第七十五回 映画に感化されて/可児市文化創造センター

連載 館長 vs 局長	「公共劇場」へ舵を切る その理念と経営の実際

第七十五回 映画に感化されて

可児市文化創造センターala 事務局長 山口和己

少し前の話になりますが、8月も半ば、夏真っ盛りのある日のお昼前、アーラではこんな光景が見られました。水と緑の広場では、日陰を中心に20人ほどの成人男女が各々の携帯電話を一心に眺め、時折歩いては止まり、止まっては歩いている様子、中には夫婦連れかのような中年カップル、ある男性は子連れなのに子どもそっちのけで画面のほうに熱中。みんなが「ポケモンGO」にはまり込んでいる様子。噴水池には幼い子どもたちが全身ずぶぬれになって水をかけあいながらはしゃいでいる。ロビーに目を移せば、中高生たちが机の上に参考書やノートの勉強道具を広げている。夏休みの宿題なのか、受験勉強なのか、一人で黙々とやる子もいれば、2・3人で静かに勉強に勤しんでいる子達もいる。一方、DVD視聴エリアでは、おじいさんがヘッドホーンを付けて、白黒画面の時代劇に見入っている。暑い夏、アーラはいつも通りにクールシェアに貢献しながら市民の拠りどころとなり、平和な雰囲気につつまれていました。 時間が経過し、9月の声を聞く頃となり、昼間の残暑は相変わらず厳しいものがありますが、このアーラ周辺では特に朝夕、秋の気配が漂うようになりました。出勤して車を止め、車のドアを開けた瞬間に浴びせられていた、けたたましいセミの声のシャワーがある日を境にピタリと止まり、少し涼しげな風の中、コオロギなどの秋の虫の優しい鳴き声が、耳に囁いてくるようになりました。

アーラに配属となり、2年半ほどが経過しました。人と自然が調和する環境の中、鑑賞体験や市民交流の機会を求めて、あるいは静かに自分を見つめ直そうと思う人が集うこのエリアは、ちょっと大袈裟かもしれませんが、現代社会のなかの様々な煩わしさから逃れられるオアシスのような存在になりつつあるように思えます。 私自身も、仕事場ではあるものの、この恩恵を受けて、より穏やかになってきたような気がします。

先日、休館日を利用して久しぶりに家内とともに映画に出かけました。数ある作品の中で私たちが選んだのは『関ヶ原』です。 司馬遼太郎氏原作の「関ヶ原」を原田眞人氏が脚本・監督を務めた作品で、約2時間半にわたる作品です。主役に徳川家康ではなく、西軍を率いて敗者となった石田三成を据えることによって、私にとっては、より全体が見え、東西それぞれの武将たちの思惑なども見えて、これまでの「関ヶ原の戦い」のイメージとは異なって、ダイナミックに迫り、おおいに心を揺さぶられたような気がします。 正義と不義、動と静、本音と建前、欲と無欲、愛と憎悪、こうした相反する様々な要素がふんだんに盛り込まれ、気の抜けない、興奮の連続する2時間半を経験しました。事前に買って入ったお菓子も一切食べる間もなく、コーラも半分以上を残して氷が解け、薄く炭酸の抜けたものになってしまいました。

石田三成が、西軍の旗印に用いようと考え出した「大一大万大吉」について、想いを寄せる伊賀くの一“初芽”に説明する場面があります。「一人が万人のために、万人が一人のために尽くせば、天下全ての者が幸せになれる」と説き、平和な世の中の実現を思い描くのです。 また、東軍の動きを探ることを初芽に命じたのち、その後を追いかけて、必ず生きて帰ること、戦いに勝利したら、一緒にどこかに旅立とうと告げます。 私がこれまで抱いていた石田三成像とは大きく違っています。 勝者、すなわち徳川方の目線で作られた関ヶ原の合戦に登場する石田三成は、独りよがりで、嫌われ者で、淀殿に擦り寄り、究極は豊臣秀頼が淀殿と石田三成との間に出来た子だという設定までもがされてきました。 史実と言われるものがどこまで真実であるのか、どこまでが正直な気持ちで本音の部分なのか、疑ってしまえば切りのないことですが、本作品の原作者である司馬遼太郎氏の解釈が正しいものとの前提で、私はこの作品の中に入り込み、様々な事象を現在の状況と比較するに至りました。

今の社会は、何が正義で何が不義であるのか、見えづらくなっています。勧善懲悪の時代劇のように簡単にいかないのが現実であることは確かですが、あまりにも力を誇示しての正義、ゴリ押しの正義が横行している感があります。アメリカのトランプ政権、北朝鮮のミサイル乱発や核実験、日本においても「森友学園」、「加計学園」に絡む疑惑など、「正義」・「公正」の名の下に事が進められ、大きな騒動に発展してしまっています。 これほど大きなことではないにしろ、身近な生活の中でも、誰でもが程度の差はあるものの、日々経験していることではないでしょうか。 

特に石田三成が主張した「義」とは、そして「正義」とは何か。「義」については、自身を取り立ててくれた豊臣秀吉への忠誠心であり、それが道理であり、人間の行うべき筋道であると考えたのだと思います。そして「正義」とは、「義」を実践する中で利害を捨てて条理に従い、人道・公共に尽くす姿勢を表していたのではないかと思います。 豊臣の世は、一見天下を統一したかの状況はあっても、それは利害の上に成り立っており、三成は「義」を重んじながらも、「正義」を以ってこの世を変えようと考えていました。そのような中、露骨に天下取りへの野望を抱く徳川家康は「不義」の代表ということであったのでしょう。 三成から「三顧の礼」的に厚遇を以って家臣となった島左近も「天下悉く利に走るとき、ひとり逆しまに走るのは男としておもしろい」と、三成の説く「正義」に惹かれ、三成の描いた未来に託そうと考えたのだと思います。

義と不義の対立、正義と野望の激突という形で、この天下分け目の関ヶ原の戦いが繰り広げられたわけですが、結果は、誰もが知っている小早川秀秋率いる軍勢の裏切りで一進一退の戦いが一気に動き、6時間ほどの短時間で勝敗が決しました。 この映画による、この戦いのみを見れば、明らかに三成が正義で家康が悪者。しかし、歴史はそうなっていない。過程はいろいろあるものの、東軍が勝利し、その後、徳川家康の江戸幕府による平和な時代が実現したのですから、徳川家康は戦乱の世の中を終結させた英雄ということになってくる。奇しくも三成が描いた太平の世の中が、敵に屈したことで実現した形となったわけです。

正義は必ず勝つ。勝ってほしい。と言うのが私の思いであり、見えざる手によって最終的にはそうなると信じてきましたが、そう思えなくなってきた昨今の現実もあり、まさにそんな折に、1つの事例として目の前に突き付けられた心境です。 もともと戦国の世に「正義」も「不義」もあったものではないかも知れません。武士同士お互いの義理を重んじて動くことはあっても、最終的に生き残ったものが「正義」であって、生やさしい正義感は、かえって命取りであったかもしれません。さしずめ、私などは、戦国の世なら真っ先に死んでいるタイプかもしれません。 過去の教訓から学び、現代はそうあってほしくないところですが、悲しいかな、人間は過ちを繰り返す動物なのでしょうか。現代においても、正義は、強者のみが主張できるものなのでしょうか。 エンディングの場面では、磔台に縛られた三成が、声高に「これぞ正義なり!」と言います。私も三成と同じような心境で最期を迎えられたらしあわせかなと思いました。

実は可児市には、映画館というものがありません。ですから、可児市民は近隣市の映画館へ出かけていかねばならないのですが、アーラには、100席という小さなものですが、「映像シアター」というミニ映画館を備えており、毎月行う「アーラ・キネマ倶楽部」には市民をはじめ逆に近隣市からも多くの人が鑑賞に訪れます。 3ヵ月ごとにテーマを設定し、かつての名作や話題作を厳選し、毎月1本の映画を上映、また、秋には「映画祭」を開催し、選び抜いた複数作を集中的に上映しています。これまでのテーマは、「戦争と平和」、「人生」、「家族」、「古きよき映画」、「家族のかたち」、「音楽」、「愛の距離」といった感じです。 最新作等は他の映画館にお任せし、アーラでは、こうしたかつての名作や話題作を一般900円、18歳以下半額の450円という安価な価格で提供しています。

最後は、ピーアールのようになってしまいましたが、映画にしろ、音楽、演劇、舞踊、伝統芸能、演芸などあらゆる分野で、市民をはじめ利用者の方々の心を揺さぶるような機会をアーラが提供できればいいと考えています。




 

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