのちの格差」のない社会です。政治理念で言えば「社会包摂」を目指すコミュニティ形成です。「違い」を豊かさとする社会です。所得格差があり、それが教育格差や医療格差などを生み、「差別」を醸成させる。そういう社会やコミュニティや個人からテイクオフすることを目指すことです。そのための政策手段としての公立劇場・ホールであることを、広く社会に宣言し、国民的な議論を引き起こす法律でなければならないと思います。私はそれを仮に「舞台芸術拠点による社会包摂推進法」と呼びます。「格差」をなくする制度は劇場・ホールには作れませんが、それによって生じる社会の歪みを是正することは、文化芸術にはできます。

「社会包摂」という用語が国民に馴染みがない、という意見もあります。これは、これは、障害や貧困、差別などによって社会から疎外・排除されてきた人々を、そのようなカテゴリーによってではなく、特別のニーズのある人々として捉え、それぞれのニーズに応じたサービスの提供を行うことによって、分断や格差を生み出す構造を解消し、全ての人が平等に社会に受け入れられるようにしていこうという考え方で、すでに2000年12月の厚生省(当時)社会・擁護局による「社会的な擁護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会」の報告書において、新たな福祉課題に対応するための方法を導く理念として「ソーシャル・インクルージョン(社会包摂)」が位置付けられています。必ずしも難しい用語ではなく、また新しい文言でもありません。福祉分野で使われていた、文化関係者には馴染みの薄い文言であるだけです。

さらに、この法律は、ソーシャル・プログラム(アウトリーチ、ワークショップ、講座型事業)の実施根拠となります。とりわけ、立法の副産物ではありますが、昨年、(財)地域創造から出された報告書『新・アウトリーチのすすめ/文化・芸術が地域に活力をもたらすために』にあるように、全体の25.9%の館が実施しているにもかかわらず「各地で取り組みが増えた一方で、単に<アーティストを派遣する>という手法のみが先行した形式的なアウトリーチに留まっているケースも少なくない」というアウトリーチの形骸化を是正し、ソーシャル・プログラムが、「高齢者福祉」、「障害者福祉」、「医療」、「多文化共生」、「国際化」、「観光」、「まちづくり」など他の政策分野への拡がりをもたらすことが予想されます。「社会・コミュニティ・個人が健全化されないかぎり、劇場・ホール経営は健全化されない」、立法の精神として心しなければならないことです。社会的責任経営(CSR=Corporate Social Responsibility)が企業・組織に求められる時代です。公立劇場・ホールが、その経営責任から例外的に存在することは出来ないことは言うまでもないことです。民間企業よりも、厳しく問われると私は考えます。

私が考える法律の概要を掲載して置きます。
あわせて、近日始まる新連載の第1回「カキの森の文化政策」を併せてお読みください。
http://www.kpac.or.jp/column/kan01.html

舞台芸術拠点による社会包摂推進法(仮称)
「前文」及び「条文文言」の趣意。

【前文の要諦】劇場・音楽堂の供給する文化・社会サービスの最終受益者である国民のコンセンサスを得るために国民に語りかける文体であるべきと考えた。本法は、業界の利害よりも、国民の利益を優先する。よって、「前文」 においては法律家の堅い法文調を排する。

【劇場・音楽堂の用語について】「劇場・音楽堂」の用語については、「文化芸術振興基本法」において「劇場・音楽堂」の文言が使われているおり、同法の特別法(個別法)として立法すると予想できる為、その整合性を鑑みて、ここでも「劇場・音楽堂」の文言を使用することが考えられる。むろん、「劇場・音楽堂」が公共ホール全般を指し示す語彙であることは言うまでもない。あるいは、概念規定を緩めるために「舞台芸術拠点」を文言として使用して、よって「文化芸術振興基本法」からの法律としての進化を表現することも考えられよう。

【立法の時代的必要性ならびに国民福祉(社会包摂)推進の根拠】国民の誰もが感じている時代認識・世界認識(格差社会化と階級社会化の進捗)を立法の前提として明確に規定することで、「舞台芸術拠点による社会包摂推進法」(仮称)の喫緊の必要性を提示する。社会が大きく変化する中で、劇場・音楽堂の社会的使命も「変化」することが求められている。ここでいう「社会包摂」とは、「いのちの格差」のない社会づくりを示し、「国民福祉」とは憲法第十三条に保障された「幸福追求権」と「自己実現の権利」であり、即ちすべての国民に保障されている「文化権」である。

【劇場・音楽堂の責務】劇場・音楽堂の「成果」とは何なのか。劇場・音楽堂が社会に存在する以上、その成果は逃れようもなく社会に現われる。すべての国民が音楽・演劇・ダンスのいずれかを選びとって鑑賞をする社会が劇場・音楽堂の成果の全体では決してない。選択財としての芸術文化は、あくまでも個人の嗜好に委ねられるものであり、その選択の自由は立法によって規制できないのは当然である。また、劇場・音楽堂での創造・鑑賞を法によって規制できないのも自明である。ではあるが、一方では劇場・音楽堂の、優れた舞台成果の創出という芸術的成果と、あわせて多様な「きずな」が健全に存在させ、「いのちの格差」のない社会を国民にもたらす社会的・公共的成果のアウトプットは、劇場・音楽堂(舞台芸術拠点)の公益的な存在としての必要な責務であり、社会的存在価値と考える。

【国民主権としての劇場・音楽堂】劇場・音楽堂は社会機関であり、「政策目的」ではなく「政策手段」である。竣工した時点で政策目的を達成できたと考えた施設があまりに多いことが、経営理念のない施設を生み、国民のあいだに「ハコモノ批判」を生んできた。本法は、「劇場・音楽堂とは何か」と規定する法律ではなく、劇場・音楽堂は「何をなすべきか・誰になすべきか・どうなすべきか、何を成果として考えるか」をデザインするものである。したがって、それを「前文」で明確に語り、国民的議論を待つべきと考える。劇場・音楽堂が働きかけるのは社会であり、その成果は社会にしか現われない。したがって、社会機関としての劇場・音楽堂の輪郭を際立たせた。「劇場・音楽堂とは何か」を決めるのは、構造的にも、法的にも、受益者たる国民でなければならない。我々当事者が自己規定するものでは決してない。

【国民の文化権の担保】劇場・音楽堂の「成果」とは何か。劇場・音楽堂は、演劇、音楽、ダンスの持つ社会的効用によって、国民の、あるいは市民個々が何らかの生活課題の創造的解決を図ろうとするニーズに応え、その「機会」を保障する機能を持つことに存在価値があり、その成果をアウトプットすることと、国民がそれをインプットすることで、はじめてすべての国民の「文化権」は担保されるのである。国民の「文化権」があまねく保障され、いのちに格差のない社会こそが、劇場・音楽堂の「成果」であると規定した。国民の「機会の平等」(イコール・アクセス)の保障である。

【劇場・音楽堂の社会的中核施設としての存立根拠】舞台芸術の芸術性のみを目的とする文化施設は公共的な施設の在り方からいって成果の偏在と言わざるを得ない。国民総体の健全生活を、さらには社会包摂の実現を担保する社会的中核施設としての「劇場・音楽堂」への転換を促し、その存在価値を国民と共有するように法は制定されるべきである。舞台芸術拠点は社会に存在する以上、社会機関であることは自明である。立法は、文化芸術が青少年の健全育成と国民総体の福祉に、さらには「いのちの格差」のない社会形成に寄与するものとの認識を国民と共有することを目指すべきと考える。したがって文化予算や文化への補助金・助成金は、人間・地域社会・国民生活への「投資」であるという意識を国民と共有したいと考える。

【劇場・音楽堂の職員の責務・研修機会の保障】本法は、劇場・音楽堂と社会の在り方の「未来のデザイン」を想定した法律であるべきである。現在する「我々」からしか将来の劇場・音楽堂には到達できないと考えれば、舞台芸術拠点の職員の意識改革が喫緊の課題であり、避けがたく必要であることが理解できる。何かを「変えよう」と思うなら「まず、自から変わる」ことが必須である。そのような「自己改革」(自己研鑚・研修機会の機会)を劇場・音楽堂の将来に向けた当該施設職員の責務と考える。

【設置者の責務、および指定管理者制度の扱い】劇場・音楽堂の設置者たる地方公共団体は、当該機関(舞台芸術拠点施設)が、その目的・使命を十全に果たすことのできるように経済的・制度的環境を整え、提携して、政府・自治体は、舞台芸術拠点施設が社会政策として共通する目的・使命を達成できるように努める責務を持つことを記した。本法の地方自治法の特別法としての成立は非現実的ではあるが、劇場・音楽堂の社会的責務を鑑みて、指定管理期間を長期間化する協働者としての責務を設置自治体の努力目標とする。

【立法の根拠】文化芸術基本法の「特別法」(個別法)として、第二十五条と第三十二条を基に、劇場・音楽堂の創造環境の整備と、教育機関、福祉機関、医療機関、多文化機関等の地域社会との連携による文化的サービスの供給と、憲法第十三条の「幸福追求権」と「自己実現の権利」を担保する施設として、舞台芸術拠点は国民福祉と社会包摂の推進を重要な社会的・公共的責務とする。

【専門家】「専門家の必置義務」は補助金制度の要項で対応する。

【立法と補助金制度との連携】法はあくまでも文化施設の社会的使命の明確化を目的として補助金の根拠法とはせずに、「専門家の必置」、および「実施自主制作事業本数・教育普及事業本数」、「利用者数」などの劇場・音楽堂の支援対象要件は補助要項で対処する。

【中小ホールへの文化庁の支援責務】すべての国民の文化権を保障する立法の精神から、遠隔地、離島等にもあまねく舞台芸術の果実が行き届くような支援の仕組み(たとえば、廃止された「舞台芸術の魅力発見事業」のような支援)を行うことを努力目標とする。

【総則】条文の展開と調子を規定するために(総則)のみを例示する。
第一章 総則 (趣 旨)
この法律は、「文化芸術振興基本法」の個別法として、劇場・音楽堂が優れた舞台成果の実現とともに、拠点機関の職員が社会的・公共的任務を果たすために必要となる環境整備への国の責務を明らかにするとともに、文化芸術振興基本法第二十五条と第三十二条に基づいた国の文化施策及び社会施策の実施機関としての使命と、地方公共団体の責務の基本を定めるものとする。

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