第七十六回 ala Collectionシリーズvol.10「坂の上の家」を振り返って/可児市文化創造センター

連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第七十六回 ala Collectionシリーズvol.10「坂の上の家」を振り返って

可児市文化創造センターala 事務局長 山口和己

過去の優れた戯曲に焦点を当て、俳優及びスタッフが可児市内に約1か月半滞在して演劇作品を制作し、可児での公演を皮切りに地方公演、そして東京へと巡業する『ala Collectionシリーズ』は、今年で10作目を数えることとなりました。 過日、東京での千秋楽を無事に終え、約2ヶ月半の一大事業が完了しました。 作者は松田正隆氏、演出は、文学座の若きエース、高橋正徳氏です。詳細はわかりませんが、作者の松田氏自身が上演を封印し続けてこられたものを衛館長が粘り強くお願いして、今回実現に至ったと聞きました。また、次のような逸話を知ることに至りました。

文学座の演出家であった故高瀬久男氏、今年が三回忌とのことです。この高瀬氏と衛館長はかつて仙台や広島で一緒になって舞台づくりをした仲で、以来親交を深めておられました。かつて衛館長の奥様が優れた作家であると高瀬氏に松田氏を紹介したところから、高瀬氏と松田氏のゆるぎない信頼関係が始まります。 一方、今回演出を担当した高橋氏は、文学座の研修生時代に、この戯曲を教材に高瀬氏の授業を受け、18年ぶりに当時のメモが残る戯曲を読み返し、高瀬氏が残した当時の言葉を再度確認することになったそうです。当時少々“劇場”に失望感を抱いておられた衛館長は、平田オリザ氏から、京都の時空劇場という劇団の松田という作家の作品が面白いと聞き、「長崎三部作」のうちの一作『紙屋悦子の青春』を読んで、将来の演劇の可能性を再認識できたと、述懐しておられます。「坂の上の家」は、この三部作のうちの第二作目の作品です。 そこで関係各位の想いを寄せて、ちらしの隅の作者、演出家を紹介するスペースに「高瀬久男氏に捧ぐ」と刷り込まれました。

舞台は長崎市の坂の上に建つ家、5年前の水害で両親を失った3人の兄妹が住んでいます。公務員の長男、予備校生の次男、高校生の妹の3人。この3人のいつも変わらない日常生活が営まれる中で、両親の命日に長男が恋人を連れて来たり、お盆には、例年通り大阪に住む独身の叔父さんがたくさんのお土産を持ってやってきます。 いつもと変わらないような慌しい朝食、出勤・登校の様子、どこにでもある家庭の中での生活感、兄妹間の思いやりが漂う場面が展開され、兄の恋人に寄せる兄妹たちの緊張や親近感、叔父さんとの昔の思い出話。全てが同じ居間で演じられていきます。 ところが、長男が恋人から突然一方的に婚約解消を告げられ、一方では次男が相談もなく予備校を辞めて料理人になると言い出します。こんな家庭内の事件がきっかけとなって、お盆や両親の死を背景にしながら、さりげなく反戦や根強く残る社会的差別という大きなテーマに静かに切り込んでいきます。

この両親をなくした長崎大水害は、1982年7月23日に起きました。それから5年経過したということで、この物語は1987年、すなわち昭和62年の夏という時代設定で作られ、今から30年ほど前ということになります。 九州地方では、近年においても大水害や大地震など、自然災害がたびたび発生しており、さりげなく劇中で表現された被爆者や人種による差別と同様、あらゆる社会的差別は現在でもなくなっていません。 初演から25年ほど経過しているものの、今、この現代にあっても重く訴えるものがあるようで、非常に心を揺さぶられたのは私だけではなかったと思います。

8月30日、俳優、スタッフが可児に集結し、顔寄せが行われました。関東地方がほぼ1ヶ月間、異常気象で日照時間がほとんどなく、季節が夏と思えないような状況下、可児ではまだまだ残暑厳しい日が続き、私は、関係者の皆さんを歓迎する挨拶の中で、「まさに長崎の暑い夏を肌に感じながら、これからの1ヶ月半にわたる可児での稽古から本番までを過ごしてください」などと言ったことを覚えています。 いよいよ、このアーラの演劇ロフトを稽古場として、演劇づくりが開始されました。ala Collectionの制作は、毎年このスタイルで、演劇ロフトにおいて、台本の読み合わせから始まり、徐々にセットの仕込み、衣装着用等の段階を踏んで、本番仕様に持って行きます。本番より約1週間前にセットごと劇場に移り、仕上げの稽古、音響、照明合わせ、そして、ゲネプロ、本番初日へと移行します。

ある程度日程が進み、演劇ロフトへのセットの仕込みも完了した頃、場面ごとの稽古がなされる中、稽古風景を見学しました。この演劇は、とても食事の場面、ビールや麦茶を飲む場面が多く、稽古のたびに出演者は、実際に食すことになります。皿うどんの場面など、観客側からの盛り付けの見え方、取りよそいやすい盛り方など演出家、俳優、舞台担当、みんなが集まって議論がなされます。私は、こうした細かい部分にも細心の注意を払う姿勢にプロ意識を見た気がしました。 そういえば、皿うどんのことで、1つエピソードが生まれました。稽古から本番まで、即席の皿うどんをある市内のスーパーで調達していたのですが、あまりにたくさん売れることから、そのスーパーが皿うどんの特売セールイベントを華々しく宣伝して展開した直後、まさに「坂の上の家」の可児公演が終了し、地方公演に移ってしまい、スーパーの関係者がとても落胆したというものです。この話を後に舞台の担当者から聞き、非常に笑えたとともに、ala Collectionが町の経済効果アップに少なからず貢献していることをチラッと感じました。

また、この作品は、「間」というものが大事にされている印象があります。これは演出の高橋氏の思いなのか、作者の意図していることなのか、台本を読んだだけでははっきりとはわかりません。しかし、ビールや麦茶を飲む前後の間などは作者の思いのようにも思えますが、その他は演出の仕方のようにも思えます。これは、作者の松田氏と故高瀬氏とのあ・うんの呼吸で生まれ、それが演出の後輩である高橋氏に引き継がれたものかもしれません。 確かに、高橋氏は、18年ぶりに高瀬氏の授業で使用した戯曲を読み返したことを言う一方で「メモしたことを読み返すまでもなく、全て自分の体の中に取り込まれている。また、演出する際の自分の言葉の一部は、高瀬氏の言葉を役者に伝えているようなもので、その言葉の受け渡しの瞬間に起きる化学反応が未来を変えていく。」というような表現を使って、演出家の役割を表わしておられます。 だから、おそらく、高瀬氏の演出したものと今回高橋氏の演出したものは、違うところもあるかもしれませんが、大事なところでは同じものを伝えている、と言えるのではないでしょうか。

プロデューサーの衛館長は、この作品の世界を純粋に観客に提供するため、テレビや映画で名の売れた俳優を敢えて起用せず、いい意味での色のついていない俳優を配しての制作を断行しました。その分、営業、集客といった点においてはかなり苦労をしましたが、劇場をあとにする観客の皆さんの表情は、心底演劇の世界に入り込み、演劇を堪能した、といった表情に溢れていました。中には、「これまでの作品を全て観たけど、一番よかったかもしれない!」という人まで。まさに衛プロデューサーの狙い通りといったところでしょうか。 東京公演においても、初日段階では、残席がかなり目立ったようでしたが、口コミで広がったのか、日を追うごとにチケットが満席になるほどに売れていったと聞きました。 冒頭にも記しましたが、今回、ala Collectionは10作目でしたが、今後もこの可児市文化創造センター・アーラの基幹となる1つの事業として、連綿と続けて制作できるよう、スタッフ一丸となって邁進していきたいと改めて感じました。




 

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